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翻訳【14】

パータリヤの経

或る時のことです。世尊は、コーリヤ〔国〕に住んでおられます。コーリヤ〔国〕には、ウッタラという名の町があります。そこで、まさに、パータリヤ村長が、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、パータリヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と。尊き方よ、すなわち、『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と、このように言った、それらの者たちですが、尊き方よ、どうでしょう、彼らは、世尊の説いたことを説く者たちですか。かつまた、世尊を事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。尊き方よ、まさに、わたしたちは、世尊を誹謗することを欲する者たちにあらず」と。「村長よ、すなわち、『沙門ゴータマは、幻術を知っている』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、まさしく、そして、わたしの説いたことを説く者たちとして〔世に〕有ります。かつまた、わたしを事実ならざることによって誹謗していません。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしています。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはありません」と。「ああ、まさに、まさしく、真に、わたしどもは、信を置きません⸺それらの沙門や婆羅門たちの『沙門ゴータマは、幻術を知っている』『ああ、まさに、沙門ゴータマは、幻術師である』〔という、この言葉に〕」と。「村長よ、いったい、まさに、或る者が、『わたしは、幻術を知っている』と、このように説くなら、その者は、『わたしは、幻術師である』と、このように説きますか(幻術を知る者は、誰もが皆、幻術師となるのか)」と。「世尊よ、まさしく、そのように、それは有ります。善き至達者たる方よ、まさしく、そのように、それは有ります」と。「村長よ、まさに、それでは、まさしく、あなたに、ここにおいて問い返しましょう。すなわち、あなたのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。

村長よ、それを、どう思いますか。あなたは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちを知っていますか」と。「尊き方よ、わたしは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちを知っています」と。「村長よ、それを、どう思いますか。コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、何を義(目的)とする者たちですか」と。「尊き方よ、そして、すなわち、それらの者たちが、コーリヤ〔国〕の盗賊たちであるなら、彼らを制止することであり、さらに、すなわち、それらの者たちが、コーリヤ〔国〕の使者たちであるなら、彼らを運ぶことです。尊き方よ、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、このことを義(目的)とする者たちです」と。「村長よ、それを、どう思いますか。あなたは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、彼らが、あるいは、戒ある者たちであるか、あるいは、劣戒の者たちであるかを、知っていますか」と。「尊き方よ、わたしは、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っています。さらに、それらの者たちが、世において、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるなら、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちは、それらの者たちのなかの或る誰かです」と。「村長よ、いったい、まさに、或る者が、『パータリヤ村長は、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っている』と、このように説くなら、いったい、まさに、彼は、『パータリヤ村長もまた、劣戒にして悪しき法(性質)ある者である』と、正しく説きつつ説くべきですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず。尊き方よ、他なる者たちとして、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちはあり、他なる者として、わたしは存しています。他なる法(性質)ある者たちとして、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちはあり、他なる法(性質)ある者として、わたしは存しています」と。「村長よ、まさに、あなたは、〔結論を〕得るでしょう。『パータリヤ村長は、コーリヤ〔国〕の垂れた髻の傭兵たちが、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちであるのを知っている。しかしながら、パータリヤ村長は、劣戒にして悪しき法(性質)ある者ではない』と。何ゆえに、如来が、〔結論を〕得ないというのでしょう。『如来は、幻術を知っている。しかしながら、如来は、幻術師ではない』と。村長よ、そして、幻術を、かつまた、幻術の報いを、わたしは覚知します。さらに、幻術師が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。

村長よ、そして、命あるものを殺すことを、かつまた、命あるものを殺すことの報いを、わたしは覚知します。さらに、命あるものを殺す者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、与えられていないものを取ることを、かつまた、与えられていないものを取ることの報いを、わたしは覚知します。さらに、与えられていないものを取る者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを、かつまた、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないの報いを、わたしは覚知します。さらに、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、虚偽を説くことを、かつまた、虚偽を説くことの報いを、わたしは覚知します。さらに、虚偽を説く者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、中傷の言葉を、かつまた、中傷の言葉の報いを、わたしは覚知します。さらに、中傷の言葉ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、粗暴な言葉を、かつまた、粗暴な言葉の報いを、わたしは覚知します。さらに、粗暴な言葉ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、雑駁な虚論を、かつまた、雑駁な虚論の報いを、わたしは覚知します。さらに、雑駁な虚論ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、強欲〔の思い〕を、かつまた、強欲〔の思い〕の報いを、わたしは覚知します。さらに、強欲〔の思い〕ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を、かつまた、憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕の報いを、わたしは覚知します。さらに、憎悪している心の者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。村長よ、そして、誤った見解を、かつまた、誤った見解の報いを、わたしは覚知します。さらに、誤った見解ある者が、実践したそのとおりに、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するなら、そして、それを、〔わたしは〕覚知します。

