1111. (1105)かくのごとく、尊者ウダヤが 〔言った〕 ⸺ 〔世俗の〕 塵を離れ 〔独り〕 端坐する〔真の〕 瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法(事象) の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、 〔わたしに〕 説いてください。(1)
「 〔世俗の〕 塵を離れ〔独り〕 端坐する 〔真の〕瞑想者たる方に」とは、「 〔真の〕瞑想者たる方に」とは、瞑想者たる世尊は、第一の瞑想 (初禅・第一禅 ) によってもまた、瞑想者であり、第二の瞑想 ( 第二禅 ) によってもまた、瞑想者であり、第三の瞑想( 第三禅 )によってもまた、瞑想者であり、第四の瞑想 ( 第四禅) によってもまた、瞑想者であり、 〔粗雑なる〕 思考を有し〔微細なる〕 想念を有する (有尋有伺 ) 瞑想によってもまた、瞑想者であり、 〔粗雑なる〕 思考なく 〔微細なる〕 想念のみの( 無尋唯伺 )瞑想によってもまた、瞑想者であり、 〔粗雑なる〕 思考なく 〔微細なる〕 想念なき ( 無尋無伺)瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を有する瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦なき瞑想によってもまた、瞑想者であり、喜悦を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、快楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、安楽を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、放捨を共具した瞑想によってもまた、瞑想者であり、空性の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無相の瞑想によってもまた、瞑想者であり、無願の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世〔俗〕 の瞑想によってもまた、瞑想者であり、世 〔俗〕 を超える瞑想によってもまた、瞑想者であり、瞑想を喜ぶ方であり、一なることに専念する方であり、自らの義(目的) に尊重ある方である。ということで、「 〔真の〕 瞑想者たる方に」。「 〔世俗の〕塵を離れ」とは、貪欲は、塵である。憤怒は、塵である。迷妄は、塵である。忿激は、塵である。怨恨は、塵である。……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、塵である。覚者たる世尊の、それらの塵は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、〔世俗の〕 塵なき方であり、 〔世俗の〕 塵を離れる方であり、 〔世俗の〕塵なくある方であり、 〔世俗の〕 塵を離れ去った方であり、 〔世俗の〕 塵を捨棄した方であり、 〔世俗の〕塵の束縛を離れた方であり、一切の塵を超克した方である。
〔そこで、詩偈に言う〕「貪欲は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、貪欲の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕 塵を離れ去った者』と説かれる。
憤怒は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、憤怒の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕 塵を離れ去った者』と説かれる。
迷妄は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、迷妄の同義語である。この塵を捨棄して、眼ある者となり、それゆえに、勝者は、『〔世俗の〕 塵を離れ去った者』と説かれる」 〔と〕 。ということで、「 〔世俗の〕塵を離れ」。
「 〔独り〕端坐する」とは、パーサーナカ塔廟において坐っている世尊、ということで、端坐する方である。
〔そこで、詩偈に言う〕「山腹に端坐する 〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する⸺三つの明知ある者たちにして、死魔 〔の領域〕 を捨棄する者たちは」と。
このようにもまた、世尊は、端坐する方である。さらに、あるいは、世尊は、一切の思い入れが安息したことから、端坐する方、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このようにもまた、世尊は、端坐する方である。ということで、「 〔世俗の〕 塵を離れ 〔独り〕 端坐する〔真の〕 瞑想者たる方に」。
「かくのごとく、尊者ウダヤが 〔言った〕 」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略 ([197]参照) ……。「尊者」とは、敬愛の言葉……略 ([197]参照) ……。「ウダヤ」とは、その婆羅門の、名前としての……略 ([197]参照) ……話法。ということで、「かくのごとく、尊者ウダヤが 〔言った〕 」。
「為すべきことを為した煩悩なき方に」とは、覚者たる世尊にとって、為すべきことと為すべきではないことは、為しておくべきことと為しておくべきではないことは、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、為すべきことを為した方である。
〔そこで、詩偈に言う〕「そして、すなわち、 〔輪廻の〕 流れを断ち切った比丘に、執着〔の思い〕 は存在せず、為すべきことと為すべきではないことを捨棄した者に、苦悶〔の思い〕 は見出されない」と。
「為すべきことを為した煩悩なき方に」とは、「諸々の煩悩」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。ということで、「為すべきことを為した煩悩なき方に」。
