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翻訳【3】

彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈についての釈示

1137. (1131) かくのごとく、尊者ピンギヤは 〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕〔わたしは〕「彼岸に至るもの」を復唱するでありましょう。 〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、 〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、 〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう。 (1)

〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう」とは、 〔覚者によって〕誦説されたものを、 〔わたしは〕 そのまま誦説するであろう、〔覚者によって〕 言説されたものを、 〔わたしは〕 そのまま言説するであろう、 〔覚者によって〕発語されたものを、 〔わたしは〕 そのまま発語するであろう、〔覚者によって〕 談じられたものを、 〔わたしは〕 そのまま談じるであろう、 〔覚者によって〕語られたものを、 〔わたしは〕 そのまま語るであろう。ということで、「〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう」。「かくのごとく、尊者ピンギヤは 〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕 」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略([197]参照)……また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕 を有し敬虔 〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ピンギヤ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者ピンギヤは 〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕 」。

「すなわち、 〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました」とは、すなわち、 〔自らが〕見たとおり、そのとおりに、 〔世尊は〕 告げ知らせた、 〔世尊は〕 説示した、 〔世尊は〕 報知した、〔世尊は〕 確立した、 〔世尊は〕開顕した、 〔世尊は〕 区分した、 〔世尊は〕 明瞭と為した、 〔世尊は〕明示した。「一切の形成 〔作用〕 は、無常である」と、すなわち、〔自らが〕 見たとおり、そのとおりに、 〔世尊は〕 告げ知らせた、 〔世尊は〕 説示した、〔世尊は〕 報知した、 〔世尊は〕確立した、 〔世尊は〕 開顕した、 〔世尊は〕 区分した、 〔世尊は〕 明瞭と為した、〔世尊は〕 明示した。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である」と……略……。「一切の法 (事象) は、無我である」と……略 ([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質) である」と、すなわち、 〔自らが〕 見たとおり、そのとおりに、 〔世尊は〕告げ知らせた、 〔世尊は〕 説示した、 〔世尊は〕 報知した、 〔世尊は〕 確立した、〔世尊は〕 開顕した、 〔世尊は〕区分した、 〔世尊は〕 明瞭と為した、 〔世尊は〕 明示した。ということで、「すなわち、 〔自らが〕 見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました」。

〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は」とは、「 〔世俗の〕垢を離れ」とは、貪欲は、垢である。憤怒は、垢である。迷妄は、垢である。忿激は……。怨恨は……略 ([250]参照) ……。一切の善ならざる行作は、垢である。覚者たる世尊の、それらの垢は、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質) としてある。垢なき覚者は、 〔世俗の〕垢を離れる方であり、無垢なる方であり、垢を離去した方であり、垢を捨棄した方であり、垢を解脱した方であり、一切の垢を超克した方である。広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「〔世俗の〕 垢を離れ、広き思慮ある方は」。

「無欲で、 〔欲の〕林なく、龍たる方が」とは、「諸々の欲望」とは、概略するなら、二つの諸々の欲望がある。 (1) そして、諸々の事物の欲望であり、 (2)さらに、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望である。 (1) ……略 ([245-246]参照)……。これらが、諸々の事物の欲望と説かれる。 (2) ……略([247-248]参照) ……。これらが、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望と説かれる。覚者たる世尊の、諸々の事物の欲望は 〔すでに〕 遍知され、諸々の 〔心の〕 汚れの欲望は〔すでに〕 捨棄され、諸々の事物の欲望が 〔すでに〕 遍知されたことから、諸々の 〔心の〕汚れの欲望が 〔すでに〕 捨棄されたことから、世尊は、諸々の欲望〔の対象〕 を欲さず、諸々の欲望 〔の対象〕 を欲求せず、諸々の欲望 〔の対象〕を切望せず、諸々の欲望 〔の対象〕 を熱望せず、諸々の欲望 〔の対象〕 を渇望しない。彼らが、諸々の欲望 〔の対象〕を欲し、諸々の欲望 〔の対象〕 を欲求し、諸々の欲望 〔の対象〕 を切望し、諸々の欲望 〔の対象〕を熱望し、諸々の欲望 〔の対象〕 を渇望するなら、彼らは、欲望〔の対象〕 に欲望ある者たちであり、貪欲 〔の対象〕 に貪欲ある者たちであり、表象 〔の対象〕に表象ある者たちであるが、世尊は、諸々の欲望 〔の対象〕 を欲さず、諸々の欲望〔の対象〕 を欲求せず、諸々の欲望 〔の対象〕 を切望せず、諸々の欲望 〔の対象〕を熱望せず、諸々の欲望 〔の対象〕を渇望しない。それゆえに、覚者は、欲なき者として、無欲なる者として、欲望を捨て去った者として、欲望を吐き去った者として、欲望を解き放った者として、欲望を捨棄した者として、欲望を放棄した者として、貪欲を離れた者として、貪欲を離れ去った者として、貪欲を捨て去った者として、貪欲を吐き捨てた者として、貪欲を解き放った者として、貪欲を捨棄した者として、貪欲を放棄した者として、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕 清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕 住む。ということで、「無欲で」。

〔欲の〕林なく」とは、貪欲は、 〔欲の〕 林である。憤怒は、 〔欲の〕 林である。迷妄は、 〔欲の〕林である。忿激は……。怨恨は……略 ([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、 〔欲の〕 林である。覚者たる世尊の、それらの〔欲の〕 林は、 〔すでに〕捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、 〔欲の〕 林なくあり、 〔欲の〕 林を離れる方であり、 〔欲の〕 林なき方であり、〔欲の〕 林を離去した方であり、 〔欲の〕 林を捨棄した方であり、 〔欲の〕林を解脱した方であり、一切の垢を超克した方である。ということで、「 〔欲の〕林なく」。「龍たる方が」とは、龍 (ナーガ) たる世尊は、 (1) 罪悪 (アーグ) を為さない(ナ・カローティ) 、ということで、「龍」。 (2) 赴かない (ナ・ガッチャティ)、ということで、「龍」。 (3) 帰り来ない (ナ・アーガッチャティ) 、ということで、「龍」。……略 ([454-458]参照)……。このように、世尊は、帰り来ない、ということで、「龍」。ということで、「無欲で、 〔欲の〕 林なく、龍たる方が」。

「何を因として、虚偽を話すというのでしょう」とは、「何を因として」とは、何が因となり、何を因として、何を契機とすることから、何を因縁とすることから、何を縁とすることから。ということで、「何を因として」。「虚偽を話すというのでしょう」とは、虚偽を、発語するというのだろう、言説するというのだろう、提示するというのだろう、語用するというのだろう。「虚偽を話すというのでしょう」とは、虚偽の言葉を話すというのだろう、虚偽の論を話すというのだろう、聖ならざる論を話すというのだろう。ここに、一部の者は、あるいは、集会に赴き、あるいは、衆に赴き、あるいは、親族の中に赴き、あるいは、組合の中に赴き、あるいは、王宮の中に赴き、〔証人として〕 連れ出され、『さて、人士たる者よ、さあ、 〔おまえが〕それを知るなら、それを説け』と、証言を尋ねられたなら、彼は、あるいは、知っていないのに、『知る』と言い、あるいは、知っているのに、『知らない』と言い、あるいは、見ていないのに、『見る』と言い、あるいは、見ているのに、『見ない』と言う。かくのごとく、あるいは、自己を因として、あるいは、他者を因として、あるいは、何らかの或る財貨を因として、正知しつつ虚偽を語る。これが、虚偽の言葉と説かれる。

さらに、また、三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1) まさしく、過去において、彼に、「 〔わたしは〕 虚偽を話すであろう」という 〔思いが〕有る。 (2) 〔現に〕話している者に、「 〔わたしは〕 虚偽を話す」という 〔思いが〕 有る。 (3) 〔すでに〕 話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という 〔思いが〕有る。これらの三つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1) まさしく、過去において、彼に、「 〔わたしは〕 虚偽を話すであろう」という 〔思いが〕有る。 (2) 〔現に〕話している者に、「 〔わたしは〕 虚偽を話す」という 〔思いが〕 有る。 (3) 〔すでに〕 話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という 〔思いが〕 有る。 (4) 〔自己の〕 見解と異なって 〔虚偽を話す〕。これらの四つの行相によって、虚偽を説くことが有る。さらに、また、五つの行相によって……略……六つの行相によって……七つの行相によって……八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。(1) まさしく、過去において、彼に、「 〔わたしは〕 虚偽を話すであろう」という 〔思いが〕有る。 (2) 〔現に〕話している者に、「 〔わたしは〕 虚偽を話す」という 〔思いが〕 有る。 (3) 〔すでに〕 話した者に、「わたしによって、虚偽が話された」という 〔思いが〕 有る。 (4) 〔自己の〕 見解と異なって 〔虚偽を話す〕(5) 〔自己の〕 受認(信受) と異なって 〔虚偽を話す〕(6) 〔自己の〕 嗜好 (意欲) と異なって〔虚偽を話す〕(7)〔自己の〕 表象と異なって 〔虚偽を話す〕(8) 〔自己の〕 状態と異なって 〔虚偽を話す〕。これらの八つの行相によって、虚偽を説くことが有る。何を因として、虚偽を、発語するというのだろう、言説するというのだろう、提示するというのだろう、語用するというのだろう。ということで、「何を因として、虚偽を話すというのでしょう」。それによって、長老ピンギヤは言った。

