或る時のことです。尊者ローマサカンビヤは、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでいます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、尊者ローマサカンビヤのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者ローマサカンビヤを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、尊者ローマサカンビヤに、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、まさしく、そのものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして如来の住があるのですか(両者は同じものですか)、それとも、まさしく、他なるものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして如来の住があるのですか(両者は別のものですか)」と。
「友よ、マハー・ナーマよ、まさに、まさしく、そのものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、そのものとして如来の住があるのではありません。友よ、マハー・ナーマよ、まさに、他なるものとして〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして如来の住があります。友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)を捨棄して〔世に〕住みます。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住み、憎悪〔の思い〕(瞋恚)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)という〔修行の〕妨害を……略……〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)という〔修行の〕妨害を……略……疑惑〔の思い〕(疑)という〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。
友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、また、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らは、これらの五つの〔修行の〕妨害を捨棄して〔世に〕住みます。
友よ、マハー・ナーマよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕(切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。どのようなものが、五つのものなのですか。欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあり、憎悪〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され……略……〔心の〕沈滞と眠気という〔修行の〕妨害は……略……〔心の〕高揚と悔恨という〔修行の〕妨害は……略……疑惑〔の思い〕という〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。
友よ、マハー・ナーマよ、すなわち、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らの、これらの五つの〔修行の〕妨害は〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、基盤なきターラ〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法(性質)としてあります。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、〔まさに〕その、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります。
友よ、マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。世尊は、イッチャーナンガラ〔村〕に住んでおられます。イッチャーナンガラ〔村〕の密林において。友よ、マハー・ナーマよ、そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、わたしは求めます⸺三月のあいだ、静坐することを。〔わたしは〕存します⸺食事を運ぶ一者より他に、誰であれ近づくことなき者として』と。友よ、マハー・ナーマよ、『尊き方よ、わかりました』と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えて、まさに、ここに、食事を運ぶ一者より他に、誰であれ、世尊のもとに近づいて行きません。
友よ、そこで、まさに、世尊は、その三月が経過して、静坐から出起し、比丘たちに告げました。『比丘たちよ、それで、もし、まさに、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように尋ねるとします。「友よ、沙門ゴータマは、どのような住によって、雨期の居住の多くを住むのですか」と。比丘たちよ、このように尋ねられたなら、あなたたちは、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちに、このように説き明かすべきです。「友よ、まさに、世尊は、呼吸についての気づきという禅定によって、雨期の居住の多くを住みます」と。比丘たちよ、ここに、わたしは、気づきある者として出息し、気づきある者として入息します。長く出息しつつ、「〔わたしは〕長く出息する」と覚知し、長く入息しつつ、「〔わたしは〕長く入息する」と覚知します。……略……。「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ」と覚知し、「〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ」と覚知します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです。
比丘たちよ、すなわち、それらの比丘たちが、〔いまだ〕学びある者たちであり、〔いまだ〕意図に至り得ていない者たちであり、束縛からの平安という無上なるものを切望しながら〔世に〕住むなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、諸々の煩悩の滅尽のために等しく転起します。
比丘たちよ、さらに、すなわち、まさに、それらの比丘たちが、阿羅漢たちであり、煩悩の滅尽者たちであり、〔梵行の〕完成者たちであり、為すべきことを為した者たちであり、〔生の〕重荷を置いた者たちであり、自らの義(目的)に至り得た者たちであり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者たちであり、正しい了知による解脱者たちであるなら、彼らに、呼吸についての気づきという禅定が、修められ、多く為されたなら、まさしく、そして、所見の法(現世)における安楽の住のために、さらに、気づきと正知のために、等しく転起します。
比丘たちよ、まさに、すなわち、それを、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くなら、呼吸についての気づきという禅定を、「聖者の住である」ともまた、「梵の住である」ともまた、「如来の住である」ともまた、正しく説きつつ説くべきです』と。友よ、マハー・ナーマよ、この教相によってもまた、まさに、このことが知られるべきです。すなわち、まさしく、他なるものとして、〔いまだ〕学びある者の住があり、他なるものとして、如来の住があります」と。〔以上が〕第二となる。
注釈【1】
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