翻訳【36】
English
- Bhikkhu Bodhi (2000)
- Bhikkhu Sujato
繁體字
- 丘哌博
- 岫廬
- 莊春江
日本語
- 関西パーリ語実習会 (2023)
Français
- Claude Le Ninan, Chandhana Le Ninan (2023)
- Rémy Zins (2022)
Deutsch
- Dr. Hellmuth Hecker (1993)
- Sabbamitta (2019)
Italiano
- Enzo Alfano
Español
- Anton P. Baron (2008–14)
Català
- Bernat Font
Português
- Michael Beisert (2008)
Русский
- o Dhamma.gift (2026)
- SV theravada.ru (2014)
Nederlands
- Bhikkhu Kuala Lumpur Dhammajoti (2008)
- Guy Eugène Dubois
- Peter van Loosbroek
Norsk
- Kåre A. Lie (2019)
Magyar
- Vekerdi József (1989)
Svenska
- Kerstin Jönhagen
Čeština
- Josef Marx
Slovenščina
- Ajahn Hiriko
Suomi
- Tae Hye Sunim
Türkçe
- Cem Şen (2024)
Lietuvių Kalba
- Sayalay Piyadassi (2022)
עִבְרִית
- Shai Schwartz (2004)
தமிழ்
- நவாலியூர் சோ. நடராசன்
বাংলা
- বঙ্গীস ভিক্ষু, অজিত ভিক্ষু, প্রজ্ঞাদর্শী ভিক্ষু (2018)
Việt Ngữ
- Thích Minh Châu
Bahasa Indonesia
- Indra Anggara
සිංහල
- A.P. de Zoysa
ပြန်သွားရန်
- Pitaka Myanmar Translation
ภาษาไทย
- Siam Rath
पाळिभासा (Pāli)
- Mahāsaṅgīti Tipiṭaka
参照
- Sutta Central
法の輪の転起の経
或る時のことです。世尊は、バーラーナシーに住んでおられます。イシパタナの鹿園において。そこで、まさに、世尊は、五人組の比丘たちに告げました。「比丘たちよ、二つのものがあります。これらの極に、出家者は慣れ親しむべきではありません。どのようなものが、二つのものなのですか。そして、すなわち、この、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、諸々の欲望〔の対象〕における欲望の安楽への専念であり(快楽主義)、さらに、すなわち、この、苦痛であり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものである、自己の疲弊への専念です(苦行主義)。比丘たちよ、まさに、これらの両極に近しく赴かずして、中なる〔実践の〕道(中道)が、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
比丘たちよ、では、どのようなものが、その中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。比丘たちよ、これは、まさに、その、中なる〔実践の〕道であり、如来によって現正覚され、眼を作り為すものとして、知恵を作り為すものとして、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。
比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみという聖なる真理です。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。病もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの集起という聖なる真理です。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅という聖なる真理です。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。比丘たちよ、また、まさに、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理です。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり……略……正しい禅定です。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみという聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみという聖なる真理が、それが遍知された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの集起という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの集起という聖なる真理が、それが捨棄された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅という聖なる真理が、それが実証された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、わたしに、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理である』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行されるべきである』と、過去に……略……生起しました。比丘たちよ、わたしに、『また、まさに、この、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理が、それが修行された』と、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、眼が生起し、知恵が生起し、智慧が生起し、明知が生起し、光明が生起しました。
比丘たちよ、さてまた、何はともあれ、わたしに、これらの四つの聖なる真理について、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見(如実知見)が、極めて清浄なるものと成らなかったあいだは、比丘たちよ、それまで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言することは、まさしく、ありませんでした。
比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、このように、三つの局面と十二の行相ある、事実のとおりの知見が、極めて清浄なるものと成ったことから、比丘たちよ、そこで、わたしは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、『無上なる正等覚を現正覚したのだ』と明言しました。また、そして、わたしに、知見が生起しました。『わたしには、不動なる解脱がある。これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た五人組の比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜びました。
また、そして、この説き明かしが話されているとき、尊者コンダンニャに、〔世俗の〕塵を離れ、〔世俗の〕垢を離れた、法(真理)の眼が生起しました。「それが何であれ、集起の法(性質)であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と。
また、そして、世尊によって、法(真理)の輪が転起させられたとき、地居の天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。地居の天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、四大王天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。四大王天〔の神々〕たちの〔歓呼の〕声を聞いて、三十三天〔の神々〕たちは……略……耶摩天〔の神々〕たちは……略……兜率天〔の神々〕たちは……略……化楽天〔の神々〕たちは……略……他化自在天〔の神々〕たちは……略……梵身天〔の神々〕たちは、〔歓呼の〕声を上げました。「バーラーナシーにおいて、イシパタナの鹿園において、世尊によって、この、無上なる法(真理)の輪が転起させられた⸺あるいは、沙門によって、あるいは、婆羅門によって、あるいは、天〔の神〕によって、あるいは、悪魔によって、あるいは、梵〔天〕によって、あるいは、世において、誰であれ、反転できない〔法の輪〕が」と。
まさに、かくのごとく、その瞬間、その途端、その寸時に、梵の世に至るまで、〔歓呼の〕声音が上がりました。かつまた、この十千の世の界域が、等しく動転し、等しく激動し、等しく動揺しました。さらに、世において、無量にして巨大なる光輝が出現しました⸺天〔の神々〕たちの天の威力を超え行って、ということです。
そこで、まさに、世尊は、この感興〔の言葉〕を唱えました。「ああ、まさに、コンダンニャは了知した。ああ、まさに、コンダンニャは了知した」と。まさに、かくのごとく、この、尊者コンダンニャの名前は、まさしく、「アンニャーシ・コンダンニャ(了知したコンダンニャ)」と成った、ということです。〔以上が〕第一となる。
翻訳【36】
English
- Bhikkhu Bodhi (2000)
- Bhikkhu Sujato
繁體字
- 丘哌博
- 岫廬
- 莊春江
日本語
- 関西パーリ語実習会 (2023)
Français
- Claude Le Ninan, Chandhana Le Ninan (2023)
- Rémy Zins (2022)
Deutsch
- Dr. Hellmuth Hecker (1993)
- Sabbamitta (2019)
Italiano
- Enzo Alfano
Español
- Anton P. Baron (2008–14)
Català
- Bernat Font
Português
- Michael Beisert (2008)
Русский
- o Dhamma.gift (2026)
- SV theravada.ru (2014)
Nederlands
- Bhikkhu Kuala Lumpur Dhammajoti (2008)
- Guy Eugène Dubois
- Peter van Loosbroek
Norsk
- Kåre A. Lie (2019)
Magyar
- Vekerdi József (1989)
Svenska
- Kerstin Jönhagen
Čeština
- Josef Marx
Slovenščina
- Ajahn Hiriko
Suomi
- Tae Hye Sunim
Türkçe
- Cem Şen (2024)
Lietuvių Kalba
- Sayalay Piyadassi (2022)
עִבְרִית
- Shai Schwartz (2004)
தமிழ்
- நவாலியூர் சோ. நடராசன்
বাংলা
- বঙ্গীস ভিক্ষু, অজিত ভিক্ষু, প্রজ্ঞাদর্শী ভিক্ষু (2018)
Việt Ngữ
- Thích Minh Châu
Bahasa Indonesia
- Indra Anggara
සිංහල
- A.P. de Zoysa
ပြန်သွားရန်
- Pitaka Myanmar Translation
ภาษาไทย
- Siam Rath
पाळिभासा (Pāli)
- Mahāsaṅgīti Tipiṭaka
参照
- Sutta Central
法の輪の転起の経
注釈【1】
English