かくのごとく、尊者ピンギヤは 〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕 ⸺「 〔わたしは〕『彼岸に至るもの』を復唱するでありましょう。 〔世俗の〕垢を離れ、広き思慮ある方は、すなわち、 〔自らが〕見たとおり、そのとおりに告げ知らせてくれました。無欲で、 〔欲の〕林なく、龍たる方が、何を因として、虚偽を話すというのでしょう」と。
1138. (1132) 〔世俗の〕 垢と 〔無明の〕 迷妄を捨棄した方の、 〔我想の〕 思量〔虚栄の〕 偽装 を捨棄する方の、栄誉を伴った 〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。 (2)

〔世俗の〕 垢と〔無明の〕迷妄を捨棄した方の」とは、「垢」とは、貪欲は、垢である。憤怒は、垢である。迷妄は、垢である。思量は、垢である。見解は、垢である。〔心の〕汚れは、垢である。一切の悪しき行ないは、垢である。一切の生存に至る行為は、垢である。

「迷妄」とは、すなわち、苦しみについての無知……略([203]参照)……無明の閂、迷妄、善ならざるものの根元である。これが、迷妄と説かれる。覚者たる世尊の、かつまた、垢も、かつまた、迷妄も、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質) としてある。それゆえに、覚者は、 〔世俗の〕垢と 〔無明の〕 迷妄を捨棄した方である。ということで、「 〔世俗の〕 垢と 〔無明の〕迷妄を捨棄した方の」。

〔我想の〕 思量〔虚栄の〕 偽装 を捨棄する方の」とは、「思量 (自他を比較し価値づける心)」とは、一種類としての、思量がある。すなわち、心の傲慢である。二種類としての、思量がある。自己を賞揚する思量、他者を蔑視する思量である。三種類としての、思量がある。「わたしは、〔他者に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、「わたしは、 〔他者と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、「わたしは、 〔他者に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量である。四種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、安楽によって思量を生じさせる。五種類としての、思量がある。「〔わたしは〕 諸々の意に適う形態の得者として 〔世に〕 存している」と、思量を生じさせ、「 〔わたしは〕諸々の意に適う音声の……略……「 〔わたしは〕 諸々の意に適う臭気の……「〔わたしは〕 諸々の意に適う味感の……「 〔わたしは〕 諸々の意に適う感触の得者として 〔世に〕存している」と、思量を生じさせる。六種類としての、思量がある。眼の成就 具足によって思量を生じさせ、耳の成就によって……鼻の成就によって……舌の成就によって……身の成就によって……意の成就によって思量を生じさせる。七種類としての、思量がある。思量、高慢、思量と高慢、卑下慢、増上慢、我慢(自我意識)、邪慢である。八種類としての、思量がある。利得によって思量を生じさせ、利得なきによって卑下慢を生じさせ、盛名によって思量を生じさせ、盛名なきによって卑下慢を生じさせ、賞賛によって思量を生じさせ、非難によって卑下慢を生じさせ、安楽によって思量を生じさせ、苦痛によって卑下慢を生じさせる。九種類としての、思量がある。勝る者への「わたしは、〔彼に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、勝る者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、勝る者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼に〕 勝る者として〔世に〕 存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として 〔世に〕存している」という思量、等しい者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として〔世に〕 存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼に〕 勝る者として 〔世に〕存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼と〕 等しい者として〔世に〕 存している」という思量、劣る者への「わたしは、 〔彼に〕 劣る者として 〔世に〕存している」という思量である。十種類としての、思量がある。ここに、一部の者は、思量を生じさせる⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって、あるいは、良家の子息たることによって、あるいは、蓮華の色艶あることによって、あるいは、財産によって、あるいは、学問によって、あるいは、生業の場所(職業) によって、あるいは、技能の場所 (技術) によって、あるいは、学術の境位 (学識)によって、あるいは、所聞 (知識) によって、あるいは、応答(弁才)によって、あるいは、何らかの或る根拠によって。すなわち、このような形態の、思量、思量すること、思量あること、傲慢、傲慢になること、〔高慢の〕 旗、横柄、心が 〔高慢の〕 幟を欲することである。これが、思量と説かれる。

「偽装」とは、すなわち、偽装、偽装すること、偽装あること、偽善、偽善の行為である。これが、偽装と説かれる。覚者たる世尊の、かつまた、思量も、かつまた、偽装も、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質) としてある。それゆえに、覚者は、 〔我想の〕思量と 〔虚栄の〕 偽装を捨棄する方である。ということで、「〔我想の〕 思量と 〔虚栄の〕偽装を捨棄する方の」。

「栄誉を伴った 〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」とは、「さあ、わたしは」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「さあ、わたしは」ということになる。「栄誉を伴った〔真実の〕言葉を」「述べ伝えるでありましょう」とは、栄誉を、具し、具完し、所有し、完備し、具有し、完有し、具備した、言葉を、発言を、言葉の用途を、発話を、〔わたしは〕 述べ伝えるであろう、 〔わたしは〕 説示するであろう、 〔わたしは〕報知するであろう、 〔わたしは〕 確立するであろう、 〔わたしは〕 開顕するであろう、 〔わたしは〕区分するであろう、 〔わたしは〕 明瞭と為すであろう、 〔わたしは〕 明示するであろう。ということで、「栄誉を伴った 〔真実の〕 言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」。それによって、長老ピンギヤは言った。

〔世俗の〕垢と 〔無明の〕 迷妄を捨棄した方の、 〔我想の〕 思量 〔虚栄の〕 偽装 を捨棄する方の、栄誉を伴った 〔真実の〕 言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう」と。
1139. (1133) 〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の 〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵 (婆羅門) よ、わたしによって近侍されたのです。 (3)

〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は」とは、「 〔世の〕闇を除去する」とは、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、 〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、〔世尊は〕 除いた、 〔世尊は〕除き去った、 〔世尊は〕 捨棄した、 〔世尊は〕 除去した、 〔世尊は〕 終息を為した、〔世尊は〕 状態なきへと至らせた。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。……略 ([500-501]参照) ……。それによって、如来は、一切に眼ある方となる」 〔と〕 。ということで、「 〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は」。

「世の終極に至り一切の 〔迷いの〕生存を超克した方は」とは、「世」とは、一つの世がある。生存の世である。二つの世がある。そして、生存の世であり、さらに、発生の世である。そして、得達の生存の世であり、さらに、得達の発生の世である。そして、衰滅の生存の世であり、さらに、衰滅の発生の世である。三つの世がある。三つの感受三受 :苦受・楽受・不苦不楽受)である。四つの世がある。四つの食 四食:口にする食・知覚としての食・意志としての食・認識としての食) である。五つの世がある。五つの 〔心身を構成する〕 執取の範疇 五取蘊 :色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)である。六つの世がある。六つの内なる 〔認識の〕 場所 六内処 :眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処)である。七つの世がある。七つの識知 〔作用〕 の止住 七識住:種々なる身体と種々なる表象ある有情・種々なる身体と一なる表象ある有情・一なる身体と種々なる表象ある有情・一なる身体と一なる表象ある有情・空無辺処に属する有情・識無辺処に属する有情・無所有処に属する有情)である。八つの世がある。八つの世の法 八世間法:利得・利得なき・盛名・盛名なき・安楽・苦痛・非難・賞賛) である。九つの世がある。九つの有情の居住所九有情居:種々なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・種々なる身体と一なる表象ある有情の居住所・一なる身体と種々なる表象ある有情の居住所・一なる身体と一なる表象ある有情の居住所・表象なく感受されたものなき有情の居住所・空無辺処に属する有情の居住所・識無辺処に属する有情の居住所・無所有処に属する有情の居住所・非想非非想処に属する有情の居住所)である。十の世がある。十の 〔認識の〕 場所 十処 :眼処・色処・耳処・音処・鼻処・香処・舌処・味処・身処・所触処)である。十二の世がある。十二の 〔認識の〕 場所 十二処 である。十八の世がある。十八の界域十八界である。「世の終極に至り」とは、世尊は、世の、終極に至った方、終極に至り得た方、突端に至った方、突端に至り得た方……略([372]参照)……涅槃に至った方、涅槃に至り得た方である。彼は、住することを住した方 (梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「世の終極に至り」。

