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翻訳【18】

二なることの随観の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼鹿母講堂において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒布薩のその日、十五〔日〕において、満ちた満月の夜、比丘の僧団に取り囲まれ、野外において、坐った状態でおられます。そこで、まさに、世尊は、沈黙の状態となったうえにも沈黙の状態となった比丘の僧団を顧みて、比丘たちに告げました。

「『比丘たちよ、すなわち、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)があるとして、比丘たちよ、あなたたちにとって、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)を聞くために、何が、機縁となるのですか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、彼らは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『諸々の法(性質)の二なることを事実のとおりに知るために、まさしく、そのかぎりにおいて』と。では、何を、〔あなたたちは〕二なることと説きますか。

(1)『これは、苦しみである。これは、苦しみの集起である』と、これが、一つの随観となります。『これは、苦しみの止滅である。これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法現法:現世)における了知(阿羅漢たること)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りもの有余依が存しているなら、不還たること(この世に帰り来ないこと)です」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら⸺(1)

彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧慧・般若による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。(2)

しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道を覚知するなら⸺(3)

心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。(4)

(2)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、〔生存の〕依り所(依存の対象)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の〔生存の〕依り所の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生する。すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づく。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように⸺〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり」と。(5)

(3)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、無明(無知)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「彼らが、繰り返し、生と死の輪廻に行き着くなら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)〔行き着くなら〕、まさしく、無明によって、その赴く所がある。(6)

なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、この、長きに輪廻するところとなったからである。しかしながら、彼らが、明知に至った有情たちであるなら、彼らは、さらなる生存には赴かない(輪廻的あり方を超越する)」と。(7)

(4)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の形成〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(8)

『苦しみは、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕〔と〕、この危険患・過患を知って、一切の形成〔作用〕の止寂あることから、諸々の表象〔作用〕:認識対象を表象し概念化する働き)の破却あることから、このように、苦しみの滅尽は有る。このことを、真実のとおりに知って⸺(9)

正しく見る者たちは、〔真の〕知に至る者たちは⸺賢者たちは、正しく了知して、悪魔の束縛を征服して、さらなる生存には赴かない」と。(10)

(5)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、識知〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕。識知〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(11)

『苦しみは、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕〔と〕、この危険を知って、比丘は、識知〔作用〕の寂止あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(12)

(6)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、接触:感覚の発生)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、接触の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「彼ら、接触に打ち負かされた者たちにとって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちにとって、邪道を実践する者たちにとって、束縛するものの滅尽は、遠く離れている。(13)

しかしながら、彼らが、接触を遍知して、〔正しく〕了知して、〔心の〕寂止に喜びある者たちであるなら、彼らは、まさに、接触の寂止あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(14)

(7)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、感受:楽苦の知覚)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の感受の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「もしくは、安楽であろうが、苦痛であろうが、苦でもなく楽でもないものと共に、そして、内に、さらに、外に、それが何であれ、感受されたものが存在するなら⸺(15)

『これは、苦しみである』と知って、『虚偽の法(性質)である』『壊れ崩れるものである』〔と知って〕、接触しては接触して、〔その〕衰失を〔常に〕見ている者(瞬間瞬間の知覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、このように、そこにおいて、〔あるがままに〕識知する。比丘は、諸々の感受の滅尽あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(16)

(8)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、渇愛〔の思い〕という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、渇愛〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(17)

この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(18)

(9)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、執取〔の思い〕という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、執取〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

〔迷いの〕生存は、執取〔の思い〕という縁から〔発生する〕〔作られたものとして〕有るものは、苦を受ける。生まれたものには、死が有る。これは、苦しみの発生である。(19)

それゆえに、執取〔の思い〕の滅尽あることから、賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には赴かない」と。(20)

(10)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕(意欲の発動)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、勉励〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の勉励〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(21)

『苦しみは、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕〔と〕、この危険を知って、一切の勉励〔の思い〕を放棄して、勉励〔の思い〕なき〔境地〕において解脱した者にとって⸺(22)

〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕を断ち切った者にとって、心が寂静となった比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しない」と。(23)

(11)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食(生存の動力源)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の食の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食という縁から〔発生する〕。諸々の食の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(24)

『苦しみは、食という縁から〔発生する〕〔と〕、この危険を知って、一切の食を遍知して、一切の食に依存なき者となる。(25)

無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩の完全なる滅尽あることから、〔食について正しく〕究明して〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立つ者となり、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。(26)

(12)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、動揺〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の動揺〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(27)

『苦しみは、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕〔と〕、この危険を知って、まさに、それゆえに、〔心の〕動揺を放棄して、諸々の形成〔作用〕を破却して、〔心の〕動揺なく、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(28)

