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翻訳【3】

ドータカ学徒の問いについての釈示

1067. (1061)かくのごとく、尊者ドータカが 〔尋ねた〕 ⸺世尊よ、 〔わたしは〕 あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、 〔わたしは〕 あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。(1)

「世尊よ、 〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」とは、「問い」とは、三つの問いがある。 (1) 〔いまだ〕見られていないものを照明するものとしての問い、 (2) 〔すでに〕 見られたものを適応するものとしての問い、 (3) 疑問を断絶するものとしての問いである。……略 ([309-311]参照) ……。これらの三つの問いがある。……略 ([312-315]参照) …… (3)涅槃の問いである。「 〔わたしは〕 あなたに尋ねます」とは、〔わたしは〕 あなたに尋ねる、 〔わたしは〕 あなたに乞い求める、 〔わたしは〕あなたに要請する、 〔わたしは〕 あなたに清信する、 〔あなたは〕 わたしに言説してください。ということで、「 〔わたしは〕 あなたに尋ねます」。「世尊 (バガヴァント)よ」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。「それを、わたしに説いてください」とは、説いてください、告げ知らせてください、説示してください、報知してください、確立してください、開顕してください、区分してください、明瞭と為してください、明示してください。ということで、「世尊よ、〔わたしは〕 あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」。

「かくのごとく、尊者ドータカが 〔尋ねた〕 」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖……略 ([197]参照) ……。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重 〔の思い〕 を有し敬虔 〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「ドータカ」とは、その婆羅門の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者ドータカが 〔尋ねた〕」。

「偉大なる聖賢よ、 〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、 〔わたしは〕 待つ、 〔わたしは〕 待ち望む、〔わたしは〕 欲求する、 〔わたしは〕 愛用する、 〔わたしは〕 切望する、〔わたしは〕 熱望する、 〔わたしは〕 渇望する。「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢 (偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。……略([429]参照) ……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。ということで、「偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕 あなたの言葉を待ち望みます」。

「あなたの話を聞いて」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「あなたの話を聞いて」。

「自己の涅槃を学ぶのです」とは、「学ぶのです」とは、三つの学びがある。(1) 卓越の戒の学び、 (2)卓越の心の学び、 (3) 卓越の智慧の学びである。……略 ([239-241]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「自己の涅槃を」とは、自己の、貪欲の寂滅のために、憤怒の寂滅のために、迷妄の寂滅のために、忿激の寂滅のために、怨恨の寂滅のために……略([250]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、寂滅のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきであり、これらの三つの学び三学 :戒・禅定・智慧) を、〔心を〕 傾注している者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕 知っている者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕 見ている者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕注視している者として学ぶべきであり、心を精励している者として学ぶべきであり、信によって信念している者として学ぶべきであり、精進を励起している者として学ぶべきであり、気づきを現起させている者として学ぶべきであり、心を定めている者として学ぶべきであり、智慧によって覚知している者として学ぶべきであり、証知されるべきものを証知している者として学ぶべきであり、遍知されるべきものを遍知している者として学ぶべきであり、捨棄されるべきものを捨棄している者として学ぶべきであり、修行されるべきものを修行している者として学ぶべきであり、実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「自己の涅槃を学ぶのです」。それによって、その婆羅門は言った。

かくのごとく、尊者ドータカが 〔尋ねた〕 ⸺「世尊よ、 〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、 〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1068. (1062)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕⸺ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい⸺まさしく、この 〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから 〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです。 (2)

「まさに、それでは、熱く為しなさい」とは、熱く為しなさい、邁進を為しなさい、勤勇を為しなさい、強靭に為しなさい、堅固に為しなさい、精進を為しなさい、〔欲の〕 思い (意欲)を、為しなさい、生じさせなさい、産出させなさい、現起させなさい、等しく現起させなさい、発現させなさい、結実させなさい。ということで、「まさに、それでは、熱く為しなさい」。