「一切の 〔迷いの〕生存を超克した方は」とは、二つの生存がある。 (1) そして、行為の生存業有 であり、 (2) さらに、結生あるものとしてのさらなる生存 再有 である。 (1)どのようなものが、行為の生存であるのか。功徳ある行作 (善果を形成する働き)、功徳なき行作 (悪果を形成する働き) 、不動の行作 (無色界の禅定を形成する働き) である。これが、行為の生存である。 (2) どのようなものが、結生あるものとしてのさらなる生存であるのか。結生あるものとしての、形態 、感受 〔作用〕 、表象 〔作用〕 、諸々の形成 〔作用〕 、識知 〔作用〕 である。これが、結生あるものとしてのさらなる生存である。世尊は、そして、行為の生存を、さらに、結生あるものとしてのさらなる生存を、超え去った方であり、超越した方であり、超克した方である。ということで、「世の終極に至り一切の〔迷いの〕 生存を超克した方は」。

「煩悩なく一切の苦を捨棄する方は」とは、「煩悩なく」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。「一切の苦を捨棄する方」とは、彼の、一切の結生あるものとしての、生の苦しみ、老の苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の苦しみ……略([208]参照)……見解の災厄の苦しみは、捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、一切の苦を捨棄する方である。ということで、「煩悩なく一切の苦を捨棄する方は」。

「真理を呼び名とする方は、梵 (婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです」とは、「真理を呼び名とする方」とは、真理を呼び名とする方、等しき名前ある方、等しき呼び名ある方、真理という等しき呼び名ある方。ヴィパッシン世尊、シキン世尊、ヴェッサブー世尊、カクサンダ世尊、コーナーガマナ世尊、カッサパ世尊は、彼らは、覚者たる世尊たちであり、等しき名前ある方たちであり、等しき呼び名ある方たちである。シャカムニ世尊もまた、それらの覚者たる世尊たちにとって、等しき名前ある方であり、等しき呼び名ある方である。ということで、「真理を呼び名とする方」。

「梵 (婆羅門)よ、わたしによって近侍されたのです」とは、彼は、世尊は、わたしによって、近坐された、近侍された、奉侍された、遍く問い尋ねられた、遍く質問された。ということで、「真理を呼び名とする方は、梵よ、わたしによって近侍されたのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方は、世の終極に至り一切の 〔迷いの〕生存を超克した方は、煩悩なく一切の苦を捨棄する方は、真理を呼び名とする方は、梵 (婆羅門) よ、わたしによって近侍されたのです」と。
1140. (1134)たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです。(4)

「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように」とは、鳥(ディジャ:二生のもの) は、鳥 (パッキン:翼あるもの) と説かれる。何を契機とすることから、鳥 (ディジャ:二生のもの) は、鳥 (パッキン:翼あるもの)と説かれるのか。そして、母の子宮から、さらに、卵の殻から、二回、生まれる、ということで、「鳥 (ディジャ:二生のもの) 」。それを契機とすることから、鳥 (ディジャ:二生のもの) は、鳥 (パッキン:翼あるもの)と説かれる。ということで、「鳥が」。「まばらな林を捨棄して」とは、たとえば、鳥が、まばらな林を、小さな林を、果の少ないところを、食の少ないところを、水の少ないところを、捨棄し去って、捨棄して、超越して、等しく超越して、超克して、他の、果の多いところに、食の多いところに、水の多いところに、大いなる森である密林に、到達し、見出し、獲得し、そして、その密林において、住居を営むであろうように。ということで、「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように」。

「このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」とは、「このように」とは、喩えを現に実践するもの。「見少なき者たちを捨棄して」とは、そして、すなわち、バーヴァリ婆羅門は、さらに、すなわち、他の、彼の師匠たちは、覚者たる世尊と比較して、少なき見ある者たちであり、微小の見ある者たちであり、僅少の見ある者たちであり、下等の見ある者たちであり、悪辣の見ある者たちであり、劣小の見ある者たちであり、彼らを、少なき見ある者たちを、微小の見ある者たちを、僅少の見ある者たちを、下等の見ある者たちを、悪辣の見ある者たちを、劣小の見ある者たちを、捨棄し去って、捨棄して、超越して、等しく超越して、超克して、覚者たる世尊に、無量の見ある方に、至高の見ある方に、最勝の見ある方に、殊勝の見ある方に、筆頭の見ある方に、最上の見ある方に、最も優れた見ある方に、同等の者なき方に、〔過去と未来の〕同等の者なき者たちと同等なる方に、対等の者なき方に、相似の者なき方に、対する人なき方に、天にして天を超える方に、人の雄牛たる方に、人の獅子たる方に、人の龍象たる方に、人の良馬たる方(善き生まれの者) に、人の荷牛たる方 (忍耐強き者) に、十の力を保持する方に、 〔わたしは〕到達した、 〔わたしは〕 見出した、 〔わたしは〕獲得した。そして、たとえば、白鳥が、大いなる、あるいは、人工池に、あるいは、アノータッタ池に、あるいは、大海に、不動にして無量の水があり水の集まるところに、到達し、見出し、獲得するであろうように、まさしく、このように、覚者たる世尊に、不動なる方に、無量の威光ある方に、細別された知恵ある方に、開かれた眼ある方に、智慧の細別に巧みな智ある方に、融通無礙に到達した方に、四つの離怖に至り得た方に、清浄を信念した方に、白の傘蓋ある方に、不二の話し手たる方に、如なる方に、そのとおりに明言する方に、微小ならざる方に、偉大なる方に、深遠なる方に、無量なる方に、深解し難き方に、多大なる宝ある方に、海洋の如き方に、六つの支分ある放捨(色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した方に、無比なる方に、広大なる方に、無量なる方に、彼に、如なる説き手として道を説く方に、諸山のなかのメール須弥山 のような方に、鳥たちのなかのガルラ(金翅鳥)のような方に、獣たちのなかの獅子のような方に、諸海の中の大洋のような方に、彼に、 〔世の〕 教師にして最も優れた勝者たる偉大なる聖賢に、 〔わたしは〕到達した。ということで、「このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「たとえば、鳥が、まばらな林を捨棄して、果多き森に住みつくように、このように、わたしは、見少なき者たちを捨棄して、白鳥のように、大海原に達し得たのです」と。
1141. (1135) ゴータマの教えより以前に、「かくのごとく存していた」「かくのごとく成るであろう」〔と〕 、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕 伝え聞きであり、その一切が、 〔誤った〕 考え (邪説) を増大させるものです。(5)

「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」とは、「それらの者たちが」とは、そして、すなわち、バーヴァリ婆羅門であり、さらに、すなわち、他の、彼の師匠たちであり、彼らは、自らの見解を、自らの受認(信受) を、自らの嗜好 (意欲)を、自らの主張を、自らの志欲を、自らの志向を、説き明かした、告げ知らせた、説示した、報知した、確立した、開顕した、区分した、明瞭と為した、明示した。ということで、「過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが」。

「ゴータマの教えより以前に」とは、ゴータマの教えより以前に、ゴータマの教えより他に、ゴータマの教えより前に、ゴータマの教えより、覚者の教えより、勝者の教えより、如来の教えより、阿羅漢の教えより、より以前に。ということで、「ゴータマの教えより以前に」。

「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』〔と〕」とは、「伝えるところとして、このように存していた」「伝えるところとして、このように成るであろう」 〔と〕 。ということで、「『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』 〔と〕 」。

「その一切が、 〔単なる〕 伝え聞きであり」とは、その一切が、伝聞であり、伝説によって、相伝によって、典籍の成就(保持)によって、考慮を因として、推論を因として、行相の思索によって、見解の納得と受認 (信受) によって、すなわち、自らをもって、自ら、証知したものではなく、自己の現見の法(真理) ではないものを、 〔彼らは〕 言説した (議論した)。ということで、「その一切が、 〔単なる〕 伝え聞きであり」。

「その一切が、 〔誤った〕 考え (邪説)を増大させるものです」とは、その一切が、 〔誤った〕 考えを増大させるものであり、〔誤った〕 思考を増大させるものであり、 〔誤った〕思惟を増大させるものであり、欲望の思考を増大させるものであり、憎悪の思考を増大させるものであり、悩害の思考を増大させるものであり、親族の思考を増大させるものであり、地方の思考を増大させるものであり、不死の思考を増大させるものであり、他者への憐憫に関係した思考を増大させるものであり、利得と尊敬と名声に関係した思考を増大させるものであり、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考を増大させるものである。ということで、「その一切が、 〔誤った〕 考えを増大させるものです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「ゴータマの教えより以前に、『かくのごとく存していた』『かくのごとく成るであろう』 〔と〕 、過去において、それらの者たちが、わたしに説き明かしたのですが、その一切が、〔単なる〕 伝え聞きであり、その一切が、 〔誤った〕 考え (邪説)を増大させるものです」と。
1142. (1136) 独り、 〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります⸺光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です。(6)

