「『比丘たちよ、すなわち、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)があるとして、比丘たちよ、あなたたちにとって、聖なる出脱〔の教え〕であり、正覚に至る〔道〕である、それらの善なる法(性質)を聞くために、何が、機縁となるのですか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、彼らは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『諸々の法(性質)の二なることを事実のとおりに知るために、まさしく、そのかぎりにおいて』と。では、何を、〔あなたたちは〕二なることと説きますか。
(1)『これは、苦しみである。これは、苦しみの集起である』と、これが、一つの随観となります。『これは、苦しみの止滅である。これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現法:現世)における了知(阿羅漢たること)であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りもの(有余依)が存しているなら、不還たること(この世に帰り来ないこと)です」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「彼らが、苦しみを覚知せず、そこで、苦しみの発生を〔覚知せず〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を知らず〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道(八正道)を知らないなら⸺(1)
彼らは、心による解脱に劣る者たちであり、そこで、智慧(慧・般若)による解脱に〔劣る者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能なき者たちである。彼らは、まさに、生と老に近しく赴く者たちである。(2)
しかしながら、彼らが、苦しみを覚知し、そこで、苦しみの発生を〔覚知し〕、さらに、そこにおいて、全てにわたり、苦しみが残りなく破却される、〔寂止の境地を覚知し〕、そして、苦しみの寂止に至る、その道を覚知するなら⸺(3)
心による解脱を成就した者たちであり、そこで、智慧による解脱を〔成就した者たちとなる〕。彼らは、〔苦しみの〕終極を為すことの可能ある者たちである。彼らは、生と老に近しく赴く者たちではない」と。(4)
(2)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、〔生存の〕依り所(依存の対象)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の〔生存の〕依り所の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それらが何であれ、世における、無数なる形態あるものとしての、諸々の苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)という因縁から発生する。すなわち、まさに、〔あるがままに〕知ることなく、〔生存の〕依り所を作るなら、愚か者であり、繰り返し、苦しみに近づく。それゆえに、〔生存の〕依り所を作らないように⸺〔あるがままに〕覚知している者となり、苦しみの出生の起源を随観する者となり」と。(5)
(3)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、無明(無知)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、無明の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「彼らが、繰り返し、生と死の輪廻に行き着くなら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)に〔行き着くなら〕、まさしく、無明によって、その赴く所がある。(6)
なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、この、長きに輪廻するところとなったからである。しかしながら、彼らが、明知に至った有情たちであるなら、彼らは、さらなる生存には赴かない(輪廻的あり方を超越する)」と。(7)
(4)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の形成〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕。諸々の形成〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(8)
『苦しみは、形成〔作用〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険(患・過患)を知って、一切の形成〔作用〕の止寂あることから、諸々の表象〔作用〕(想:認識対象を表象し概念化する働き)の破却あることから、このように、苦しみの滅尽は有る。このことを、真実のとおりに知って⸺(9)
正しく見る者たちは、〔真の〕知に至る者たちは⸺賢者たちは、正しく了知して、悪魔の束縛を征服して、さらなる生存には赴かない」と。(10)
(5)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、識知〔作用〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕。識知〔作用〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(11)
『苦しみは、識知〔作用〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、比丘は、識知〔作用〕の寂止あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(12)
(6)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、接触(触:感覚の発生)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、接触の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「彼ら、接触に打ち負かされた者たちにとって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちにとって、邪道を実践する者たちにとって、束縛するもの(結)の滅尽は、遠く離れている。(13)
しかしながら、彼らが、接触を遍知して、〔正しく〕了知して、〔心の〕寂止に喜びある者たちであるなら、彼らは、まさに、接触の寂止あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(14)
