そこで、まさに、大勢の比丘たちが、早刻時に、着衣して鉢と衣料を取って、サーヴァッティーに〔行乞の〕食のために入りました。(〔以下は〕教相の経と等しきものとなる。)
「比丘たちよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、どのような覚りの支分の修行のための時ではなく、どのような覚りの支分の修行のための時なのですか。また、友よ、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、どのような覚りの支分の修行のための時ではなく、どのような覚りの支分の修行のための時なのですか』と。比丘たちよ、このように尋ねられた〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、まさしく、そして、解答できず、さらに、より以上の悩苦を惹起するでしょう。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、すなわち、そのように、〔これらの問いは、彼らの〕境域ならざるところにあるからです。
比丘たちよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、すなわち、これらの問いへの説き明かしによって、〔問い手の〕心を喜ばせる、〔まさに〕その者を、あるいは、如来より他に、あるいは、如来の弟子より〔他に〕、また、あるいは、この〔教え〕を聞いて〔納得した者より他に〕、わたしは見ません。
比丘たちよ、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです(畏縮したままとなる)。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、小さな火を燃やすことが可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時ではなく、禅定という正覚の支分の修行のための時ではなく、放捨という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ難きものと成るからです。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時であり、精進という正覚の支分の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、小さな火を燃やすことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、小さな火を燃やすことが可能ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、畏縮した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時であり、精進という正覚の支分の修行のための時であり、喜悦という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、畏縮した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、現起させ易きものと成るからです。
比丘たちよ、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです(高揚したままとなる)。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存するとします。彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の乾燥した草を投げ入れ、かつまた、諸々の乾燥した牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の乾燥した薪を投げ入れ、そして、口から風を送り、さらに、砂を振りまかないなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか」と。「尊き方よ、まさに、このことは、さにあらず」〔と〕。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、法(真理)の判別という正覚の支分の修行のための時ではなく、精進という正覚の支分の修行のための時ではなく、喜悦という正覚の支分の修行のための時ではありません。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ難きものと成るからです。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、大いなる火の塊を消すことを欲する人が存し、彼が、そこにおいて、まさしく、そして、諸々の水気のある草を投げ入れ、かつまた、諸々の水気のある牛糞を投げ入れ、さらに、諸々の水気のある薪を投げ入れ、そして、水ある風を送り、さらに、砂を振りまくなら、いったい、まさに、その人は、大いなる火の塊を消すことが可能ですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。
「比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その時点において、高揚した心が有るなら、その時点においては、静息という正覚の支分の修行のための時であり、禅定という正覚の支分の修行のための時であり、放捨という正覚の支分の修行のための時です。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、高揚した心は、それは、これらの〔三つの〕法(性質)によるなら、寂止させ易きものと成るからです。比丘たちよ、そして、まさに、わたしは、気づきを、全てに義(利益)あるものと説きます」と。〔以上が〕第三となる。
注釈【1】
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