「独り、 〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として」とは、「独り」とは、世尊は、 (1)出家と名づけられたことによって、独りであり、 (2) 伴侶なきの義(意味) によって、独りであり、 (3) 渇愛の捨棄の義 (意味) によって、独りであり、(4)絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に〔心の〕 汚れなき方、ということで、独りであり、 (5) 一路の道に至った方、ということで、独りであり、 (6) 独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

(1)どのように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りであるのか。世尊は、まさしく、年少の者として 〔世に〕 存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期 (青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、親族の群れを捨棄して、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣袈裟をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、 〔世を〕 歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕 守り、 〔身を〕保ち、 〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りである。

(2)どのように、世尊は、伴侶なきの義 (意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、出家者として 〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する⸺音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで 〔行乞の〕食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り (瞑想する) 、独りで歩行〔瞑想〕 経行〔心を〕確立し、独りで、 〔世を〕 歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、〔身を〕 保ち、 〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、伴侶なきの義 (意味) によって、独りである。

(3)どのように、世尊は、渇愛の捨棄の義 (意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、独りで、伴侶なく、 〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として 〔世に〕住みつつ、ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、大いなる精励をもって 〔自己を〕 精励しながら、軍団を有する悪魔を、黒き者たるナムチを、放逸の眷属を、砕破して〔そののち〕 、渇愛の網を、 〔渇愛の〕 流れを、 〔渇愛の〕執着を、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。

〔そこで、詩偈に言う〕 「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、 〔今〕 この場の 〔迷いの〕 状態(現世) と他の 〔迷いの〕 状態(来世) を、 〔生と死の〕輪廻を超克しない。
この危険を知って、渇愛 〔の思い〕 を苦しみの発生と 〔知って〕 、渇愛〔の思い〕 を離れ、執取 〔の思い〕 なく、 〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。

このように、世尊は、渇愛の捨棄の義 (意味) によって、独りである。

(4)どのように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであるのか。貪欲が捨棄されたことから、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、憤怒が捨棄されたことから、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、迷妄が捨棄されたことから、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、諸々の〔心の〕 汚れが捨棄されたことから、絶対的に 〔心の〕汚れなき方、ということで、独りである。このように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りである。

(5)どのように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りであるのか。一路の道は、四つの気づきの確立 四念住・四念処 :身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励 四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場 四神足:意欲・専心・精進・考察) 、五つの機能 五根:信・精進・気づき・禅定・智慧) 、五つの力 五力 :信・精進・気づき・禅定・智慧) 、七つの覚りの支分 七覚支 :気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道 八正道八聖道 :正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定) 、と説かれる。

〔そこで、詩偈に言う〕 「生の滅尽と終極を見る 〔覚者〕は、 〔人々に〕 利益と慈しみ 〔の思い〕 ある 〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、 〔人々は〕 過去において〔激流を〕 超えたのであり、 〔未来においても〕 超えるであろうし、そして、すなわち、 〔今現在も〕 激流を超えるのだ」と。

このように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りである。

(6)どのように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りであるのか。覚り 菩提 は、四つの 〔聖者の〕(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) における、知恵 、智慧 慧・般若 、智慧の機能 慧根 、智慧の力 慧力 、法 (真理)の判別という正覚の支分 択法覚支〔あるがままの〕 考察、 〔あるがままの〕 観察 毘鉢舎那・観 :観察瞑想) 、正しい見解 正見 、と説かれる。世尊は、その覚りの知恵によって、「一切の形成〔作用〕 は、無常である」と覚った。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である」と覚った。「一切の法 (事象)は、無我である」と覚った。……略 ([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質)である」と覚った。さらに、あるいは、それが何であれ、覚られるべきものであるなら、随覚されるべきものであるなら、醒覚されるべきものであるなら、正覚されるべきものであるなら、到達されるべきものであるなら、体得されるべきものであるなら、実証されるべきものであるなら、その全てを、その覚りの知恵によって、覚った、随覚した、醒覚した、正覚した、到達した、体得した、実証した。このように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。

〔世の〕闇を除去する方として」とは、世尊は、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、 〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、除いた、除き去った、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。「端坐する方として」とは、パーサーナカ塔廟において坐っている世尊、ということで、端坐する方である。

〔そこで、詩偈に言う〕 「山腹に端坐する 〔覚者〕に、苦しみの彼岸に至る牟尼に、弟子たちは奉侍する⸺三つの明知ある者たちにして、死魔 〔の領域〕 を捨棄する者たちは」と。

このようにもまた、世尊は、端坐する方である。さらに、あるいは、世尊は、一切の思い入れが安息したことから、端坐する方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕。彼に、さらなる生存は存在しない」と。このようにもまた、世尊は、端坐する方である。ということで、「独り、 〔世の〕 闇を除去する方として、端坐する方として」。

「彼はあります⸺光輝ある方であり、光の作り手たる方です」とは、「光輝ある方であり」とは、光輝ある方、思慧ある方、賢者たる方、智慧ある方、覚慧ある方、知恵ある方、分明する方、思慮ある方。「光の作り手たる方です」とは、光の作り手たる方、光明の作り手たる方、光輝の作り手たる方、灯りの作り手たる方、灯明の作り手たる方、輝きの作り手たる方、灯火の作り手たる方。ということで、「彼はあります⸺光輝ある方であり、光の作り手たる方です」。

「ゴータマは、広き智慧ある方です」とは、ゴータマは、英知を標識とする方、知恵を標識とする方、智慧を旗とする方、智慧を幟とする方、智慧を優位とする方、判別多き方、精査多き方、見察多き方、正しい見察多き方、明確なる住者たる方、それを所行とする方、それが多くある方、それに尊重ある方、それに向かい行く方、それに傾倒する方、それに傾斜する方、それを信念した方、それを優位とする方である。

〔そこで、詩偈に言う〕「旗は、車の標識である。煙は、火の標識である。王は、国土の標識である。夫は、婦女の標識である」と。

まさしく、このように、ゴータマは、英知を標識とする方、知恵を標識とする方、智慧を旗とする方、智慧を幟とする方、智慧を優位とする方、判別多き方、精査多き方、見察多き方、正しい見察多き方、明確なる住者たる方、それを所行とする方、それが多くある方、それに尊重ある方、それに向かい行く方、それに傾倒する方、それに傾斜する方、それを信念した方、それを優位とする方である。ということで、「ゴータマは、広き思慮ある方です」。

「ゴータマは、広き思慮ある方です」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「ゴータマは、広き思慮ある方です」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「独り、 〔世の〕闇を除去する方として、端坐する方として、彼はあります⸺光輝ある方であり、光の作り手たる方です。ゴータマは、広き智慧ある方です。ゴータマは、広き思慮ある方です」と。
1143. (1137) その方は、わたしに、法 (真理)を説示してくださったのです⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を。その 〔境地〕 には、どこにも喩えが存在しないのです。 (7)

「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです」とは、「その方は」とは、すなわち、彼は、世尊は、〔他に依らず〕 自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法(教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理) を説示してくださったのです」とは、「法 (真理) を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味) を有するものとして、文 (文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕 道を、 〔世尊は〕告げ知らせた、 〔世尊は〕 説示した、 〔世尊は〕 報知した、 〔世尊は〕 確立した、〔世尊は〕 開顕した、 〔世尊は〕区分した、 〔世尊は〕 明瞭と為した、 〔世尊は〕 明示した。ということで、「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです」。

「現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法現法 :現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕 を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕 得ず、時を待つとして、この法 (真理) は、まさしく、 〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法 (現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する⸺他所ではなく、他の世ではなく⸺このように、時を要さない〔即座の法〕 として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕 を」。

「渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法 (意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕 を」とは、疾患は、かつまた、諸々の 〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕 を」。

「その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」とは、「その 〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのです」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕 を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕を。その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」と。
1144. (1138) 〔バーヴァリが言った〕⸺その方から、いったい、どうして、 〔おまえが〕離れ住むというのだろう⸺ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。 (8)

「その方から、いったい、どうして、 〔おまえが〕 離れ住むというのだろう」とは、覚者から、いったい、どうして、 〔おまえが〕 離れ住むというのだろう、 〔おまえが〕離れ行くというのだろう、 〔おまえが〕 離れ去るというのだろう、〔おまえが〕別れ別れに成るというのだろう。ということで、「その方から、いったい、どうして、 〔おまえが〕 離れ住むというのだろう」。

「ピンギヤよ、寸時でさえも」とは、寸時でさえも、瞬時でさえも、ひと時(ラヤ) でさえも、ひと時 (ヴァヤ) でさえも、ひと時 (アッダ)でさえも。ということで、「寸時でさえも」。「ピンギヤよ」とは、バーヴァリは、その甥に、名前で語りかける。

