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翻訳【19】

世の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルヴェーラーに住んでおられます。ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、最初に現正覚した者として。また、まさに、その時点にあって、世尊は、七日のあいだ、一つの結跏で坐った状態でおられます。解脱の安楽の得知者として。

そこで、まさに、世尊は、その七日が経過して、その禅定から出起して、覚者の眼によって、世を眺めました。まさに、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、無数の熱苦によって熱せられ、さらに、無数の苦悶によって遍く焼かれている、有情たちを見ました⸺諸々の貪欲から生じるものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕、諸々の憤怒から生じる諸々のものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕、諸々の迷妄から生じる諸々のものによってもまた〔熱せられ、遍く焼かれている、有情たちを〕

そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

「この世〔の人々〕は、熱苦が生じ、接触:感覚の発生)に打ち負かされ、自己〔の観点〕から、〔自己の〕病を説く。まさに、あれやこれや思い考えるも、〔現実の〕それは、〔常に〕その〔思い〕とは他なるものと成る。

〔の人々〕は、〔常に〕他なる状態となるも、生存に執着し、生存に打ち負かされ、まさしく、生存に愉悦する。それに愉悦するなら、それは、恐怖である。それに恐怖するなら、それは、苦しみである。また、まさに、〔迷いの〕生存を捨棄するために、この梵行は住される(実践される)

まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、生存:実体)〔の観点〕によって、生存の解脱を言うなら、『彼らは、全ての者たちが〔常住論者であり〕〔迷いの〕生存から解脱していない』と、〔わたしは〕説く。また、あるいは、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、非生存非有:虚無)〔の観点〕によって、生存の出離を言うなら、『彼らは、全ての者たちが〔断滅論者であり〕〔迷いの〕生存から出離していない』と、〔わたしは〕説く。

まさに、この苦しみは、〔生存の〕依り所(依存の対象)を縁として発生する。一切の執取の滅尽あることから、苦しみの発生は存在しない。見よ⸺この世〔の人々〕を。多々に無明によって打ち負かされた生類たちであり、生類であることを喜ぶ者たちであり、〔迷いの生存から〕完全に解き放たれていない者たちである。『まさに、それらが何であれ、生存であるなら、一切所において、一切所にわたり、それらの生存は、全てが、無常であり、苦痛であり、変化の法(性質)である』と⸺

このように、このことを、事実のとおりに、正しい智慧慧・般若によって見ていると、生存にたいする渇愛〔の思い〕は捨棄され、非生存(虚無的生存)に愉悦することもない。

全てにわたり、諸々の渇愛の滅尽あることから、残りなき離貪と止滅があり、涅槃がある。〔何も〕執取せずして涅槃に到達した、その比丘に、さらなる生存は有ることなくある。悪魔は征服され、戦場は征圧された。そのような者は、一切の生存を超え行った」と。〔以上が〕第十となる。

ナンダの章が第三となり、〔以上で〕終了となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「行為(行為の報いから生じるもの)、ナンダ、そして、ヤソージャ、さらに、サーリプッタ、コーリタ(マハー・モッガッラーナ)、ピリンダ(ピリンダヴァッチャ)、カッサパ(帝釈〔天〕の感興〔の言葉〕〔行乞の〕〔行乞の〕施食の者)、技能があり、世とともに、それらの十がある」と。

注釈【1】