「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ」。

「まさしく、この 〔世において〕 、賢明なる者となり、気づきある者となり」とは、「この 〔世において〕 」とは、この見解の、この受認 (信受)の、この嗜好 (意欲) の、この所取 〔の経論〕 において、この法 (教え)において、この律において、この法 (教え) と律において、この〔聖典の〕言葉において、この梵行において、この教師の教えにおいて、この自己状態において、この人間の世において。「賢明なる者」とは、賢明なる者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。ということで、「まさしく、この 〔世において〕、賢明なる者となり、気づきある者となり」。

「これから 〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて」とは、これから、わたしの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、聞いて、聴いて、把握して、近しく保持して、近しく観て。ということで、「これから〔告げ知らせる、わたしの〕 話を聞いて」。

「自己の涅槃を学ぶのです」とは、「学ぶのです」とは、三つの学びがある。(1) 卓越の戒の学び、 (2)卓越の心の学び、 (3) 卓越の智慧の学びである。……略 ([239-241]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「自己の涅槃を」とは、自己の、貪欲の寂滅のために、憤怒の寂滅のために、迷妄の寂滅のために……略([250]参照)……一切の善ならざる行作の、静まりのために、寂静のために、寂止のために、寂滅のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきであり、これらの三つの学びを、〔心を〕 傾注している者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕 知っている者として学ぶべきであり……略 ([241]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「自己の涅槃を学ぶのです」。それによって、世尊は言った。

かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「ドータカよ、まさに、それでは、熱く為しなさい⸺まさしく、この 〔世において〕 、賢明なる者となり、気づきある者となり。これから 〔告げ知らせる、わたしの〕 話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1069. (1063)〔尊者ドータカが言った〕 ⸺わたしは、見ます⸺天 〔の神々〕 と人間たちの世において、 〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、 〔まさに〕 その、あなたを、〔わたしは〕 礼拝します。釈迦 〔族〕 の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください。 (3)

「わたしは、見ます⸺天 〔の神々〕 と人間たちの世において」とは、「天 〔の神々〕」とは、三つの天 〔の神々〕 たちがいる。 (1) 〔言葉の〕 慣習 世俗 としての天 〔の神々〕 たち、 (2) 再生としての天〔の神々〕 たち、 (3)清浄としての天 〔の神々〕 たちである。 (1) どのようなものが、 〔言葉の〕 慣習としての天〔の神々〕 たちであるのか。 〔言葉の〕 慣習としての天 〔の神々〕たちは、そして、王たち、かつまた、王子たち、さらに、王妃たち、と説かれる。これらが、 〔言葉の〕 慣習としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。(2) どのようなものが、再生としての天 〔の神々〕 たちであるのか。再生としての天 〔の神々〕たちは、四大王天 〔の神々〕 四天王 たち、三十三天 〔の神々〕 たち、耶摩天 〔の神々〕 たち、兜率天〔の神々〕 たち、化楽天 〔の神々〕 たち、他化自在天 〔の神々〕 たち、梵身天〔の神々〕 (梵天衆)たち、さらに、すなわち、それより上の天 〔の神々〕たち、と説かれる。これらが、再生としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。(3) どのようなものが、清浄としての天 〔の神々〕 たちであるのか。清浄としての天 〔の神々〕たちは、如来たち、如来の弟子たち、阿羅漢たち、煩悩の滅尽者たち、さらに、すなわち、独覚 縁覚・辟支仏 たち、と説かれる。これらが、清浄としての天 〔の神々〕 たちと説かれる。世尊は、 〔言葉の〕慣習としての天 〔の神々〕 たちにとっても、再生としての天 〔の神々〕 たちにとっても、清浄としての天 〔の神々〕たちにとっても、そして、天たる方であり、そして、天を超える方であり、そして、天にして天を超える方であり、獅子のなかの獅子たる方であり、龍のなかの龍たる方であり、衆師のなかの衆師たる方であり、牟尼のなかの牟尼たる方であり、王のなかの王たる方である。「わたしは、見ます⸺天〔の神々〕 と人間たちの世において」とは、人間たちの世において、天たる方を、〔わたしは〕 見る、天を超える方を、 〔わたしは〕 見る、天にして天を超える方を、 〔わたしは〕見る、 〔わたしは〕 視認する、 〔わたしは〕 注目する、 〔わたしは〕 凝視する、〔わたしは〕 近しく注視する。ということで、「わたしは、見ます⸺天〔の神々〕 と人間たちの世において」。

〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を」とは、「無一物の」とは、貪欲の所有、憤怒の所有、迷妄の所有、思量の所有、見解の所有、〔心の〕 汚れの所有、悪しき行ないの所有があり、覚者たる世尊の、それらの所有は、〔すでに〕 捨棄され、根が断ち切られ、根拠なきターラ 〔樹〕 (切断された椰子の木)のように作り為され、状態なきものに作り為され、未来に生起なき法 (性質)としてある。それゆえに、覚者は、無一物である。「婆羅門 (ブラーフマナ)」とは、七つの法 (性質) が拒否された (バーヒタ) ことから、婆羅門となる。 (1)身体を有するという見解 有身見が、拒否されたものと成り、 (2) 疑惑 〔の思い〕 が、拒否されたものと成り、 (3) 戒や掟への偏執 戒禁取 が、拒否されたものと成り、 (4) 貪欲 が、拒否されたものと成り、 (5) 憤怒 が、拒否されたものと成り、 (6) 迷妄 が、拒否されたものと成り、 (7) 思量 が、拒否されたものと成る。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) にして、諸々の 〔心の〕汚染たる、さらなる生存をもたらすもの、懊悩を有するもの、苦痛の報いあるもの、未来に生と老と死をもたらすものが、彼にとって、拒否されたものと成る。

かくのごとく、世尊は 〔言った〕 「サビヤよ、一切の悪しき 〔行為〕を拒否して、 〔世俗の〕 垢を離れ、 〔心が〕 善くしっかりと定められ、自己を安立した者⸺彼は、輪廻を超え行って、全一者となります⸺〔何にも〕 依存しない、如なる者⸺彼は、『梵 (婆羅門)〔と〕 呼ばれます」と。

〔正しく〕振る舞う」とは、 〔世を〕 歩んでいる者を、 〔世に〕 住んでいる者を、振る舞っている者を、行持している者を、 〔行ないを〕 守っている者を、 〔身を〕 保っている者を、〔身を〕 保ち行っている者を。ということで、「 〔正しく〕 振る舞う、無一物の婆羅門を」。

「一切に眼ある方よ、 〔まさに〕 その、あなたを、 〔わたしは〕礼拝します」とは、「あなたを」とは、世尊に話す。「礼拝します」とは、あるいは、身体によって、 〔わたしは〕 礼拝する、あるいは、言葉によって、 〔わたしは〕 礼拝する、あるいは、心によって、 〔わたしは〕 礼拝する、あるいは、義 (意味)のままなる実践によって、 〔わたしは〕 礼拝する、あるいは、法(教え) が法 (教え)のままなる実践によって、 〔わたしは〕 礼拝する、 〔わたしは〕 尊敬する、 〔わたしは〕 尊重する、〔わたしは〕 思慕する、 〔わたしは〕供養する。「一切に眼ある方よ」とは、一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。

〔そこで、詩偈に言う〕「彼にとって、 〔いまだ〕 見られていないものは、この 〔世において〕 、何であれ、存在しない。さらに、 〔いまだ〕 識られていないものは 〔存在せず〕、知ることができないものは 〔存在しない〕 。それが、導かれるべきもの(未了義のもの) として存在するなら、 〔その〕 一切を、 〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と 〔説かれる〕〔と〕 。ということで⸺