「広き智慧あるゴータマから」とは、ゴータマから、英知を標識とする方から、知恵を標識とする方から、智慧を旗とする方から、智慧を幟とする方から、智慧を優位とする方から、判別多き方から、精査多き方から、見察多き方から、正しい見察多き方から、明確なる住者たる方から、それを所行とする方から、それが多くある方から、それに尊重ある方から、それに向かい行く方から、それに傾倒する方から、それに傾斜する方から、それを信念した方から、それを優位とする方から。ということで、「広き智慧あるゴータマから」。

「広き思慮あるゴータマから」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「広き思慮あるゴータマから」。それによって、その婆羅門は言った。

〔バーヴァリが言った〕 ⸺「その方から、いったい、どうして、 〔おまえが〕離れ住むというのだろう⸺ピンギヤよ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから」と。
1145. (1139) その方は、おまえに、法 (真理)を説示してくださったのだ⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を。その 〔境地〕 には、どこにも喩えが存在しないのだ。 (9)

「その方は、おまえに、法 (真理) を説示してくださったのだ」とは、すなわち、彼は、世尊は……略 ([878]参照)……。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理) を説示してくださったのだ」とは、「法 (真理) を」とは、最初が善なるものとして、中間において善なるものとして……略 ([422]参照) ……そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る 〔実践の〕 道を、 〔世尊は〕 告げ知らせた、〔世尊は〕 説示した、 〔世尊は〕報知した、 〔世尊は〕 確立した、 〔世尊は〕 開顕した、 〔世尊は〕 区分した、〔世尊は〕 明瞭と為した、 〔世尊は〕 明示した。ということで、「その方は、おまえに、法 (真理) を説示してくださったのだ」。

「現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕 を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕 得ず、時を待つとして、この法 (真理) は、まさしく、 〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法 (現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する⸺他所ではなく、他の世ではなく⸺このように、時を要さない〔即座の法〕 として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕 を」。

「渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法 (意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕 を」とは、疾患は、かつまた、諸々の 〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕 を」。

「その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」とは、「その 〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのだ」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」。それによって、その婆羅門は言った。

「その方は、おまえに、法 (真理) を説示してくださったのだ⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕 を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕を。その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのだ」と。
1146. (1140) 〔ピンギヤは言った〕⸺わたしは、その方から、離れ住むことはありません⸺婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから。(10)

「わたしは、その方から、離れ住むことはありません」とは、わたしは、覚者から、離れ住むことは、離れ行くことは、離れ去ることは、別れ別れに成ることは、〔もはや〕ない。ということで、「わたしは、その方から、離れ住むことはありません」。

「婆羅門よ、寸時でさえも」とは、寸時でさえも、瞬時でさえも、ひと時(ラヤ) でさえも、ひと時 (ヴァヤ) でさえも、ひと時 (アッダ)でさえも。「婆羅門よ」とは、尊重 〔の思い〕 で、叔父 (バーヴァリ) に語りかける。

「広き智慧あるゴータマから」とは、ゴータマから、英知を標識とする方から、知恵を標識とする方から、智慧を旗とする方から、智慧を幟とする方から、智慧を優位とする方から、判別多き方から、精査多き方から、見察多き方から、正しい見察多き方から、明確なる住者たる方から、それを所行とする方から、それが多くある方から、それに尊重ある方から、それに向かい行く方から、それに傾倒する方から、それに傾斜する方から、それを信念した方から、それを優位とする方から。ということで、「広き智慧あるゴータマから」。

「広き思慮あるゴータマから」とは、広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。思慮は、智慧と説かれる。すなわち、智慧、覚知……略([221]参照) ……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。世尊は、この思慮たる智慧を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。それゆえに、覚者は、思慮深き方である。ということで、「広き思慮あるゴータマから」。それによって、長老ピンギヤは言った。

〔ピンギヤは言った〕⸺「わたしは、その方から、離れ住むことはありません⸺婆羅門よ、寸時でさえも、広き智慧あるゴータマから、広き思慮あるゴータマから」と。
1147. (1141) その方は、わたしに、法 (真理)を説示してくださったのです⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を。その 〔境地〕 には、どこにも喩えが存在しないのです。 (11)

「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです」とは、すなわち、彼は、世尊は、 〔他に依らず〕 自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに、さらに、諸々の力における自在なる状態に、至り得た方としてある。「法(真理) を説示してくださったのです」とは、「法 (真理) を」とは、最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味) を有するものとして、文 (文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る〔実践の〕 道を、 〔世尊は〕告げ知らせた、 〔世尊は〕 説示した、 〔世尊は〕 報知した、 〔世尊は〕 確立した、〔世尊は〕 開顕した、 〔世尊は〕区分した、 〔世尊は〕 明瞭と為した、 〔世尊は〕 明示した。ということで、「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです」。

「現に見られ時を要さない 〔即座の法〕を」とは、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このように、「現に見られ」。さらに、あるいは、彼が、まさしく、所見の法(現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する。ということで、このようにもまた、「現に見られ」。「時を要さない〔即座の法〕 を」とは、たとえば、人間たちが、時を要するものとして財を施して、直後に〔果を〕 得ず、時を待つとして、この法 (真理) は、まさしく、 〔そのようなことが〕ない。彼が、まさしく、所見の法 (現世)において、聖なる八つの支分ある道を修めるなら、その道の、直後に、等しく直後に、まさしく、 〔果に〕 到達して、果を、見出し、獲得する⸺他所ではなく、他の世ではなく⸺このように、時を要さない〔即座の法〕 として。ということで、「現に見られ時を要さない〔即座の法〕 を」。

「渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕 を」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法 (意の対象)への渇愛。「渇愛の滅尽を」とは、渇愛の滅尽を、貪欲の滅尽を、憤怒の滅尽を、迷妄の滅尽を、境遇の滅尽を、再生の滅尽を、結生の滅尽を、生存の滅尽を、輪廻の滅尽を、転起の滅尽を。「疾患なき〔境地〕 を」とは、疾患は、かつまた、諸々の 〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。疾患の捨棄を、疾患の寂止を、疾患の放棄を、疾患の安息を、不死なる涅槃を。ということで、「渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕 を」。

「その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」とは、「その 〔境地〕には」とは、涅槃には。「喩えが存在しないのです」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「その〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「その方は、わたしに、法 (真理) を説示してくださったのです⸺現に見られ時を要さない 〔即座の法〕 を、渇愛の滅尽を、疾患なき 〔境地〕を。その 〔境地〕には、どこにも喩えが存在しないのです」と。
1148. (1142) 〔わたしは〕 見ます⸺その方を、眼で〔見る〕 かのように、意で⸺婆羅門よ、夜に、昼に、 〔気づきを〕 怠ることなく。夜は、 〔覚者を〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、 〔もはや、覚者から〕離れ住むことなき者と、 〔自らを〕 思うのです。 (12)

〔わたしは〕見ます⸺その方を、眼で 〔見る〕かのように、意で」とは、たとえば、眼ある人が、光明のもと、諸々の形態の在り方をしたものを、見るであろう、視認するであろう、注目するであろう、凝視するであろう、近しく注視するであろうように、まさしく、このように、わたしは、覚者たる世尊を、意で、見るであろう、視認するであろう、注目するであろう、凝視するであろう、近しく注視するであろう。ということで、「〔わたしは〕 見ます⸺その方を、眼で 〔見る〕 かのように、意で」。

「婆羅門よ、夜に、昼に、 〔気づきを〕 怠ることなく」とは、そして、夜に、さらに、昼に、覚者の随念を、意で修行している者として、〔気づきを〕 怠らない者として。ということで、「婆羅門よ、夜に、昼に、〔気づきを〕 怠ることなく」。

「夜は、 〔覚者を〕礼拝する者として過ごし」とは、「 〔覚者を〕礼拝する者として」とは、あるいは、身体によって礼拝している者として、あるいは、言葉によって礼拝している者として、あるいは、心によって礼拝している者として、あるいは、義(意味) のままなる実践によって礼拝している者として、あるいは、法(教え) が法 (教え)のままなる実践によって、礼拝している者として、尊敬している者として、尊重している者として、思慕している者として、供養している者として、夜に、昼に、〔わたしは〕 過ごすであろう、 〔わたしは〕 暮らし行くであろう、 〔わたしは〕過ごし行くであろう。ということで、「夜は、 〔覚者を〕礼拝する者として過ごし」。