(13)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『〔何かに〕依存する者には、動揺が有る』と、これが、一つの随観となります。『〔何にも〕依存しない者は、動揺しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

〔何にも〕依存しない者は、動揺しない。しかしながら、〔何かに〕依存する者は、〔常に〕執取している。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(29)

『諸々の依存〔の対象〕のうちに、大いなる恐怖がある』〔と〕、この危険を知って、〔何にも〕依存せず、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(30)

(14)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、『諸々の形態:色界禅定)より、諸々の形態なきもの無色:無色界禅定)は、より寂静なるものとなる』と、これが、一つの随観となります。『諸々の形態なきものより、止滅〔の界域〕(涅槃)は、より寂静なるものとなる』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「そして、すなわち、形態〔の界域〕に近しく赴く有情たちも、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕に止住する者たちも、止滅〔の界域〕を覚知することなく、さらなる生存へと帰り来る者たちである。(31)

しかしながら、彼らが、諸々の形態〔の界域〕を遍知して、諸々の形態なき〔界域〕において確立せず、彼らが、止滅〔の界域〕において解脱するなら、彼らは、人として、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちである」と。(32)

(15)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、真理である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、虚偽である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、虚偽である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、真理である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「見よ⸺自己ではないものについて『自己である』と思量し、名前と形態名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天を含む世〔の人々〕を。『これは、真理である』と〔迷いのままに〕思いなす。(33)

まさに、あれやこれや思い考えるも、〔現実の〕それは、〔常に〕その〔思い〕とは他なるものと成る。なぜなら、〔現実の〕それは、その〔思い〕にとっては、虚偽のものとして有るからである。まさに、移り行く、虚偽の法(事象)として〔有るからである〕(無常・苦・無我のものとしてある)(34)

涅槃〔の境処〕は、迷妄ならざる法(事象)であり、それを、聖者たちは、『真理である』と知る。彼らは、まさに、真理の知悉現観あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(35)

(16)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、楽しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、苦しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、楽しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

「諸々の形態:眼の対象)、諸々の音声:耳の対象)、諸々の味感:舌の対象)、諸々の臭気:鼻の対象)、諸々の接触:身の対象)は、さらに、諸々の法:意の対象)の全部は、そして、諸々の好ましく愛らしく意に適うもので、『〔世に〕存在する』と言われる、そのかぎりのものは⸺(36)

これらのものは、まさに、天を含む世〔の人々〕にとって、楽しみと等しく思認されたものである。しかしながら、そこにおいて、これらのものが止滅するなら、それは、彼らにとって、苦しみと等しく思認されたものとなる。(37)

身体を有する〔という誤った見解〕(有身見)の破却は、聖者たちによって、『楽しみである』と見られた。〔あるがままに〕見ている者たちの、この〔ものの見方〕は、一切の世〔の人々〕とは、正反対のものとして有る。(38)

それを、他者たちが、『楽しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『苦しみである』と言う。それを、他者たちが、『苦しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『楽しみである』と知る。(39)

見よ⸺了知し難き法(真理)を。等しく迷乱した者たちは、ここにおいて、無知なる者たちとなる。〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ていない者たちには、暗黒が〔有る〕(40)

そして、正しくある者たちには、〔迷妄の覆いが〕開かれた〔あるがままの真実〕が有る⸺〔あるがままに〕見ている者たちに、光明が〔有る〕ように。獣愚の者たちは、法(真理)の熟知者ならざる者たちであり、〔法の〕現前にあるも、〔法を〕識知しない。(41)

生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた者たちによって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちによって、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が善く正覚されることはない。(42)

聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境処を正覚するにふさわしいというのだろう⸺その境処を正しく了知して、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達するからには」と。(43)

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊が語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。ということで⸺

二なることの随観の経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。

その〔経〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「真理、〔生存の〕依り所、そして、無明、諸々の形成〔作用〕、第五のものとして、識知〔作用〕、接触と感受されるべきもの、渇愛〔の思い〕、執取〔の思い〕と勉励〔の思い〕と食、動揺〔の思い〕、動揺、形態、真理があり、苦しみとともに、〔それらの〕十六がある」と。

大いなるものの章が第三となり、〔以上で〕終了となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「そして、出家、そして、精励、そして、善く語られたもの、スンダリ(スンダリカ)、マーガの経、そして、サビヤ、セーラがあり、そして、矢と説かれる。

そして、また、ヴァーセッタ、コーカーリ(コーカーリカ)、ナーラカ、二なることの随観があり、これらの十二の経が、『大いなるものの章』と説かれる」と。

注釈【1】