「一切に眼ある方よ、 〔まさに〕 その、あなたを、 〔わたしは〕礼拝します」。

「釈迦 〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」とは、「釈迦 〔族〕の方よ」とは、釈迦 〔族〕 たる世尊は、釈迦 〔族〕 の家系から出家した方である、ということでもまた、「釈迦 〔族〕の方」。さらに、あるいは、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦 〔族〕 の方」。彼には、これらの財がある。それは、すなわち、この、信という財、戒という財、恥〔の思い〕 という財、 〔良心の〕 咎めという財、所聞という財、施捨という財、智慧という財、 〔四つの〕気づきの確立という財、 〔四つの〕 正しい精励という財、 〔四つの〕 神通の足場という財、 〔五つの〕機能という財、 〔五つの〕 力という財、 〔七つの〕 覚りの支分という財、聖なる八つの支分ある道という財、 〔聖者の〕(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)という財、 〔沙門の〕(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)という財、涅槃という財である。これらの無数の種類ある財の宝によって、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。さらに、あるいは、有能なる方、可能なる方、発出ある方、十分なる自己ある方、勇士たる方、勇者たる方、勇猛なる方、恐怖なき方、驚愕なき方、恐懼なき方、逃げない方、恐怖と恐ろしさを捨棄した方、身の毛のよだつことを離れ去った方である、ということでもまた、「釈迦〔族〕の方」。懐疑は、疑惑と説かれる。苦しみについての疑い、苦しみの集起についての疑い、苦しみの止滅についての疑い、苦しみの止滅に至る〔実践の〕 道についての疑い、過去の極 前際 :過去の種々相) についての疑い、未来の極 後際 :未来の種々相)についての疑い、過去と未来の極についての疑い、これを縁とすること 此縁性 :縁の特異性) と縁によって生起した諸法 縁已生法 :縁によって生み出された物事)についての疑いがあり、すなわち、このような形態の、疑い、疑うこと、疑いあること、疑問、疑惑、二種なること、二種の道、疑念、多様の収取、躊躇、逡巡、深解なき、心の驚愕、意の散乱である。「釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」とは、懐疑の矢から、わたしを、解き放ってください、わたしを、強く解き放ってください、わたしを、解脱させてください、わたしを、強く解脱させてください、わたしを、引き上げてください、わたしを、等しく引き上げてください、わたしを、出起させてください。ということで、「釈迦〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」。それによって、その婆羅門は言った。

〔尊者ドータカが言った〕⸺「わたしは、見ます⸺天 〔の神々〕 と人間たちの世において、〔正しく〕 振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼ある方よ、 〔まさに〕 その、あなたを、 〔わたしは〕礼拝します。釈迦 〔族〕の方よ、わたしを、諸々の懐疑から解き放ってください」と。
1070. (1064)〔世尊は答えた〕 ⸺わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕 解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕 。ですから、最勝の法(真理)〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、 〔あなた自身で〕 この激流を超えるのです。(4)

「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」とは、わたしは、あなたを、懐疑の矢から、解き放つことも、強く解き放っことも、解脱させることも、強く解脱させることも、引き上げることも、等しく引き上げることも、出起させることも、等しく出起させることも、できない。ということで、このようにもまた、「わたしは、〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。さらに、あるいは、信なき人にたいし、欲 〔の思い〕(意欲) なく、怠惰で、精進に劣り、 〔道を〕 実践していない者にたいし、法 (教え)の説示のために、発奮せず、等しく発奮せず、邁進せず、努めず、邁進を為さず、勤勇を為さず、強靭に為さず、堅固に為さず、精進を為さず、欲〔の思い〕 (意欲)を、為さず、生じさせず、産出させず、発現させず、結実させない。ということで、このようにもまた、「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。さらに、あるいは、誰であれ、他者は、解き放ち手として存在しない。すなわち、彼らが、〔自己を〕解き放つべきであるなら、自らの強靭によって、自らの活力によって、自らの精進によって、自らの勤勉によって、自らの人士たる強靭によって、自らの人士たる活力によって、自らの人士たる精進によって、自らの人士たる勤勉によって、自己みずから、正しい〔実践の〕 道を、 〔真理に〕随順する 〔実践の〕 道を、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道を、義(意味) のままなる 〔実践の〕道を、法 (教え) が法 (教え)のままなる 〔実践の〕 道を、実践しつつ、 〔自己を〕 解き放つべきである。ということで、このようにもまた、「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕 解き放つことはできません」。