「まさしく、それによって、 〔もはや、覚者から〕 離れ住むことなき者と、 〔自らを〕思うのです」とは、その覚者の随念によって修行しつつ、「 〔覚者から〕離れ住むことなき者である」と、その 〔わたし〕 のことを、 〔わたしは〕 思う、「 〔覚者から〕離れ住まずにいる者である」と、その 〔わたし〕 のことを、 〔わたしは〕 思う、 〔わたしは〕 知る。このように、〔わたしは〕 知る、このように、 〔わたしは〕 了知する、このように、 〔わたしは〕識知する、このように、 〔わたしは〕 解知する、このように、〔わたしは〕 理解する。ということで、「まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕 離れ住むことなき者と、 〔自らを〕 思うのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

〔わたしは〕 見ます⸺その方を、眼で 〔見る〕かのように、意で⸺婆羅門よ、夜に、昼に、 〔気づきを〕 怠ることなく。夜は、〔覚者を〕 礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、覚者から〕 離れ住むことなき者と、 〔自らを〕 思うのです」と。
1149. (1143) そして、 〔迷いなき〕 信は、さらに、〔真の〕 喜悦は、 〔切なる〕意は、かつまた、 〔怠りなき〕気づきは⸺これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その 〔方角〕その方角に、まさしく、その 〔場〕 その 〔場〕 に、 〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです。 (13)

「そして、 〔迷いなき〕信は、さらに、 〔真の〕 喜悦は、 〔切なる〕 意は、かつまた、 〔怠りなき〕気づきは」とは、「信」とは、そして、すなわち、世尊を対象としての、信、信を置くこと、信用すること、大いに清信あること、信、信の機能信根 、信の力 信力である。「喜悦」とは、すなわち、世尊を対象としての、喜悦、歓喜、歓喜すること、深く歓喜すること、強く歓喜すること、笑喜、欣喜、歓悦、満足、心の、勇躍すること、わが意を得ることである。「意」とは、そして、すなわち、世尊を対象としての、心、意(マノー) 、意図 (マーナサ)、心臓 (心) 、白きもの (認識の領域) 、意 (マノー) 、意の〔認識の〕 場所 意処 、意の機能 意根 、識知 〔作用〕 、識知 〔作用〕 の範疇 識蘊 、それに応じる意の識知 〔作用〕 の界域 意識界である。「気づき」とは、すなわち、世尊を対象としての、気づき 、随念、正しい気づき 正念 である。ということで、「そして、 〔迷いなき〕 信は、さらに、 〔真の〕 喜悦は、〔切なる〕 意は、かつまた、 〔怠りなき〕 気づきは」。

「これらは、ゴータマの教えから離れず」とは、これらの四つの法(性質)は、ゴータマの教えから、覚者の教えから、勝者の教えから、如来の教えから、阿羅漢の教えから、離れず、去らず、衰退せず、消失しない。ということで、「これらは、ゴータマの教えから離れず」。

「広き智慧ある方が行く、その 〔方角〕 その方角に」とは、「その 〔方角〕その方角に」とは、あるいは、東の方角に、あるいは、西の方角に、あるいは、南の方角に、あるいは、北の方角に、 〔世尊が〕 行く、 〔世尊が〕 赴く、〔世尊が〕 進む、 〔世尊が〕進み行く。「広き智慧ある方が」とは、広き智慧ある方が、偉大なる智慧ある方が、鋭敏なる智慧ある方が、多々なる智慧ある方が、敏速なる智慧ある方が、疾走する智慧ある方が、洞察の智慧ある方が。広きは、地と説かれる。世尊は、その地と等しく広大にして拡張した智慧を具備した方である。ということで、「広き智慧ある方が行く、その〔方角〕 その方角に」。

「まさしく、その 〔場〕その 〔場〕 に、 〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです」とは、その 〔わたし〕 は、その〔場〕 に、覚者がいるなら、まさしく、その 〔場〕 その 〔場〕に、礼拝者としてあり、それに向かい行く者としてあり、それに傾倒する者としてあり、それに傾斜する者としてあり、それを信念した者としてあり、それを優位とする者としてある。ということで、「まさしく、その〔場〕 その 〔場〕 に、〔まさに〕その、わたしは、礼拝者として存するのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「そして、 〔迷いなき〕 信は、さらに、 〔真の〕 喜悦は、〔切なる〕 意は、かつまた、 〔怠りなき〕 気づきは⸺これらは、ゴータマの教えから離れず、広き智慧ある方が行く、その〔方角〕 その方角に、まさしく、その 〔場〕 その 〔場〕 に、 〔まさに〕 その、わたしは、礼拝者として存するのです」と。
1150. (1144) 老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その 〔場〕 に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、 〔その場に〕 行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その 〔場〕 と結ばれているのです。 (14)

「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの」とは、「老い朽ち」とは、老いた者の、年長の者の、老練の者の、歳月を重ねた者の、年齢を加えた者の。「力と強さに劣る」とは、力と強さに劣る者の、少なき強さの者の、微小なる強さの者にとって。ということで、「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの」。

「身体が、まさしく、その 〔場〕 に至ることはありません。そこにおいて」とは、身体は、その 〔場〕 に、覚者がいるとして、その 〔場〕に、至ることはない、行くことはない、赴くことはない、超え行くことはない。ということで、「身体が、まさしく、その〔場〕 に至ることはありません。そこにおいて」。

「常に思惟が進み行くことで、 〔その場に〕行き着くのです」とは、思惟が赴くことで、思考が赴くことで、知恵が赴くことで、智慧が赴くことで、覚慧が赴くことで、〔わたしは〕 行き着く、 〔わたしは〕 赴く、 〔わたしは〕超え行く。ということで、「常に思惟が進み行くことで、 〔その場に〕行き着くのです」。

「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その 〔場〕 と結ばれているのです」とは、「意」は、すなわち、心、意 (マノー) 、意図 (マーナサ) ……略([250]参照) ……それに応じる意の識知 〔作用〕 の界域である。「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その 〔場〕 と結ばれているのです」とは、意は、その 〔場〕に、覚者がいるなら、その 〔場〕と、結ばれている、強く結ばれている、等しく結ばれている。ということで、「婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その 〔場〕 と結ばれているのです」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「老い朽ち、力と強さに劣る、わたしの身体が、まさしく、その〔場〕 に至ることはありません。そこにおいて、常に思惟が進み行くことで、〔その場に〕 行き着くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その〔場〕 と結ばれているのです」と。
1151. (1145) 汚泥に臥し震えおののきながら、 〔わたしは〕洲から洲へと漂いました。そこで、 〔わたしは〕正覚者を見ました⸺激流を超えた煩悩なき方を。 (15)

「汚泥に臥し震えおののきながら」とは、「汚泥に臥し」とは、欲望の汚泥のうちに、欲望の泥土のうちに、欲望の汚れのうちに、欲望の釣針のうちに、欲望の苦悶のうちに、欲望の障害のうちに、臥しつつ、臥している、住している、固く住している、遍く住している。ということで、「汚泥に臥し」。「震えおののきながら」とは、渇愛による震えおののきによって震えおののきながら、見解による震えおののきによって震えおののきながら、〔心の〕 汚れによる震えおののきによって震えおののきながら、専念〔努力〕 加行 による震えおののきによって震えおののきながら、報い 異熟による震えおののきによって震えおののきながら、意による悪しき行ないによる震えおののきによって震えおののきながら、貪欲によって貪る者となり震えおののきながら、憤怒によって怒る者となり震えおののきながら、迷妄によって迷う者となり震えおののきながら、思量によって結縛された者となり震えおののきながら、見解によって偏執した者となり震えおののきながら、高揚によって〔心の〕 散乱に至った者となり震えおののきながら、疑惑によって結論なきに至った者(疑惑者) となり震えおののきながら、諸々の悪習 随眠 :潜在煩悩) によって強靭に至った者 (頑迷固陋の者)となり震えおののきながら、利得によって震えおののきながら、利得なきによって震えおののきながら、盛名によって震えおののきながら、盛名なきによって震えおののきながら、賞賛によって震えおののきながら、非難によって震えおののきながら、安楽によって震えおののきながら、苦痛によって震えおののきながら、生によって震えおののきながら、老によって震えおののきながら、病によって震えおののきながら、死によって震えおののきながら、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤によって震えおののきながら、地獄の苦しみによって震えおののきながら、畜生の胎の苦しみによって震えおののきながら、餓鬼の境域の苦しみによって震えおののきながら、人間の苦しみによって……略……入胎を根元とする苦しみによって……胎における止住を根元とする苦しみによって……胎からの出起を根元とする苦しみによって……生まれた者に連結する苦しみによって……生まれた者が他者の配下となる苦しみによって……自己の行動(自害) としての苦しみによって……他者の行動 (他害)としての苦しみによって……苦痛の苦しみによって……形成の苦しみによって……変化の苦しみによって……眼の病の苦しみによって……耳の病の苦しみによって……鼻の病の苦しみによって……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝) から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる 〔姿勢の〕 維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い 業報から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、震えおののきながら、遍く震えおののきながら、強く動揺しながら、等しく動揺しながら。ということで、「汚泥に臥し震えおののきながら」。

