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翻訳【15】

サビヤ・カッチャーナの経

或る時のことです。尊者サビヤ・カッチャーナは、ニャーティカ〔村〕に住んでいます。煉瓦作りの居住所において。そこで、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者が、尊者サビヤ・カッチャーナのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者サビヤ・カッチャーナを相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、ヴァッチャ姓の遍歴遊行者は、尊者サビヤ・カッチャーナに、こう言いました。「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有る』」と。「貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に有ることがない』」と。

「貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない』」と。「貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか」と。「ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない』」と。

「『貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない」』と、〔あなたは〕説きます。『貴君カッチャーナよ、また、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『ヴァッチャよ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」』と、〔あなたは〕説きます。貴君カッチャーナよ、いったい、まさに、何を因として、何を縁として、それによって、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのですか」と。「ヴァッチャよ、あるいは、『形態ある者である』と、あるいは、『形態なき者である』と、あるいは、『表象ある者である』と、あるいは、『表象なき者である』と、あるいは、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である』と、報知するための、そして、それが因であるとして、さらに、それが縁であるとして⸺かつまた、その因も、かつまた、その縁も、一切によって一切にわたり、一切の点において一切にわたり、完全に残りなく止滅するなら、何よって、彼のことを、あるいは、『形態ある者である』と、あるいは、『形態なき者である』と、あるいは、『表象ある者である』と、あるいは、『表象なき者である』と、あるいは、『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である』と、報知しつつ報知するというのでしょう」と。「貴君カッチャーナよ、〔あなたが〕出家者として〔世に〕存し、どれだけの長さとなりますか」と。「友よ、長くはありません。三年です」と。「友よ、たとえ、その者に、このことが⸺これだけ〔の年〕で、まさしく、これだけ〔の答え〕が存するなら、それはまた、彼にとって、多きものとしてあるでしょう。このように、すばらしいことについては、また、何の論があるというのでしょう」と。〔以上が〕第十一となる。

説き明かされないものに相応するものは〔以上で〕完結となる。

その〔相応するもの〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「ケーマー長老尼、アヌラーダ、サーリプッタ、かくのごとく、コッティカ、そして、モッガッラーナ、さらに、ヴァッチャ、公会堂、アーナンダ、第十一のものとして、サビヤがあり、〔相応するものとなる〕」と。

六つの〔認識の〕場所の部(六処篇)が第四となる。

その〔部〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「六つの〔認識の〕場所と感受、女性、ジャンブカーダカ、サーマンダカ、モッガッラーナ、チッタ、村長、形成されたものではないもの、説き明かされないものがあり、ということで、十種となる」と。

六つの〔認識の〕場所の部のサンユッタ聖典は〔以上で〕終了となる。

注釈【1】