或る時のことです。尊者アーナンダは、ラージャガハに住んでいます。タポーダーの林園(温泉精舎)において。そこで、まさに、尊者アーナンダは、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。温泉で五体を洗い流して、〔温泉から〕上がって、一つの衣料の者となり、五体を乾かしながら、〔そこに〕立ちました。まさに、コーカヌダ遍歴遊行者もまた、夜の早朝の時分に起きて、温泉のあるところに、五体を洗い流すために、そこへと近づいて行きました。
まさに、コーカヌダ遍歴遊行者は、尊者アーナンダが、はるか遠くから、やってくるのを見ました。見て、尊者アーナンダに、こう言いました。「友よ、ここにおいておられるのは、どなたかな」と。「友よ、わたしは比丘です」と。
「友よ、どのような比丘たちの」と。「友よ、釈子たる沙門たちの」と。
「わたしたちは、尊者に、何らかの或る点でお尋ねしたい。それで、もし、尊者が、〔わたしたちの〕問いに、説き明かしのための機会を作ってくれるなら」と。「友よ、尋ねたまえ。聞いて〔そののち、お答えできるかを〕知るでしょう」と。
(1)「君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
(2)「君よ、また、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
(3)「君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、『世〔界〕は、終極がある。……略……(4)『世〔界〕は、終極がない。……(5)『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……(6)『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……(7)『如来は、死後に有る。……(8)『如来は、死後に有ることがない。……(9)『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……(10)貴君は、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』という、このような見解ある者ですか」と。「友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』」と。
「まさに、それでは、貴君は知らず見ないのでは」と。「友よ、まさに、わたしは知らず見ないのではありません。友よ、わたしは知り見ます」と。
(1)「『君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
(2)『君よ、また、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
(3)『君よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、貴君は、「世〔界〕は、終極がある。……略……(4)「世〔界〕は、終極がない。……(5)「そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……(6)「他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……(7)「如来は、死後に有る。……(8)「如来は、死後に有ることがない。……(9)「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……(10)貴君は、「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない」という、このような見解ある者ですか』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは、このような見解ある者ではありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と、〔あなたは〕説きます。
『まさに、それでは、貴君は知らず見ないのでは』と、かくのごとく尋ねられ、〔そのように〕存しつつ、『友よ、まさに、わたしは知らず見ないのではありません。友よ、わたしは知り見ます』と、〔あなたは〕説きます。友よ、また、すなわち、どのように、この語られたことの義(意味)は見られるべきですか」と。
「(1)友よ、『世〔界〕は、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。(2)友よ、『世〔界〕は、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。(3)友よ、『世〔界〕は、終極がある。……略……。(4)友よ、『世〔界〕は、終極がない。……。(5)友よ、『そのものとして生命があり、そのものとして肉体がある。……。(6)友よ、『他なるものとして生命があり、他なるものとして肉体がある。……。(7)友よ、『如来は、死後に有る。……。(8)友よ、『如来は、死後に有ることがない。……。(9)友よ、『如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。……。(10)友よ、『如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』とは、まさに、これは、悪しき見解です。
友よ、およそ、見解としてあるかぎりは⸺およそ、見解の境位として、見解の確立として、見解の妄執として、見解の現起として、見解の根絶として、あるかぎりは⸺それを、わたしは知り、それを、わたしは見ます。それを、わたしは知りながら、それを、わたしは見ながら、どうして、わたしが、『〔わたしは〕知らず見ない』と説くというのでしょう。友よ、わたしは知り見ます」と。
「尊者は、どのような名前の方なのですか。また、そして、どのように、尊者のことを、梵行を共にする者たちは知るのですか」と。「友よ、『アーナンダ』というのが、まさに、わたしの名前です。また、そして、『アーナンダ』と、わたしのことを、梵行を共にする者たちは知ります」と。「まさに、ああ、まさに、大いなる行ないある方を相手に話し合っているとは知りませんでした。『尊者アーナンダである』と。まさに、それで、もし、わたしどもが、『この者は、尊者アーナンダである』と知るなら、これほどまでにもまた、わたしどもが弁じることは、まさに、ないでしょう。さてまた、尊者アーナンダは、わたしを許したまえ」と。〔以上が〕第六となる。
注釈【0】