〔わたしは〕洲から洲へと漂いました」とは、教師から教師へと、法 (教え) の告知から法(教え) の告知へと、衆徒から衆徒へと、見解から見解へと、 〔実践の〕 道から 〔実践の〕 道へと、〔聖者の〕 道から 〔聖者の〕道へと、 〔わたしは〕 漂った、 〔わたしは〕 漂流した、 〔わたしは〕等しく漂った。ということで、「 〔わたしは〕 洲から洲へと漂いました」。

「そこで、 〔わたしは〕正覚者を見ました」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「見ました」とは、〔わたしは〕 見た、 〔わたしは〕視認した、 〔わたしは〕 観た、 〔わたしは〕 理解した。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略 ([1040]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。ということで、「そこで、 〔わたしは〕 正覚者を見ました」。

「激流を超えた煩悩なき方を」とは、「激流を超えた」とは、世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方……略 ([467-468]参照) ……。生と死の輪廻は 〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」 〔と〕。ということで、「激流を超えた」。「煩悩なき方を」とは、四つの煩悩がある。欲望の煩悩、生存の煩悩、見解の煩悩、無明の煩悩である。覚者たる世尊の、それらの煩悩は、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、煩悩なき方である。ということで、「激流を超えた煩悩なき方を」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「汚泥に臥し震えおののきながら、 〔わたしは〕 洲から洲へと漂いました。そこで、 〔わたしは〕 正覚者を見ました⸺激流を超えた煩悩なき方を」と。
1152. (1146) 〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕⸺すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが⸺信を解き放った者が 〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう。(16)

「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが⸺信を解き放った者が 〔そう〕有ったように」とは、すなわち、ヴァッカリ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように、すなわち、バドラーヴダ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように、すなわち、アーラヴィ・ゴータマ長老が、信ある者であり、信を尊重する者であり、信を先行とする者であり、信を信念した者であり、信を優位とする者であり、阿羅漢の資質に至り得た者であるように。ということで、「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが⸺信を解き放った者が〔そう〕 有ったように」。

「まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです」とは、まさしく、このように、あなたは、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念しなさい、信用しなさい。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。「一切の形成〔作用〕 は、苦痛である」と……略……。「一切の法 (事象)は、無我である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。……略([221]参照) ……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、信を、解き放つのだ、強く解き放つのだ、等しく解き放つのだ、信念するのだ、信用するのだ。ということで、「まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです」。

「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」とは、死魔の領域は、かつまた、諸々の 〔心の〕汚れ、かつまた、諸々の範疇、かつまた、諸々の行作、と説かれる。死魔の領域の彼岸は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」とは、あなたは、彼岸に至るであろう、彼岸に到達するであろう、彼岸を体得するであろう、彼岸を実証するであろう。ということで、「ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」。それによって、世尊は言った。

〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕⸺「すなわち、ヴァッカリが、バドラーヴダが、そして、アーラヴィ・ゴータマが⸺信を解き放った者が 〔そう〕有ったように、まさしく、このように、あなたもまた、信を解き放つのです。ピンギヤよ、あなたは、死魔の領域の彼岸に至るでしょう」と。
1153. (1147) 〔ピンギヤは言った〕 ⸺この〔わたし〕 は、より一層、 〔心が〕 清まります (より信を強くする)⸺牟尼の言葉を聞いて 〔そののち〕〔迷妄の〕 覆いが開かれた正覚者は、 〔心に〕鬱積なく即応即答 〔の智慧〕 ある方です。 (17)

「この 〔わたし〕は、より一層、 〔心が〕 清まります (より信を強くする) 」とは、この 〔わたし〕は、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。「一切の形成〔作用〕は、無常である」と、より一層、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。「一切の形成〔作用〕 は、苦痛である」と、より一層、より一層、清信する……略……。「一切の法(事象) は、無我である」と、より一層、より一層、清信する……略([221]参照) ……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、より一層、より一層、清信する、より一層、より一層、信を置く、より一層、より一層、信用する、より一層、より一層、信念する。ということで、「この〔わたし〕 は、より一層、 〔心が〕 清まります」。

「牟尼の言葉を聞いて 〔そののち〕 」とは、「牟尼 (ムニ) 」とは、沈黙(モーナ) は、知恵と説かれる。……略 ([409-418]参照) ……彼は、執着の網を超え行って、『牟尼』 〔と呼ばれる〕〔と〕 。「牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「牟尼の言葉を聞いて〔そののち〕 」。

〔迷妄の〕覆いが開かれた正覚者は」とは、「 〔迷妄の〕覆い」とは、五つの覆いがある。渇愛の覆い、見解の覆い、 〔心の〕汚れの覆い、悪しき行ないの覆い、無明の覆いである。覚者たる世尊の、それらの覆いは、開かれ、砕破され、根絶され、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、〔迷妄の〕 覆いが開かれた方である。「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は……略([1040]参照) …… 〔その〕 実証となる概念であり、すなわち、この、覚者である。ということで、「 〔迷妄の〕 覆いが開かれた正覚者は」。

〔心に〕鬱積なく即応即答 〔の智慧〕ある方です」とは、「鬱積」とは、貪欲は、鬱積である。憤怒は、鬱積である。迷妄は、鬱積である。忿激は、鬱積である。怨恨は……略([250]参照)……。一切の善ならざる行作は、鬱積である。覚者たる世尊の、それらの鬱積は、 〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質) としてある。それゆえに、覚者は、 〔心に〕鬱積なき方である。

「即応即答 〔の智慧〕ある方です」とは、三者の即応即答 〔の智慧〕 ある者がいる。(1) 聖典について即応即答 〔の智慧〕 ある者、 (2) 遍問について即応即答〔の智慧〕 ある者、 (3) 到達証得 について即応即答〔の智慧〕 ある者である。 (1)どのような者が、聖典について即応即答 〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、覚者の言葉が⸺経 (スッタ) 、頌歌(ゲイヤ) 、授記 (ヴェイヤーカラナ) 、詩偈 (ガーター) 、感興語(ウダーナ) 、如是語 (イティヴッタカ) 、本生 (ジャータカ) 、未曾有法(アッブタダンマ) 、問答 (ヴェーダッラ) が⸺学得されたものとして有る。 〔学得した〕 聖典に依拠して、彼に、 〔答えが〕明白となる。これが、聖典について即応即答 〔の智慧〕 ある者である。

(2)どのような者が、遍問について即応即答 〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者は、かつまた、義 (意味)について、かつまた、正理について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと) について、遍問された者として有る。〔その〕 遍問に依拠して、彼に、 〔答えが〕 明白となる。これが、遍問について即応即答 〔の智慧〕 ある者である。

(3)どのような者が、到達について即応即答 〔の智慧〕ある者であるのか。ここに、一部の者に、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、四つの聖者の道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) 、四つの沙門の果 (預流果・一来果・不還果・阿羅漢果) 、四つの融通無礙 四無礙解 :義・法・言語・応答の融通無礙) 、六つの神知 六神通 :神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)が、到達されたものとして有る。彼に、義 (意味) は知られ、法(教え) は知られ、言語は知られ、義 (意味) が知られたとき、義 (意味) は明白となり、法(教え) が知られたとき、法 (教え)は明白となり、言語が知られたとき、言語は明白となる。これらの三つについて、知恵があり、応答の融通無礙がある。世尊は、この応答の融通無礙を、具した方、具完した方、所有した方、完備した方、具有した方、完有した方、具備した方である。それゆえに、覚者は、即応即答〔の智慧〕ある方である。彼に、聖典が存在しないなら、遍問が存在しないなら、到達が存在しないなら、どうして、彼に、 〔答えが〕 明白となるというのだろう。ということで、「 〔心に〕 鬱積なく即応即答 〔の智慧〕ある方です」。それによって、長老ピンギヤは言った。

〔ピンギヤは言った〕 ⸺「この 〔わたし〕 は、より一層、〔心が〕 清まります (より信を強くする) ⸺牟尼の言葉を聞いて 〔そののち〕〔迷妄の〕 覆いが開かれた正覚者は、 〔心に〕 鬱積なく即応即答 〔の智慧〕ある方です」と。
1154. (1148) 上天 〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕 教師たる方です。 (18)