村長よ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する。彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と。

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者(敵対者)を打ち負かして、生命を奪ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。

村長よ、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、〔彼の〕頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王に怨みがあり、あるいは、女の、あるいは、男の、生命を奪ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。

村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、命あるものを殺すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「尊き方よ、虚偽です」〔と〕。「また、すなわち、虚妄を〔談じ〕、虚偽を談じる、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、戒ある者たちですか、あるいは、劣戒の者たちですか」と。「尊き方よ、劣戒の者たちです」〔と〕。「また、すなわち、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、正しい実践者たちですか、あるいは、誤った実践者たちですか」と。「尊き方よ、誤った実践者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った実践者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、誤った見解ある者たちですか、あるいは、正しい見解ある者たちですか」と。「尊き方よ、誤った見解ある者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った見解ある者たちである、それらの者たちですが、いったい、彼らにたいし、清信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者を打ち負かして、宝を運び去ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、あるいは、村から、あるいは、林から、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、与えられていないものを取るなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「……略……いったい、彼らにたいし、清信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王の義(利益)に反する者たちの妻たちにたいし、関係を持ったのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ……略……欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で……略……城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、良家の婦女たちにたいし、良家の少女たちにたいし、関係を持ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誤って行なうなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「……略……いったい、彼らにたいし、清信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しんでいる者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、王を、虚偽を説くことで笑わせたのだ。彼に、わが意を得た王が、褒美を与えたのだ。それによって、この男は、花飾をつけ、耳飾をつけ、善く沐浴し、善く塗油し、髪と髭を整え、欲望〔の対象〕である婦女たちとともに、思うに、王であるかのように楽しむのだ』と。

村長よ、また、まさに、ここに、一部の者で、堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切られつつある者が見られます。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、何を為したのだ。堅固な縄で後ろ手にきつく結縛を結び縛って、刈り上げ頭に為して、銅鼓の騒音とともに、道から道へ、十字路から十字路へと遍く導いて、南の門をとおり、城市の南から出て、頭を断ち切るとは』と。〔まさに〕その、この者のことを、〔人々は〕このように言います。『ああ、この男は、あるいは、家長の、あるいは、家長の子の、義(利益)を、虚偽を説くことで壊し去ったのだ。それによって、彼を、王たちが捕捉して、このような形態の行罰刑を執行するのだ』と。村長よ、それを、どう思いますか。さて、いったい、あなたは、このような形態のものを、あるいは、見たことがありますか、あるいは、聞いたことがありますか」と。「尊き方よ、わたしどもは、そして、見たことがありますし、さらに、聞いたこともありますし、かつまた、聞くことにもなるでしょう」と。「村長よ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、『彼が誰であれ、虚偽を話すなら、その全てが、まさしく、所見の法(現世)において、苦痛と失意を得知する』と、彼らは、あるいは、真理を言っているのですか、あるいは、虚偽を〔言っているのですか〕」と。「尊き方よ、虚偽です」〔と〕。「また、すなわち、虚妄を〔談じ〕、虚偽を談じる、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、戒ある者たちですか、あるいは、劣戒の者たちですか」と。「尊き方よ、劣戒の者たちです」〔と〕。「また、すなわち、劣戒にして悪しき法(性質)ある者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、正しい実践者たちですか、あるいは、誤った実践者たちですか」と。「尊き方よ、誤った実践者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った実践者たちである、それらの者たちですが、彼らは、あるいは、誤った見解ある者たちですか、あるいは、正しい見解ある者たちですか」と。「尊き方よ、誤った見解ある者たちです」〔と〕。「また、すなわち、誤った見解ある者たちである、それらの者たちですが、いったい、彼らにたいし、清信するに健全なるものがありますか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕

「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、わたしに、休息堂が存在します。そこにおいて、臥床が存在し、坐が存在し、水瓶が存在し、油の灯明が存在します。そこにおいて、すなわち、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、住を過ごすなら、わたしは、彼に、能のままに、力のままに、分け与えます。尊き方よ、過去の事ですが、種々なる見解があり、種々なる受認があり、種々なる嗜好がある、四者の教師たちが、その休息堂において、住に入りました。

一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。

一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。

一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも⸺為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない』と。

一者の教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者です。『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら⸺為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と。