「一切の法 (事象)の彼岸に至る方に」とは、世尊は、一切の法 (事象)の、証知による彼岸に至る方であり、遍知による彼岸に至る方であり、捨棄による彼岸に至る方であり、修行による彼岸に至る方であり、実証による彼岸に至る方であり、入定による彼岸に至る方である。一切の法(事象)の、証知による彼岸に至る方であり、一切の苦痛の、遍知による彼岸に至る方であり、一切の 〔心の〕 汚れの、捨棄による彼岸に至る方であり、四つの 〔聖者の〕 道の、修行による彼岸に至る方であり、止滅 〔の境地〕 の、実証による彼岸に至る方であり、一切の入定 〔の境地〕 の、入定による彼岸に至る方である。彼は、聖なる戒において、自在に至り得た方であり、完全態( 波羅蜜 ・到彼岸)に至り得た方であり、聖なる禅定において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方であり、聖なる智慧において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方であり、聖なる解脱において、自在に至り得た方であり、完全態に至り得た方である。彼は、彼岸に至った方、彼岸に至り得た方、終極に至った方、終極に至り得た方、突端に至った方、突端に至り得た方、極限に至った方、極限に至り得た方、完成に至った方、完成に至り得た方、救護所に至った方、救護所に至り得た方、避難所に至った方、避難所に至り得た方、帰依所に至った方、帰依所に至り得た方、恐怖なきに至った方、恐怖なきに至り得た方、死滅なきに至った方、死滅なきに至り得た方、不死に至った方、不死に至り得た方、涅槃に至った方、涅槃に至り得た方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「一切の法 (事象) の彼岸に至る方に」。
「問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」とは、 〔わたしは〕 問いを義 (目的) とする到来者として存している。 〔わたしは〕問いを尋ねることを欲する到来者として存している。 〔わたしは〕問いを聞くことを欲する到来者として存している。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、問いを義 (目的)とする者たちの、問いを尋ねることを欲する者たちの、問いを聞くことを欲する者たちの、やってくることが、来訪することが、近づいて行くことが、奉侍することが、存在する。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、「あなたには、問いのための到来者が存在します。あなたは、また、可能なる方です。あなたは、十分なる自己ある方として存しています⸺わたしによって尋ねられたことを、言説するべく、答えるべく。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕 。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。
「了知による解脱を」「 〔わたしに〕説いてください」とは、了知による解脱は、阿羅漢の資質としての解脱と説かれる。阿羅漢の資質としての解脱を、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「了知による解脱を」「〔わたしに〕 説いてください」。
「無明の破壊を」とは、無明の、破壊を、強き破壊を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「無明の破壊を」。それによって、その婆羅門は言った。
かくのごとく、尊者ウダヤが 〔言った〕 ⸺「 〔世俗の〕 塵を離れ〔独り〕 端坐する 〔真の〕瞑想者たる方に、為すべきことを為した煩悩なき方に、一切の法 (事象)の彼岸に至る方に、問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕 やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、 〔わたしに〕 説いてください」と。
1112. (1106)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ウダヤよ、諸々の欲望 〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意 〔の思い〕 を捨棄すること、そして、〔心の〕 沈滞を除き去ること、諸々の悔恨 〔の思い〕 を防ぎ護ること⸺ (2)
「諸々の欲望 〔の対象〕にたいする欲 〔の思い〕 を捨棄すること」とは、「欲 〔の思い〕 」とは、すなわち、 〔五つの〕 欲望〔の対象〕 における、欲望 〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 、欲望〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 、欲望 〔の対象〕 にたいする愉悦、欲望〔の対象〕 にたいする渇愛、欲望 〔の対象〕 にたいする愛執、欲望 〔の対象〕にたいする涸渇、欲望 〔の対象〕 にたいする苦悶、欲望 〔の対象〕 にたいする耽溺、欲望 〔の対象〕にたいする固執、欲望 〔の対象〕 の激流、欲望 〔の対象〕 の束縛、欲望 〔の対象〕 にたいする執取、欲望〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 の妨害である。「諸々の欲望 〔の対象〕にたいする欲 〔の思い〕 を捨棄し」とは、諸々の欲望 〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「諸々の欲望 〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕を捨棄すること」。「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕⸺ウダヤよ」とは、「ウダヤよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊 (バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ウダヤよ」。