「上天 〔の神々〕たちのことを証知して」とは、「天」とは、三つの天 〔の神々〕 たちがいる。(1) 〔言葉の〕 慣習世俗 としての天 〔の神々〕 たち、 (2) 再生としての天〔の神々〕 たち、 (3)清浄としての天 〔の神々〕 たちである。 (1) どのようなものが、 〔言葉の〕 慣習としての天〔の神々〕 たちであるのか。 〔言葉の〕 慣習としての天 〔の神々〕たちは、そして、王たち、かつまた、王子たち、さらに、王妃たち、と説かれる。これらが、 〔言葉の〕 慣習としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。(2) どのようなものが、再生としての天 〔の神々〕 たちであるのか。再生としての天 〔の神々〕たちは、四大王天 〔の神々〕 四天王 たち、三十三天 〔の神々〕 たち……略 ([322]参照) ……梵身天〔の神々〕 たち、さらに、すなわち、それより上の天 〔の神々〕 たち、と説かれる。これらが、再生としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。 (3)どのようなものが、清浄としての天 〔の神々〕 たちであるのか。清浄としての天〔の神々〕たちは、如来たち、如来の弟子たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、さらに、すなわち、独覚 縁覚・辟支仏 たち、と説かれる。これらが、清浄としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。世尊は、 〔言葉の〕慣習としての天 〔の神々〕 たちを、「上天の者たちである」と証知して、再生としての天〔の神々〕 たちを、「上天の者たちである」と証知して、清浄としての天〔の神々〕たちを、「上天の者たちである」と、証知して、知って、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「上天〔の神々〕 たちのことを証知して」。

「彼此の一切を知っておられます」とは、世尊は、 (1) そして、自己のための、 (2)さらに、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法 (真理)を、了知した、体得した、実証した。 (1)どのようなものが、自己のための、上天の者と為す諸々の法 (真理) であるのか。正しい〔実践の〕 道、 〔真理に〕随順する 〔実践の〕 道、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道、義(意味) のままなる 〔実践の〕道、法 (教え) が法 (教え)のままなる 〔実践の〕 道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の〔感官の〕 機能において門が守られていること、食について量を知ること、〔眠らずに〕 起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立……略([205]参照)……聖なる八つの支分ある道である。これらが、自己のための、上天の者と為す諸々の法 (真理) と説かれる。

(2)どのようなものが、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法 (真理)であるのか。正しい 〔実践の〕 道……略 ([205]参照) ……聖なる八つの支分ある道である。これらが、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法(真理)と説かれる。このように、世尊は、そして、自己のための、さらに、他者たちのための、上天の者と為す諸々の法 (真理) を、了知した、体得した、実証した。ということで、「彼此の一切を知っておられます」。

「諸々の問いの終極を為す、 〔世の〕教師たる方です」とは、世尊は、諸々の彼岸に至る問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。諸々のサビヤの問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。諸々の帝釈〔天〕 の問いの……略……。諸々のスヤーマ 〔天子〕の問いの……。諸々の比丘の問いの……。諸々の比丘尼の問いの……。諸々の在俗信者の問いの……。諸々の女性在俗信者の問いの……。諸々の王の問いの……。諸々の士族の問いの……。諸々の婆羅門の問いの……。諸々の庶民の問いの……。諸々の隷民の問いの……。諸々の天〔の神〕 の問いの……。諸々の梵 〔天〕の問いの、終極を為す方であり、極限を為す方であり、限定を為す方であり、周縁を為す方である。ということで、「諸々の問いの終極を為す」。「〔世の〕 教師たる方 (サッタル)」とは、 〔世の〕 教師たる世尊は、先導者 (サッタヴァーハ:隊商の長) である。たとえば、隊商の長が、隊商たちを 〔導いて〕 、難所 (砂漠)を超え渡し、盗賊の難所を超え渡し、猛獣の難所を超え渡し、飢餓の難所を超え渡し、無水の難所を、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地(安全地帯) へと得達させるように、まさしく、このように、世尊は、先導者(隊商の長) であり、有情たちを 〔導いて〕、難所を超え渡し、生の難所を超え渡し、老の難所を超え渡し、病の難所を……略……死の難所を……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の難所を超え渡し、貪欲の難所を超え渡し、憤怒の難所を……迷妄の難所を……思量の難所を……見解の難所を……〔心の〕汚れの難所を……悪しき行ないの難所を超え渡し、貪欲の茂みを超え渡し、憤怒の茂みを……迷妄の茂みを……思量の茂みを……見解の茂みを……〔心の〕汚れの茂みを……悪しき行ないの茂みを、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地へと、不死なる涅槃へと、得達させる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者(隊商の長) である。

さらに、あるいは、世尊は、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、清信させる方である。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。さらに、あるいは、世尊は、〔いまだ〕 生起していない道を生起させる方であり、 〔いまだ〕 産出されていない道を産出させる方であり、 〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕 住む、 〔彼の〕弟子たちは、のちに、 〔教えを〕具備した者たちとなる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。ということで、「諸々の問いの終極を為す、〔世の〕 教師たる方です」。

「疑いありと明言する者たちのために」とは、疑いを有する者たちとしてやってきて、疑いなき者たちとして成就する。散乱〔の思い〕 を有する者たちとしてやってきて、散乱 〔の思い〕 なき者たちとして成就する。二様 〔の思い〕を有する者たちとしてやってきて、二様 〔の思い〕なき者たちとして成就する。疑惑を有する者たちとしてやってきて、疑惑なき者たちとして成就する。貪欲を有する者たちとしてやってきて、貪欲を離れた者たちとして成就する。憤怒を有する者たちとしてやってきて、憤怒を離れた者たちとして成就する。迷妄を有する者たちとしてやってきて、迷妄を離れた者たちとして成就する。〔心の〕 汚れを有する者たちとしてやってきて、 〔心の〕汚れなき者たちとして成就する。ということで、「疑いありと明言する者たちのために」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「上天 〔の神々〕たちのことを証知して、彼此の一切を知っておられます。疑いありと明言する者たちのために、諸々の問いの終極を為す、〔世の〕 教師たる方です」と。
1155. (1149) それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない 〔心のあり方〕 に、 〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、 〔涅槃に〕 心が信念した者と、お認めください。 (19)

「翻弄されず激情しない 〔心のあり方〕 に」とは、翻弄されない 〔心のあり方〕は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「翻弄されず」とは、貪欲によって、憤怒によって、迷妄によって、忿激によって、怨恨によって、偽装によって、加虐によって、嫉妬によって、物惜によって、幻惑によって、狡猾によって、強情によって、激昂によって、思量によって、高慢によって、驕慢によって、放逸によって、一切の〔心の〕汚れによって、一切の悪しき行ないによって、一切の懊悩によって、一切の苦悶によって、一切の熱苦によって、一切の善ならざる行作によって、翻弄されず、常住で、常恒で、常久で、変化なき法(性質) としてある、涅槃に。ということで、「翻弄されず」。

「激情しない 〔心のあり方〕 に」とは、激情しない 〔心のあり方〕は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成〔作用〕 の止寂……略 ([429]参照)……止滅、涅槃である。涅槃には、生起は覚知されず、衰失は存在しない。それには、他化は覚知されない。常住で、常恒で、常久で、変化なき法(性質) としてある、涅槃に。ということで、「翻弄されず激情しない〔心のあり方〕 に」。

「それには、どこにも喩えが存在しない」とは、「それには」とは、涅槃には。「喩えが存在しない」とは、喩えが存在しない、比較するものが存在しない、同等のものが存在しない、相似のものが、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されない。「どこにも」とは、どこにも、どこでも、どこにおいても、あるいは、内に、あるいは、外に、あるいは、内外に。ということで、「それには、どこにも喩えが存在しない」。

〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません」とは、「確実に」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「確実に」ということになる。「至るでありましょう」とは、〔わたしは〕 至るであろう、 〔わたしは〕 到達するであろう、 〔わたしは〕体得するであろう、 〔わたしは〕 実証するであろう。ということで、「〔わたしは〕確実に至るでありましょう」。「ここにおいて、わたしに、疑いはありません」とは、「ここにおいて」とは、涅槃において。疑いは存在しない、疑惑は存在しない、二様のものは存在しない、疑念は、存在せず、存さず、等しく見出されず、認知されず、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。ということで、「〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません」。

「このように、わたしのことを、 〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」とは、「このように、わたしのことを」「お認めください」とは、このように、わたしを近しく観てください。「〔涅槃に〕心が信念した者と」とは、涅槃に向かい行く者と、涅槃に傾倒する者と、涅槃に傾斜する者と、涅槃を信念した者と。ということで、「このように、わたしのことを、〔涅槃に〕心が信念した者と、お認めください」。それによって、長老ピンギヤは言った。

「それには、どこにも喩えが存在しない、翻弄されず激情しない〔心のあり方〕 に、 〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここにおいて、わたしに、疑いはありません。このように、わたしのことを、 〔涅槃に〕 心が信念した者と、お認めください」と。

彼岸に至るものへの諸々の復唱の詩偈についての釈示が、第十八となる。

彼岸に至るものの章は 〔以上で〕 完結となる。

注釈【0】