サーヴァッティーの因縁となります。そこで、まさに、尊者アーナンダが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、いったい、まさに、一つの法(性質)が存在しますか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。
「アーナンダよ、まさに、一つの法(性質)が存在します。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。
「尊き方よ、また、どのようなものが、一つの法(性質)なのですか。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの法(性質)を円満成就させ、四つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、七つの法(性質)を円満成就させ、七つの法(性質)が、修められ、多く為されたなら、二つの法(性質)を円満成就させます」と。「アーナンダよ、まさに、呼吸についての気づきという禅定が、一つの法(性質)です。〔それが〕修められ、多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させ、四つの気づきの確立が、修められ、多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させ、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます。
アーナンダよ、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります⸺結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く……略……『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕安楽の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として……略……『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、四つの気づきの確立を円満成就させます。
アーナンダよ、では、どのように、四つの気づきの確立が修められ、どのように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させるのですか。アーナンダよ、その時点において、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起します。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように、気づきある者として〔世に〕住みながら、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起するなら、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、法(真理)の判別という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、法(真理)の判別という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、彼の、精進は勉励され、退去なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、その法(教え)を、智慧によって、精査し、検討し、遍き考察を惹起している、比丘の、精進が勉励され、退去なきものと成るなら、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、精進という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、精進という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
精進に励む者に、喜悦は財貨なきもの(非俗のもの)として生起します。アーナンダよ、その時点において、精進に励む比丘に、喜悦が財貨なきものとして生起するなら、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、喜悦という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、喜悦という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
喜悦の意ある者の、身体もまた静息し、心もまた静息します。アーナンダよ、その時点において、喜悦の意ある比丘の、身体もまた静息し、心もまた静息するなら、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、静息という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、静息という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
静息した身体ある者の、安楽ある者の、心は定められます。アーナンダよ、その時点において、静息した身体ある比丘の、安楽ある〔比丘〕の、心が定められるなら、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、禅定という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、禅定という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。
アーナンダよ、その時点において、比丘が、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むなら、その時点において、その比丘の、気づきは現起され、忘却なきものと成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘の、気づきが現起され、忘却なきものと成るなら、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、気づきという正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、気づきという正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。(すなわち、最初の気づきの確立のように、このように詳知されるべきである。)
彼は、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、その時点において、比丘が、そのように定められた心を善くしっかりと点検する者と成るなら、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は勉励されたものと成り、その時点において、比丘は、放捨という正覚の支分を修め、その時点において、比丘の、放捨という正覚の支分は、修行の円満成就に赴きます。アーナンダよ、このように、まさに、四つの気づきの確立が修められ、このように多く為されたなら、七つの覚りの支分を円満成就させます。
アーナンダよ、どのように、七つの覚りの支分が、修められ、多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させるのですか。アーナンダよ、ここに、比丘が、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分を修めます。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、法(真理)の判別という正覚の支分を修めます。……略……。遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分を修めます。アーナンダよ、このように、まさに、七つの覚りの支分が修められ、このように多く為されたなら、明知と解脱を円満成就させます」と。〔以上が〕第三となる。
注釈【0】