「さらに、同様に、諸々の失意 〔の思い〕 を捨棄すること」とは、「失意 〔の思い〕」とは、すなわち、心の属性としての不快、心の属性としての苦痛、心の接触から生じる不快と苦痛として感受されたもの、心の接触から生じる不快と苦痛としての感受である。「さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕 を捨棄すること」とは、そして、欲望 〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 の、さらに、失意〔の思い〕の、両者の、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「さらに、同様に、諸々の失意 〔の思い〕 を捨棄すること」。
「そして、 〔心の〕沈滞を除き去ること」とは、「 〔心の〕沈滞」とは、すなわち、心の、健全ならざること、行為に適合しないこと、沈み込むこと、等しく畏縮すること、心の、畏縮、畏縮すること、畏縮あること、沈滞、沈滞すること、沈滞あることである。「除き去ること」とは、そして、〔心の〕沈滞の、除去を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「そして、 〔心の〕 沈滞を除き去ること」。
「諸々の悔恨 〔の思い〕を防ぎ護ること」とは、「悔恨 〔の思い〕」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、時ならざるものについて、時なるものとする了解あること、時なるものについて、時ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。さらに、また、二つの契機によって、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから。どのように、そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」「わたしによって、言葉による善き行ないが為されなかった」と……略……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」「わたしによって、意による善き行ないが為されなかった」と……略……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」「わたしによって、与えられていないものを取ることからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕 にたいする誤った行ない (邪淫) が為された」「わたしによって、諸々の欲望 〔の対象〕にたいする誤った行ないからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」「わたしによって、虚偽を説くことからの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」「わたしによって、中傷の言葉からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」「わたしによって、粗暴な言葉からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」「わたしによって、雑駁な虚論からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、強欲〔の思い〕 が為された」「わたしによって、強欲 〔の思い〕 からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、憎悪 〔の思い〕 が為された」「わたしによって、憎悪 〔の思い〕からの離断が為されなかった」と……略……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。
さらに、あるいは、「 〔わたしは〕 諸戒における円満成就を為す者として 〔世に〕存していない」と、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕 諸々の 〔感官の〕機能において門が守られていない者として 〔世に〕 存している」と……略……。「〔わたしは〕 食について量を知らない者として 〔世に〕 存している」と……。「 〔眠らずに〕起きていることに 〔いまだ〕 専念していない者として 〔世に〕 存している」と……。「気づきと正知を 〔いまだ〕具備していない者として 〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立 (四念住・四念処 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤 (四正勤 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場 (四神足 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能 ( 五根) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力 ( 五力) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分 (七覚支 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道 (八正道 ・ 八聖道 ) が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が 〔いまだ〕 遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が 〔いまだ〕 捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が 〔いまだ〕 実証されていない」と、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。