(7)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、感受(受:楽苦の知覚)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の感受の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「もしくは、安楽であろうが、苦痛であろうが、苦でもなく楽でもないものと共に、そして、内に、さらに、外に、それが何であれ、感受されたものが存在するなら⸺(15)
『これは、苦しみである』と知って、『虚偽の法(性質)である』『壊れ崩れるものである』〔と知って〕、接触しては接触して、〔その〕衰失を〔常に〕見ている者(瞬間瞬間の知覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、このように、そこにおいて、〔あるがままに〕識知する。比丘は、諸々の感受の滅尽あることから、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(16)
(8)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、渇愛〔の思い〕(愛)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、渇愛〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(17)
この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの発生と〔知って〕、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(18)
(9)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、執取〔の思い〕(取)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、執取〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「〔迷いの〕生存(有)は、執取〔の思い〕という縁から〔発生する〕。〔作られたものとして〕有るものは、苦を受ける。生まれたものには、死が有る。これは、苦しみの発生である。(19)
それゆえに、執取〔の思い〕の滅尽あることから、賢者たちは、正しく了知して、生の滅尽を証知して、さらなる生存には赴かない」と。(20)
(10)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕(意欲の発動)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、勉励〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の勉励〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(21)
『苦しみは、勉励〔の思い〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、一切の勉励〔の思い〕を放棄して、勉励〔の思い〕なき〔境地〕において解脱した者にとって⸺(22)
〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕を断ち切った者にとって、心が寂静となった比丘にとって、生の輪廻は滅尽し、彼に、さらなる生存は存在しない」と。(23)
(11)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食(生存の動力源)という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、諸々の食の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、食という縁から〔発生する〕。諸々の食の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(24)
『苦しみは、食という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、一切の食を遍知して、一切の食に依存なき者となる。(25)
無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩の完全なる滅尽あることから、〔食について正しく〕究明して〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立つ者となり、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称に近づかない(名づけを離れた存在となる)」と。(26)
(12)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕』と、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかし、動揺〔の思い〕の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「それが何であれ、苦しみが発生するなら、〔その〕全てが、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕。諸々の動揺〔の思い〕の止滅あることで、苦しみの発生は存在しない。(27)
『苦しみは、動揺〔の思い〕という縁から〔発生する〕』〔と〕、この危険を知って、まさに、それゆえに、〔心の〕動揺を放棄して、諸々の形成〔作用〕を破却して、〔心の〕動揺なく、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(28)
(13)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。『〔何かに〕依存する者には、動揺が有る』と、これが、一つの随観となります。『〔何にも〕依存しない者は、動揺しない』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「〔何にも〕依存しない者は、動揺しない。しかしながら、〔何かに〕依存する者は、〔常に〕執取している。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)と他の〔迷いの〕状態(来世)を、〔生と死の〕輪廻を超克しない。(29)
『諸々の依存〔の対象〕のうちに、大いなる恐怖がある』〔と〕、この危険を知って、〔何にも〕依存せず、執取〔の思い〕なく、〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。(30)
(14)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、『諸々の形態(色:色界禅定)より、諸々の形態なきもの(無色:無色界禅定)は、より寂静なるものとなる』と、これが、一つの随観となります。『諸々の形態なきものより、止滅〔の界域〕(涅槃)は、より寂静なるものとなる』と、これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「そして、すなわち、形態〔の界域〕に近しく赴く有情たちも、さらに、すなわち、形態なき〔界域〕に止住する者たちも、止滅〔の界域〕を覚知することなく、さらなる生存へと帰り来る者たちである。(31)