まさに、このことが、世尊によって説かれた。「チュンダよ、まさに、自己みずから泥沼にはまった者が、彼が、他の泥沼にはまった者を引き上げることになる、という、この状況は見出されません(ありえない)。チュンダよ、まさに、自己みずから調御されず教導されず完全なる涅槃に到達していない者が、彼が、他の者を調御し教導し完全なる涅槃に到達させることになる、という、この状況は見出されません」〔と〕 。ということで、このようにもまた、「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕 解き放つことはできません」。

まさに、このことが、世尊によって説かれた。

〔そこで、詩偈に言う〕「まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)〔と〕。ということで⸺

このようにもまた、「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕 解き放つことはできません」。

まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「婆羅門よ、まさしく、このように、まさに⸺まさしく、涅槃が止住し、涅槃に至る道が止住し、わたしが、〔道を〕受持させる者として止住し、そこで、また、そして、わたしの弟子たちは、わたしによって、このように教諭され、このように教示されつつ、究極の目的である涅槃に、一部の者たちはまた達し、一部の者たちは達しません。婆羅門よ、ここにおいて、わたしが、何を為すというのでしょう。婆羅門よ、如来は、道を告げ知らせる者です。覚者は、道を告げ知らせます。〔彼らは〕 自己みずから実践しながら、 〔自己を〕 解き放つべきです」 〔と〕。ということで、このようにもまた、「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません」。

「ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、 〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕」とは、懐疑者たる人を、疑いを有する者を、鬱積を有する者を、二様を有する者を、疑惑を有する者を。「誰であれ」とは、誰であれ、あるいは、士族を、あるいは、婆羅門を、あるいは、庶民を、あるいは、隷民を、あるいは、在家者を、あるいは、出家者を、あるいは、天〔の神〕 を、あるいは、人間を。「世における」とは、悪所の世における……略([196]参照) …… 〔十二の認識の〕 場所の世における。ということで、「ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕 」。

「ですから、最勝の法 (真理)〔常に〕 証知しながら」とは、最勝の法(真理) は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「最勝の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、法(真理)を、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として。ということで、「ですから、最勝の法(真理)〔常に〕証知しながら」。

「このように、あなたは、 〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」とは、このように、欲望の激流を、生存の激流を、見解の激流を、無明の激流を、超え渡るべきであり、超え上がるべきであり、超え登るべきであり、等しく超越するべきであり、超克するべきである。ということで、「このように、あなたは、〔あなた自身で〕 この激流を超えるのです」。それによって、世尊は言った。

〔世尊は答えた〕⸺「わたしは、 〔あなたを、諸々の懐疑から〕解き放つことはできません。ドータカよ、誰であれ、世における懐疑者を、 〔諸々の懐疑から解き放つことはできないのです〕 。ですから、最勝の法 (真理)〔常に〕証知しながら、このように、あなたは、 〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」と。
1071. (1065)〔尊者ドータカが言った〕⸺梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください⸺わたしが識知しなければならない、 〔まさに〕 その、遠離の法 (教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、 〔誰をも〕 憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕 、寂静なる者として、依存なき者として、 〔あるがままに〕 行なうべく。 (5)

「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください」とは、梵たる方よ、教えてください、梵たる方よ、資助してください、梵たる方よ、慈しみください。ということで、「梵たる方よ、教えてください」。「慈悲ある者として」とは、慈悲ある者として、思いやりある者として、守護する者として、資助する者として、慈しみ〔の思い〕ある者として。ということで、「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください」。

「わたしが識知しなければならない、 〔まさに〕 その、遠離の法 (教え) を」とは、遠離の法(教え) は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「わたしが識知しなければならない、 〔まさに〕その」とは、わたしが、知るべきところの、了知するべきところの、識知するべきところの、解知するべきところの、理解するべきところの、到達するべきところの、体得するべきところの、実証するべきところの、それを。ということで、「わたしが識知しなければならない、〔まさに〕 その、遠離の法 (教え) を」。