「諸々の悔恨 〔の思い〕を防ぎ護ること」とは、諸々の悔恨 〔の思い〕の、阻止を、防護を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。それによって、世尊は言った。
かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「ウダヤよ、諸々の欲望 〔の対象〕にたいする欲 〔の思い〕 を捨棄すること、さらに、同様に、諸々の失意〔の思い〕 を捨棄すること、そして、 〔心の〕 沈滞を除き去ること、諸々の悔恨 〔の思い〕を防ぎ護ること」と。
1113. (1107)放捨 ( 捨 :選択せず差別なき心) と気づき( 念 ) という清浄なる〔境地〕 、 〔あるがままの〕 法(真理) という 〔正しい〕考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 ⸺ 〔これらを〕 了知による解脱と、無明の破壊と、 〔わたしは〕 説きます。 (3)
「放捨 (捨 ) と気づき (念 ) という清浄なる 〔境地〕」とは、「放捨」とは、すなわち、第四の瞑想 ( 第四禅) における、放捨、放捨すること、客観 (客観的認識)、心の平静なること、心の安息なること、心が中なることである。「気づき」とは、すなわち、第四の瞑想における放捨に励んで、気づき、随念……略([219]参照) ……正しい気づきである。「放捨と気づきという清浄なる〔境地〕」とは、第四の瞑想において、そして、放捨が、さらに、気づきが、清らかと成り、清浄となり、等しく清浄となり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕 汚れ (随煩悩 )が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなる。ということで、「放捨と気づきという清浄なる〔境地〕 」。
「 〔あるがままの〕 法(真理) という 〔正しい〕考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 」とは、 〔あるがままの〕 法 (真理) という〔正しい〕 考え方は、正しい思惟 (正思惟 )と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕 法 (真理)という 〔正しい〕 考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 」。さらに、あるいは、 〔あるがままの〕法 (真理) という 〔正しい〕考え方は、正しい見解 ( 正見 )と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕 法 (真理)という 〔正しい〕 考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 」。さらに、あるいは、 〔あるがままの〕法 (真理) という 〔正しい〕考え方は、四つの 〔聖者の〕 道の前段部分における 〔あるがままの〕 観察 (毘鉢舎那・観 :観察瞑想)と説かれる。それは、了知による解脱にとって、最初に有り、前に有り、先行のものとして有る。ということで、このようにもまた、「〔あるがままの〕 法 (真理)という 〔正しい〕 考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 」。
「 〔これらを〕了知による解脱と」「 〔わたしは〕説きます」とは、了知による解脱は、阿羅漢の資質としての解脱と説かれる。阿羅漢の資質としての解脱を、 〔わたしは〕 説く、 〔わたしは〕 告げ知らせる、〔わたしは〕 説示する、 〔わたしは〕 報知する、 〔わたしは〕 確立する、〔わたしは〕 開顕する、 〔わたしは〕 区分する、 〔わたしは〕 明瞭と為す、〔わたしは〕 明示する。ということで、「 〔これらを〕 了知による解脱と」「 〔わたしは〕説きます」。
「無明の破壊と」とは、「無明」とは、苦しみについての無知……略([203]参照)……無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元。「破壊と」とは、無明の、破壊を、強き破壊を、捨棄を、寂止を、放棄を、安息を、不死なる涅槃を。ということで、「無明の破壊と」。それによって、世尊は言った。
「放捨 (捨 :選択せず差別なき心) と気づき (念 ) という清浄なる 〔境地〕 、〔あるがままの〕 法 (真理)という 〔正しい〕 考え方を先導とする 〔解脱の境地〕 ⸺ 〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、 〔わたしは〕説きます」と。
1114. (1108)〔尊者ウダヤが尋ねた〕 ⸺いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕 にあるのですか。いったい、何が、それ (世の人々) にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、「涅槃」と説かれるのですか。(4)
「いったい、何が、束縛するものとして、世 〔の人々〕 にあるのですか」とは、いったい、何が、世 〔の人々〕 にとって、束縛するものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕 汚れであるのか。何によって、世 〔の人々〕は、束縛され、専念し、専従し、等しく専従し、居着き、付着し、障害となっているのか。ということで、「いったい、何が、束縛するものとして、世〔の人々〕 にあるのですか」。
「いったい、何が、それ (世の人々)にとって、彷徨となるのですか」とは、いったい、何が、それにとって、歩みとなり、渡り歩きとなり、彷徨となるのか。何によって、世〔の人々〕は、歩み、渡り歩き、彷徨するのか。ということで、「いったい、何が、それにとって、彷徨となるのですか」。「何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」とは、何の、捨棄によって、寂止によって、放棄によって、安息によって、それにとっての「涅槃」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用されるのか。ということで、「何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」。それによって、その婆羅門は言った。
