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翻訳【21】

斎戒の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。東の林園のミガーラマータルの高楼において。また、まさに、その時点にあって、世尊は、斎戒布薩:地域内の比丘が集まり戒律条項を朗読して自省する僧団行事)のその日、比丘の僧団に取り囲まれ、坐った状態でおられます。

そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、初更(宵の内)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、初更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条波羅提木叉:戒律条項)を誦説してください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者として有りました。

再度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、中更(真夜中)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、中更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。このように説かれたとき、世尊は、沈黙の者として有りました。

三度また、まさに、尊者アーナンダは、夜が更け、後更(明け方)を過ぎると、坐から立ち上がって、一つの肩に上衣を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、夜が更け、後更を過ぎました。比丘の僧団は、長らく坐っています。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず」と。

そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナに、この〔思い〕が有りました。「いったい、まさに、世尊は、どの人物に関して、このように言ったのか。『アーナンダよ、衆は、完全なる清浄にあらず』」と。そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、一切すべての比丘の僧団に、心をとおして、心を探知して、意を為しました。まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物を⸺劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑でありながら、比丘の僧団の中に坐っている〔その人物〕を⸺見ました。見て、坐から立ち上がって、その人物のいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。このように説かれたとき、その人物は、沈黙の者として有りました。

再度また、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物に、こう言いました。「友よ、立ち上がりなさい。世尊によって〔事実のとおりに〕見られた者として、〔あなたは〕存しています。あなたに、比丘たちと共に共住する〔資格〕は存在しません」と。再度また、まさに……略……。三度また、まさに、その人物は、沈黙の者として有りました。

そこで、まさに、尊者マハー・モッガッラーナは、その人物の腕を掴んで、門小屋の外に追い出して、閂を掛けて、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、その人物は、わたしが追い出しました。衆は、完全なる清浄です。尊き方よ、世尊は、比丘たちに、戒条を誦説してください」と。「モッガッラーナよ、めったにないことです。モッガッラーナよ、はじめてのことです。さてまた、腕を掴むに至るまで、まさに、その愚人が待っているとは」と。

そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ、今や、わたしは、これから後は、斎戒を為すことも、戒条を誦説することも、ないでしょう。比丘たちよ、今や、あなたたちだけで、これから後は、斎戒を為し、戒条を誦説するのです。比丘たちよ、このことは、状況なきことであり、機会なきことです。すなわち、如来が、完全なる清浄ならざる衆のために、斎戒を為し、戒条を誦説することは。

比丘たちよ、八つのものがあります。これらの、大海について、めったにないはじめての法(性質)です。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。

(1)比丘たちよ、大海は、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはなりません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にはならないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げます。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるのは、比丘たちよ、これは、大海について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(4)比丘たちよ、さらに、また、他に、それらが何であれ、諸々の大河は⸺それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが⸺それらは、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至ります(大海という名でのみ呼称される)。比丘たちよ、すなわち、また、それらが何であれ、諸々の大河が⸺それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが⸺それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るのは、比丘たちよ、これは、大海について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(5)比丘たちよ、さらに、また、他に、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。比丘たちよ、すなわち、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、比丘たちよ、これは、大海について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(6)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、一つの味であり、塩の味です。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるのは、比丘たちよ、これは、大海について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(7)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります⸺それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙です。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは⸺それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、比丘たちよ、これは、大海について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

(8)比丘たちよ、さらに、また、他に、大海は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが⸺ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが⸺百ヨージャナ由旬:長さの単位・一ヨージャナは軛牛の一日の旅程距離)さえもの自己状態(個我的あり方・身体)あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在します。比丘たちよ、すなわち、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが⸺ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが⸺百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして……略……五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するのは、比丘たちよ、これは、大海について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、大海について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、阿修羅たちは、大海について喜び楽しみます。

比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律について、八つのめったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。どのようなものが、八つのものなのですか。

