翻訳【18】
English
- Bhikkhu Ānandajoti (2008)
- Bhikkhu Sujato
日本語
- 関西パーリ語実習会 (2023)
Deutsch
- Karl Seidenstücker (1920)
- Sabbamitta
Italiano
- Enzo Alfano
Español
- F. Tola, C. Dragonetti (2009)
Português
- Michael Beisert
Русский
- Леонид Шаповалов
Nederlands
- Guy Eugène Dubois
Norsk
- Kåre A. Lie
Srpski
- Branislav Kovačević (2024)
Türkçe
- Cem Şen (2024)
Việt Ngữ
- Thích Minh Châu
Bahasa Indonesia
- Indra Anggara
සිංහල
- A.P. de Zoysa
ပြန်သွားရန်
- Pitaka Myanmar Translation
पाळिभासा (Pāli)
- Mahāsaṅgīti Tipiṭaka
参照
- Sutta Central
カッチャーナの経
このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。また、まさに、その時点にあって、尊者マハー・カッチャーナが、世尊から遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づきが内に全面に善く現起されたもの、坐った状態でいます。
まさに、世尊は、尊者マハー・カッチャーナが、遠く離れていないところで、結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、身体の在り方についての気づきが内に全面に善く現起されたもの、坐っているのを見ました。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を見出して、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。
「彼に、身体の在り方についての気づき(身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)が、常に現起され、一切時に存しているなら、『さてまた、〔過去において、身体を発現させる行為が〕存在しないなら、そして、わたしには、〔今現在、この身体は〕存在しないであろうし、〔今現在、未来に身体を発現させる行為が〕有ることなくあるなら、さらに、わたしには、〔未来において、もはや、身体は〕有ることなくあるであろう』〔と〕、彼は、そこにおいて、時々刻々に〔世に〕住む者(瞬間瞬間に気づきある者)となり、まさしく、〔正しい〕時に、〔身体にたいする〕執着〔の思い〕を超えるであろう」と。〔以上が〕第八となる。
翻訳【18】
English
- Bhikkhu Ānandajoti (2008)
- Bhikkhu Sujato
日本語
- 関西パーリ語実習会 (2023)
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- Sabbamitta
Italiano
- Enzo Alfano
Español
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- Branislav Kovačević (2024)
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ပြန်သွားရန်
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पाळिभासा (Pāli)
- Mahāsaṅgīti Tipiṭaka
参照
- Sutta Central
カッチャーナの経
注釈【0】