〔尊者ウダヤが尋ねた〕⸺「いったい、何が、束縛するものとして、世 〔の人々〕にあるのですか。いったい、何が、それ (世の人々)にとって、彷徨となるのですか。何を捨棄することで、それにとって、『涅槃』と説かれるのですか」と。
1115. (1109)〔世尊は答えた〕 ⸺愉悦が、束縛するものとして、世 〔の人々〕 にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、「涅槃」と説かれます。(5)
「愉悦が、束縛するものとして、世 〔の人々〕 にあります」とは、愉悦は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲 (ラーガ) 、貪染……略 ([207]参照)……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。これが、愉悦と説かれる。すなわち、愉悦が、世 〔の人々〕 にとって、束縛するものであり、付着するものであり、結縛するものであり、付随する〔心の〕 汚れである。この愉悦によって、世 〔の人々〕は、束縛され、専念し、専従し、等しく専従し、居着き、付着し、障害となっている。ということで、「愉悦が、束縛するものとして、世〔の人々〕 にあります」。
「思考が、それにとって、彷徨となります」とは、「思考」とは、九つの思考がある。欲望の思考、憎悪の思考、悩害の思考、親族の思考、地方の思考、不死の思考、他者への憐憫に関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考である。これらが、九つの思考と説かれる。これらの九つの思考が、世 〔の人々〕 にとって、歩みとなり、渡り歩きとなり、彷徨となる。これらの九つの思考によって、世〔の人々〕は、歩み、渡り歩き、彷徨する。ということで、「思考が、それにとって、彷徨となります」。
「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法 (意の対象)への渇愛。「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」とは、渇愛の、捨棄によって、寂止によって、放棄によって、安息によって、「涅槃」と、説かれ、呼ばれ、言説され、発語され、提示され、語用される。ということで、「渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」。それによって、世尊は言った。
〔世尊は答えた〕⸺「愉悦が、束縛するものとして、世 〔の人々〕にあります。思考が、それにとって、彷徨となります。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と説かれます」と。
1116. (1110)〔尊者ウダヤが尋ねた〕 ⸺どのように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の、識知 〔作用〕は破却されるのですか。 〔わたしたちは〕 世尊に尋ねるために、やってまいりました。〔わたしたちは〕 あなたの、その言葉を聞きたいのです。 (6)
「どのように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の」とは、どのように、気づきある者の、正知の者の、〔あるがままに〕 行なっている者の、 〔世に〕 住んでいる者の、振る舞っている者の、行持している者の、 〔行ないを〕 守っている者の、 〔身を〕 保っている者の、〔身を〕 保ち行っている者の。ということで、「どのように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の」。
「識知 〔作用〕は破却されるのですか」とは、識知 〔作用〕は、止滅し、寂止し、滅至し、安息するのか。ということで、「識知 〔作用〕は破却されのですか」。
「 〔わたしたちは〕世尊に尋ねるために、やってまいりました」とは、覚者たる世尊に、尋ねるために、問うために、乞い求めるために、要請するために、清信するために、〔わたしたちは〕 やってきた、 〔わたしたちは〕 到来した、 〔わたしたちは〕近しく到来した、 〔わたしたちは〕 達し得た、 〔わたしたちは〕 あなたと共に集いあつまった。ということで、「 〔わたしたちは〕 世尊に尋ねるために、やってまいりました」。
「 〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、 〔わたしたちは〕 聞きたい、 〔わたしたちは〕把握したい、 〔わたしたちは〕 保持したい、 〔わたしたちは〕 近しく保持したい、 〔わたしたちは〕近しく観たい。ということで、「 〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」。それによって、その婆羅門は言った。
〔尊者ウダヤが尋ねた〕⸺「どのように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の、識知〔作用〕 は破却されるのですか。 〔わたしたちは〕 世尊に尋ねるために、やってまいりました。 〔わたしたちは〕 あなたの、その言葉を聞きたいのです」と。
1117. (1111)〔世尊は答えた〕 ⸺かつまた、内も、かつまた、外も、感受 〔の結果〕 ( 受:楽苦の知覚) を愉悦せずにいる者⸺このように、 〔あるがままに〕行なう、気づきある者の、識知 〔作用〕 は破却されます。 (7)
「かつまた、内も、かつまた、外も、感受 〔の結果〕 ( 受 )を愉悦せずにいる者」とは、 (1) 内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(2) 外に、諸々の感受における感受の随観ある者として 〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(3) 内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として 〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。