(1)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、順次に向かい行き、順次に傾倒し、順次に傾斜し、いきなり急に深淵にならないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解はありません。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律においては、順次に学びがあり、順次に行があり、順次に〔実践の〕道があり、いきなり急に了知の理解がないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第一のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(2)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、法(性質)が安立し、海岸を超え行くことがないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処(戒律)であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちは、たとえ、生命を因としても、犯すことがありません。比丘たちよ、すなわち、また、それが、わたしによって弟子たちのために制定された学処であるなら、その〔学処〕を、わたしの弟子たちが、たとえ、生命を因としても、犯すことがないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第二のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(3)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、死骸と共住せず、それが、大海のうちに、死骸として有るなら、その〔死骸〕を、まさしく、すみやかに、岸へと運び去り、陸へと打ち上げるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのです〕。比丘たちよ、すなわち、また、その人物が、彼が、劣戒にして悪しき法(性質)ある者であり、不浄にして励行に疑いある者であり、生業を隠蔽し、沙門ではないのに沙門と明言し、梵行者ではないのに梵行者と明言し、内まで腐り〔煩悩が〕漏れ出ている、生まれながらの屑の者であるなら、僧団は、彼と共住せず、そこで、まさに、彼を、まさしく、すみやかに集まって排斥し、たとえ、何であれ、彼が、比丘の僧団の中に坐った状態でいるとして、そこで、まさに、彼は、僧団から、まさしく、遠く離れているのであり、そして、僧団も、彼から〔遠く離れているのは〕、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第三のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(4)比丘たちよ、それは、たとえば、また、それらが何であれ、諸々の大河が⸺それは、すなわち、この、ガンガー〔川〕であり、ヤムナー〔川〕であり、アチラヴァティー〔川〕であり、サラブー〔川〕であり、マヒー〔川〕ですが⸺それらが、大海に至り得て〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『大海』という名称に至るように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らは、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至ります。比丘たちよ、すなわち、また、四つの階級の者たちである、士族たちも、婆羅門たちも、庶民たちも、隷民たちも、彼らが、如来によって知らされた法(教え)と律において、家から家なきへと出家して〔そののち〕、以前の名と姓を捨棄し、まさしく、『釈子たる沙門たち』という名称に至るのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第四のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(5)比丘たちよ、それは、たとえば、また、そして、それらの世における水流が、大海に注ぎ入るとして、さらに、それらの空中からの流雨が、〔大海に〕落ちるとして、それによって、大海の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域無余依涅槃界において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されません。比丘たちよ、すなわち、また、たとえ、もし、多くの比丘たちが、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域において、完全なる涅槃に到達するとして、それによって、涅槃の界域の、あるいは、不足も、あるいは、満杯も、覚知されないのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第五のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(6)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、一つの味であり、塩の味であるように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、一つの味であり、解脱の味です。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、一つの味であり、解脱の味であるのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第六のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(7)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるように⸺それは、すなわち、この、真珠であり、宝珠であり、瑠璃であり、法螺であり、宝石であり、珊瑚であり、白銀であり、黄金であり、紅玉であり、瑪瑙ですが、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があります⸺それは、すなわち、この、四つの気づきの確立四念処:身体と感受と心と法についての気づき)であり、四つの正しい精励四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)であり、四つの神通の足場四神足:意欲・専心・精進・考察)であり、五つの機能五根:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、五つの力五力:信・精進・気づき・禅定・智慧)であり、七つの覚りの支分七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)であり、聖なる八つの支分ある道八正道八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)です。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、多くの宝玉があり、無数の宝玉があり、そこに、これらの宝玉があるのは⸺それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道ですが、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第七のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。

(8)比丘たちよ、それは、たとえば、また、大海が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが⸺ティミ〔の大魚〕が、ティミンガラ〔の大魚〕が、ティミティミンガラ〔の大魚〕が、阿修羅たちが、龍たちが、音楽神たちが⸺百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、二百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、三百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、四百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、五百ヨージャナさえもの自己状態あるものたちとして、大海のうちに存在するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、この法(教え)と律は、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが⸺預流たる者(預流果)が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者(預流道)が、一来たる者(一来果)が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者(一来道)が、不還たる者(不還果)が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者(不還道)が、阿羅漢(阿羅漢果)が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者(阿羅漢道)がいます。比丘たちよ、すなわち、また、この法(教え)と律が、大いなる生類たちの居住所となり、そこに、これらの生類たちが⸺預流たる者が、預流果の実証のために〔道を〕実践する者が、一来たる者が、一来果の実証のために〔道を〕実践する者が、不還たる者が、不還果の実証のために〔道を〕実践する者が、阿羅漢が、阿羅漢の資質のために〔道を〕実践する者がいるのは、比丘たちよ、これは、この法(教え)と律について、第八のめったにないはじめての法(性質)です。それを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます。比丘たちよ、まさに、これらの八つの、この法(教え)と律について、めったにないはじめての法(性質)があります。それらを見ては見て、比丘たちは、この法(教え)と律について喜び楽しみます」と。

そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

「覆われたものに、雨が漏れ入る(屋根があるから雨が漏る)。開かれたものに、雨が漏れ入ることはない。それゆえに、覆われたものを開くがよい。このように、その〔開かれたもの〕に、雨が漏れ入ることはない」と。〔以上が〕第五となる。

注釈【0】