そして、中傷する者と、忿激する者と、さらに、物惜〔の思い〕ある者と、〔他者の〕破滅を喜ぶ者と、賢者は、友誼を為さぬもの。悪しきは、俗人との交際である。
そして、信ある者と、かつまた、博愛なる者と、智慧ある者と、さらに、多聞の者と、賢者は、友誼を為すもの。幸いなるは、正なる人士との交際である。
見よ⸺彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を⸺寄せ集めの、傷ある身体を⸺病んだ、妄想多きものを。それに、常恒と止住は、〔何であれ〕存在しない。
見よ⸺彩りあざやかに作り為された〔虚妄の〕形態を⸺そして、宝珠や耳飾によって〔飾り立てられ〕、骨と皮で覆われた〔不浄の身体〕を。諸々の衣と共にあって、美しく輝く〔だけのこと〕。
〔赤の〕染料が為された〔両の〕足、〔白の〕塗粉が塗られた顔⸺愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
八房に為された諸々の髪、〔黒の〕塗料をつけた〔両の〕眼⸺愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
彩りあざやかな新しい塗料箱のように、〔装いを〕十分に作り為した腐敗の身体⸺愚者の迷いのためには、〔それで〕十分である。しかしながら、彼岸を探し求める者には、さにあらず。
多聞にして、様々な言説あり、覚者の侍者にして、重荷を降ろし、束縛を離れた者⸺ゴータマ(アーナンダ)は、臥所を営む。
煩悩が滅尽し、束縛を離れ、執着を超え行き、善く涅槃に到達した者は、生と死の彼岸に至る者となり、最後の肉身を保つ(死後、涅槃に行く)。
覚者の、太陽の眷属の、諸々の法(教え)が確立した、〔まさに〕その、涅槃に至る道において、彼は、このゴータマ(アーナンダ)は、立つ。
〔わたしは〕覚者から八万と二〔千の法〕を、比丘たちから二千〔の法〕を、収め取った。すなわち、〔世に〕転起している、八万と四千のこれらの法(教え)である。
この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の智慧は増え行くことがない。
すなわち、多聞の者が、所聞(聴聞した教法)によって、少聞の者を軽んじるなら、盲者が灯明を保つように、まさしく、そのように、わたしには、〔その愚が〕明白となる。
多聞の者に近侍するように。そして、所聞を失わないように。それは、梵行の根元である。それゆえに、法(教え)を保つ者として存するように。
前後〔関係〕を知り、義(意味)を知り、語句を熟知する者は、そして、見事に把握された〔法〕を収め取り、かつまた、義(意味)を近しく注視する。
忍耐によって、〔涅槃への〕欲〔の思い〕(意欲)を為した者と成る。〔断固〕敢行して、それを〔考量し〕比較する。彼は、内に〔心が〕善く定められた者であり、〔正しい〕時に〔刻苦〕精励する。
多聞にして、法(教え)を保ち、智慧を有する、覚者の弟子と⸺法(教え)を識知し、〔涅槃を〕望む、そのような種類の者と⸺彼と、親しくするように。
多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たる多聞の者は、供養されるべきである。
法(教え)を喜びとし、法(教え)を喜び、法(教え)を〔常に〕弁別し、法(教え)を〔常に〕随念している比丘は、正なる法(教え)から遍く衰退しない。
〔身体が〕失われつつあるのに奮起せず、身体にたいする物惜〔の思い〕を重んじる者に、肉体の安楽(肉欲)を貪り求める者に、どうして、沙門の平穏があるというのだろう。
一切の方角は定まらず、諸々の法(教え)は、わたしには、〔いまだ〕明白とならない。善き朋友(サーリプッタ)が逝去したとき、〔世は〕暗黒であるかに見える。
道友が去り行った者に、教師が過ぎ行き逝去した者に、このような〔善き〕朋友は、〔今もは〕存在しない⸺すなわち、身体の在り方についての気づきのように〔益ある朋友は〕。
彼ら、古き者たち⸺彼らは、過ぎ行ったのだ。わたしと新しい者たちとは、〔互いが互いを〕行知することがない。〔まさに〕その〔わたし〕は、今日、まさしく、独り、瞑想する⸺雨に降られた鳥のように。
〔世尊は言った〕「〔わたしと〕会見するために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多くの者たちを、〔聞く〕耳ある者たちを、妨げてはいけない。〔彼らは〕わたしを見よ。〔今が、その〕時である」〔と〕。
〔教師に〕会見するために〔遠方から〕超え来た、種々なる国々の多々なる者たちを、眼ある方は妨げない。教師は、〔聴聞の〕機会を作る。
二十五年のあいだ、学びある者(有学)の状態で〔世に〕存しているわたしに、欲望の表象(想:概念・心象)は生起しなかった。見よ⸺法(教え)の善き法(教え)たることを。
二十五年のあいだ、学びある者の状態で〔世に〕存しているわたしに、憤怒(瞋)の表象は生起しなかった。見よ⸺法(教え)の善き法(教え)たることを。
二十五年のあいだ、慈愛ある身体の行為(身業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した⸺影が離れないように。
二十五年のあいだ、慈愛ある言葉の行為(口業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した⸺影が離れないように。
二十五年のあいだ、慈愛ある意の行為(意業)によって、〔わたしは〕世尊に奉仕した⸺影が離れないように。
歩行〔瞑想〕をしている覚者の背後に従い歩行〔瞑想〕をした。法(教え)が説示されているとき、わたしに、知恵が生起した。
わたしは、〔いまだ〕為すべきことを有し、意図に至り得ていない、学びある者として〔世に〕存するも、そして、教師には、完全なる涅槃が〔存した〕⸺すなわち、わたしたちにとって、慈しみ〔の思い〕ある方である、〔教師には〕。
一切の優れた行相を具した正覚者が、完全なる涅槃に到達したとき⸺そのとき、〔まさに〕その、禍々しき〔思い〕が存した⸺そのとき、身の毛のよだつ〔思い〕が存した。
〔アーナンダ長老の死後、残された他の比丘たちは詩偈を唱えた〕「多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たるアーナンダは、完全なる涅槃に到達した者となる(般涅槃した)。
多聞にして、法(教え)を保ち、〔教えの〕蔵を守る、大いなる聖賢は、一切の世の眼たる〔アーナンダ〕は、暗黒のなかで闇を除去する者である。
〔善き〕境遇ある者、〔常に〕気づきある者、そして、すなわち、〔道心〕堅固の聖賢にして、正なる法(教え)を保つ長老、アーナンダは、宝の鉱脈である」〔と〕。
わたしによって、教師は世話され、覚者の教えは為された。重荷は置かれ、〔迷いの〕生存に導くもの(煩悩)は完破された。ということで⸺
……アーナンダ長老は…。
三十なるものの集まりは〔以上で〕終了となる。
そこで、摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「プッサ、ウパティッサ(サーリプッタ)、アーナンダ、かくのごとく、これらの三者〔の長老たち〕が述べ伝えられ、そこにおいて、百〔の詩偈〕が数えられ、さらに、〔それを〕超えること五つの詩偈が〔数えられた〕」と。
注釈【1】
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