(4) 内に、集起の法(性質) の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(5) 内に、衰失の法 (性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕住みつつ……略……。 (6) 内に、集起と衰失の法 (性質) の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕 住みつつ……略……。 (7) 外に、集起の法(性質) の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。(8) 外に、衰失の法 (性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕住みつつ……略……。 (9) 外に、集起と衰失の法 (性質) の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕 住みつつ……略……。 (10)内と外に、集起の法 (性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕住みつつ……略……。 (11) 内と外に、衰失の法 (性質) の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕 住みつつ……略…… (12)内と外に、集起と衰失の法 (性質)の随観ある者として、諸々の感受における感受の随観ある者として、 〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これらの十二の行相によって、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕 住みつつ……略……状態なきへと至らせる。
さらに、あるいは、感受を、 (1) 無常 〔の観点〕から見ている者として、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。感受を、(2) 苦痛 〔の観点〕 から、(3) 病 〔の観点〕 から、(4) 腫物 〔の観点〕 から、(5) 矢 〔の観点〕 から、(6) 悩苦 〔の観点〕 から、(7) 病苦 〔の観点〕 から、(8) 他者 〔の観点〕 から、(9) 崩壊 〔の観点〕 から、(10) 疾患 〔の観点〕 から、(11) 禍 〔の観点〕 から、(12) 恐怖 〔の観点〕 から、(13) 災禍 〔の観点〕 から、(14) 動揺するもの 〔の観点〕から、 (15) 滅壊するもの 〔の観点〕 から、 (16) 常恒ならざるもの〔の観点〕 から、 (17)救護所ならざるもの 〔の観点〕 から、 (18) 避難所ならざるもの 〔の観点〕 から、(19) 帰依所ならざるもの 〔の観点〕 から、 (20) 空虚〔の観点〕 から、 (21) 虚妄〔の観点〕 から、 (22) 空〔の観点〕 から、 (23) 無我〔の観点〕 から、 (24) 危険〔の観点〕 から、 (25)変化の法 (性質) 〔の観点〕から、 (26) 真髄なきもの 〔の観点〕 から、 (27) 悩苦の根元〔の観点〕 から、 (28)殺戮者 〔の観点〕 から、 (29) 非生存 ( 非有) 〔の観点〕 から、 (30) 煩悩を有するもの 〔の観点〕 から、(31) 形成されたもの (有為 ) 〔の観点〕 から、(32) 悪魔の餌 〔の観点〕から、 (33) 生と老と病と死の法 (性質) 〔の観点〕 から、 (34) 諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤 (愁悲苦憂悩 ) の法 (性質)〔の観点〕 から、 (35)〔心の〕 汚染 (雑染 ) の法 (性質)〔の観点〕 から、 (36) 集起〔の観点〕 から、 (37) 滅至〔の観点〕 から、 (38) 悦楽〔の観点〕 から、 (39) 危険〔の観点〕 から、 (40) 出離〔の観点〕から見ている者として、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。これらの四十の行相によって、諸々の感受における感受の随観ある者として、〔世に〕住みつつ、感受を、愉悦せず、迎合せず、固執せず、愉悦を、迎合を、固執を、収取を、偏執を、固着を、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。ということで、「かつまた、内も、かつまた、外も、感受〔の結果〕 を愉悦せずにいる者」。
「このように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の」とは、このように、気づきある者の、正知の者の、〔あるがままに〕 行なっている者の、 〔世に〕 住んでいる者の、振る舞っている者の、行持している者の、 〔行ないを〕 守っている者の、 〔身を〕 保っている者の、〔身を〕 保ち行っている者の。ということで、「このように、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の」。
「識知 〔作用〕は破却されます」とは、功徳ある行作を共具した識知 〔作用〕も、功徳なき行作を共具した識知 〔作用〕 も、不動の行作を共具した識知〔作用〕 も、止滅し、寂止し、滅至し、安息する。ということで、「識知〔作用〕 は破却されます」。それによって、世尊は言った。
〔世尊は答えた〕⸺「かつまた、内も、かつまた、外も、感受 〔の結果〕 ( 受 :楽苦の知覚) を愉悦せずにいる者⸺このように、〔あるがままに〕 行なう、気づきある者の、識知 〔作用〕 は破却されます」と。
詩偈の終了と共に……略 ([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。
ウダヤ学徒の問いについての釈示が、第十三となる。
注釈【0】