しかしながら、彼らが、諸々の形態〔の界域〕を遍知して、諸々の形態なき〔界域〕において確立せず、彼らが、止滅〔の界域〕において解脱するなら、彼らは、人として、死魔〔の領域〕を捨棄する者たちである」と。(32)
(15)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、真理である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、虚偽である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、虚偽である』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、真理である』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく……略……そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「見よ⸺自己ではないものについて『自己である』と思量し、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天を含む世〔の人々〕を。『これは、真理である』と〔迷いのままに〕思いなす。(33)
まさに、あれやこれや思い考えるも、〔現実の〕それは、〔常に〕その〔思い〕とは他なるものと成る。なぜなら、〔現実の〕それは、その〔思い〕にとっては、虚偽のものとして有るからである。まさに、移り行く、虚偽の法(事象)として〔有るからである〕(無常・苦・無我のものとしてある)。(34)
涅槃〔の境処〕は、迷妄ならざる法(事象)であり、それを、聖者たちは、『真理である』と知る。彼らは、まさに、真理の知悉(現観)あることから、無欲の者たちとなり、完全なる涅槃に到達した者たちとなる」と。(35)
(16)「『他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は存在しますか』と、比丘たちよ、かくのごとく、もし、尋ねる者たちが存するなら、『存在する』と、〔このように〕説かれるべき者たちとして、〔彼らは〕存するでしょう。では、どのように、〔二なることの随観は〕存在するのですか。比丘たちよ、それが、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、『これは、楽しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、一つの随観となります。比丘たちよ、それが、天を含む……略……天〔の神〕や人間を含む〔人々〕にとって、『これは、苦しみである』と思慮されたなら、〔まさに〕その、このことは、聖者たちにとって、『これは、楽しみである』と、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。これが、第二の随観となります。比丘たちよ、このように、正しく、まさに、二なることを随観する比丘が、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。
「諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の味感(味:舌の対象)、諸々の臭気(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)は、さらに、諸々の法(法:意の対象)の全部は、そして、諸々の好ましく愛らしく意に適うもので、『〔世に〕存在する』と言われる、そのかぎりのものは⸺(36)
これらのものは、まさに、天を含む世〔の人々〕にとって、楽しみと等しく思認されたものである。しかしながら、そこにおいて、これらのものが止滅するなら、それは、彼らにとって、苦しみと等しく思認されたものとなる。(37)
身体を有する〔という誤った見解〕(有身見)の破却は、聖者たちによって、『楽しみである』と見られた。〔あるがままに〕見ている者たちの、この〔ものの見方〕は、一切の世〔の人々〕とは、正反対のものとして有る。(38)
それを、他者たちが、『楽しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『苦しみである』と言う。それを、他者たちが、『苦しみである』と言うなら、それを、聖者たちは、『楽しみである』と知る。(39)
見よ⸺了知し難き法(真理)を。等しく迷乱した者たちは、ここにおいて、無知なる者たちとなる。〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ていない者たちには、暗黒が〔有る〕。(40)
そして、正しくある者たちには、〔迷妄の覆いが〕開かれた〔あるがままの真実〕が有る⸺〔あるがままに〕見ている者たちに、光明が〔有る〕ように。獣愚の者たちは、法(真理)の熟知者ならざる者たちであり、〔法の〕現前にあるも、〔法を〕識知しない。(41)
生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされた者たちによって、生存の流れ(輪廻)に従い行く者たちによって、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が善く正覚されることはない。(42)
聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境処を正覚するにふさわしいというのだろう⸺その境処を正しく了知して、煩悩なき者たちとなり、完全なる涅槃に到達するからには」と。(43)
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊が語ったことを大いに喜びました。また、そして、この説き明かしが話されているとき、六十ばかりの比丘たちの心は、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しました。ということで⸺
二なることの随観の経が第十二となり、〔以上で〕終了となる。
その〔経〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「真理、〔生存の〕依り所、そして、無明、諸々の形成〔作用〕、第五のものとして、識知〔作用〕、接触と感受されるべきもの、渇愛〔の思い〕、執取〔の思い〕と勉励〔の思い〕と食、動揺〔の思い〕、動揺、形態、真理があり、苦しみとともに、〔それらの〕十六がある」と。
大いなるものの章が第三となり、〔以上で〕終了となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、出家、そして、精励、そして、善く語られたもの、スンダリ(スンダリカ)、マーガの経、そして、サビヤ、セーラがあり、そして、矢と説かれる。
そして、また、ヴァーセッタ、コーカーリ(コーカーリカ)、ナーラカ、二なることの随観があり、これらの十二の経が、『大いなるものの章』と説かれる」と。
注釈【1】
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