尊き方よ、〔まさに〕その、わたしには、まさしく、疑いが有り、疑惑が有りました。『いったい、まさに、これらの尊き沙門や婆羅門たちのなかの、誰が、真理を言っているのか、誰が、虚偽を〔言っているのか〕』」と。

「村長よ、まさに、あなたには、疑うに十分なるものがあり、疑惑するに十分なるものがあります。また、そして、疑うべき状況において、あなたに、疑惑が生起したのです」と。「尊き方よ、世尊にたいし、このように清信した者として、わたしはあります。世尊は、すなわち、わたしが、この疑いの法(性質)を捨棄するように、そのように、わたしに、法(教え)を説示することができる」と。

「村長よ、〔十の〕(性質)による禅定が存在します。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。村長よ、では、どのようなものが、〔十の〕(性質)による禅定なのですか。村長よ、ここに、聖なる弟子が、(1)命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者と成ります。(2)与えられていないものを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者と成ります。(3)諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないを捨棄して、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離間した者と成ります。(4)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者と成ります。(5)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者と成ります。(6)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者と成ります。(7)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者と成ります。(8)強欲〔の思い〕を捨棄して、強欲〔の思い〕なき者と成ります。(9)憎悪〔の思い〕と憤怒〔の思い〕を捨棄して、憎悪していない心の者と成ります。(10)誤った見解を捨棄して、正しい見解ある者と成ります。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない」「祭祀された〔供物の果〕は存在しない」「捧げられたもの〔の果〕は存在しない」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない」「この世は存在しない」「他の世は存在しない」「母は存在しない」「父は存在しない」「化生の有情たちは存在しない」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在する」「祭祀された〔供物の果〕は存在する」「捧げられたもの〔の果〕は存在する」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する」「この世は存在する」「他の世は存在する」「母は存在する」「父は存在する」「化生の有情たちは存在する」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも⸺為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈愛〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく慈愛〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら⸺為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、慈悲〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。……略……歓喜〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。……略……。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在しない」「祭祀された〔供物の果〕は存在しない」「捧げられたもの〔の果〕は存在しない」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない」「この世は存在しない」「他の世は存在しない」「母は存在しない」「父は存在しない」「化生の有情たちは存在しない」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「布施された〔施物の果〕は存在する」「祭祀された〔供物の果〕は存在する」「捧げられたもの〔の果〕は存在する」「諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する」「この世は存在する」「他の世は存在する」「母は存在する」「父は存在する」「化生の有情たちは存在する」「すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも⸺為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう。

村長よ、それで、まさに、その聖なる弟子は、このように、強欲〔の思い〕が離れ去り、憎悪〔の思い〕が離れ去り、等しく迷乱なき者となり、正知と気づきの者となり、放捨〔の思い〕を共具した心で、一つの方角を充満して、〔世に〕住みます。そのように、第二〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第三〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。そのように、第四〔の方角〕〔充満して、世に住みます〕。かくのごとく、上に、下に、横に、一切所に、一切において自己たることから、一切すべての世を、広大で莫大で無量にして怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なく放捨〔の思い〕を共具した心で充満して、〔世に〕住みます。彼は、かくのごとく深慮します。『すなわち、この教師は、このような論ある者であり、このような見解ある者である。「為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら⸺為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する」と。それで、もし、その尊き教師に、真理の言葉があるとして、すなわち、わたしは、何であれ⸺あるいは、動くものも、あるいは、動かないものも⸺悩ますことはなく、わたしの〔その〕純潔性によって、〔この世とあの世の〕両所において、ここにおいて幸運を掴み取る者となる。そして、すなわち、身体によって統御された者として、言葉によって統御された者として、意によって統御された者として、〔わたしは〕存しているのであり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう』と。彼には、歓喜が生じます。歓喜した者には、喜悦が生じます。喜悦の意ある者には、身体が静息します。静息の身体ある者は、安楽を感受します。安楽ある者には、心が定められます。村長よ、これは、まさに、〔十の〕(性質)による禅定です。そこで、もし、あなたが、〔無量の〕心の禅定を獲得するなら、このように、あなたは、この疑いの法(性質)を捨棄するでしょう」と。

このように説かれたとき、パータリヤ村長は、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、すばらしいことです。……略……今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者として」と。〔以上が〕第十三となる。

村長に相応するものは〔以上で〕完結となる。

その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「狂暴な者、プタ、軍人、象と馬、刀師、説示、法螺貝と家、マニチューラ、バドラとラーシヤとパータリがあり、〔それらの十三がある〕」と。

注釈【1】