「すなわち、わたしが、虚空のように、 〔誰をも〕 憎悪することなく」とは、たとえば、虚空が、 〔他を〕 犯さず、 〔他を〕 掴まず、〔他に〕 縛られず、 〔他に〕遍く縛られないように、このように、 〔他を〕 犯すことなく、〔他を〕 掴むことなく、 〔他に〕縛られることなく、 〔他に〕遍く縛られることなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、 〔誰をも〕憎悪することなく」。たとえば、虚空が、あるいは、 〔赤の〕染料によって、あるいは、鬱金 〔の染料〕によって、あるいは、青によって、あるいは、緋によって、染まらないように、このように、 〔欲に〕 染まることなく、 〔欲に〕 汚れることなく、〔欲に〕 迷うことなく、 〔欲に〕汚されることなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、 〔誰をも〕憎悪することなく」。たとえば、虚空が、 〔他に〕 怒らず、 〔他に〕 害を加えず、 〔他から〕 退去せず、〔他から〕 打破されないように、このように、 〔他に〕 激情することなく、 〔他を〕 憎悪することなく、〔他から〕 退去することなく、 〔他から〕 打破されることなく、 〔他を〕打破することなく。ということで、このようにもまた、「虚空のように、 〔誰をも〕憎悪することなく」。

「まさしく、この 〔世において〕 、寂静なる者として、依存なき者として、 〔あるがままに〕 行なうべく」とは、「まさしく、この 〔世において〕、寂静なる者として」とは、まさしく、ここに、寂静なる者として存しつつ、まさしく、ここに、坐った者として存しつつ、まさしく、この坐において、坐った者として存しつつ、まさしく、この衆において、坐った者として存しつつ。ということで、このようにもまた、「まさしく、この〔世において〕 、寂静なる者として」。さらに、あるいは、まさしく、この〔世において〕〔心が〕静まった者として、寂静となった者として、寂止した者として、寂滅した者として、安息した者として。ということで、このようにもまた、「まさしく、この〔世において〕 、寂静なる者として」。「依存なき者として」とは、二つの依所(依存の対象) がある。 (1)そして、渇愛の依所であり、 (2) さらに、見解の依所である。(1) ……略 ([283]参照)……これが、渇愛の依所である。 (2) ……略 ([284]参照)……これが、見解の依所である。渇愛の依所を捨棄して、見解の依所を放棄して、眼に依存しない者として、耳に依存しない者として、鼻に依存しない者として、舌に依存しない者として、身に依存しない者として、意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……諸々の法(意の対象)に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に…… 〔行乞の〕 施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) に……欲望の界域 欲界 に……形態の界域 色界に……形態なき界域 無色界に……欲望の生存 欲有 に……形態の生存色有 に……形態なき生存無色有 に……表象の生存想有 に……表象なき生存無想有に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存 非想非非想有 に……一つの組成としての生存 (色蘊のみを有する生存) に……四つの組成としての生存 (色蘊以外の四蘊を有する生存) に……五つの組成としての生存 (五蘊すべてを有する生存) に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象) に、依らない者として、依存しない者として、 〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で。「〔あるがままに〕 行なうべく」とは、 〔あるがままに〕 行なうべきであり、 〔世に〕住むべきであり、振る舞うべきであり、行持するべきであり、 〔行ないを〕守るべきであり、 〔身を〕 保つべきであり、 〔身を〕 保ち行くべきである。ということで、「まさしく、この 〔世において〕 、寂静なる者として、依存なき者として、 〔あるがままに〕 行なうべく」。それによって、その婆羅門は言った。

〔尊者ドータカが言った〕⸺「梵たる方よ、慈悲ある者として、教えてください⸺わたしが識知しなければならない、 〔まさに〕 その、遠離の法 (教え)を。すなわち、わたしが、虚空のように、 〔誰をも〕 憎悪することなく、まさしく、この〔世において〕 、寂静なる者として、依存なき者として、 〔あるがままに〕 行なうべく」と。
1072. (1066)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ、あなたに、 〔真の〕 寂静を述べ伝えましょう⸺所見の法 現法 :現世) における、伝え聞きではない 〔真の寂静〕 を。それを知って、 〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。 (6)

「あなたに、 〔真の〕寂静を述べ伝えましょう」とは、貪欲の寂静を、憤怒の寂静を、迷妄の寂静を、忿激の寂静を、怨恨の……略……偽装の……加虐の……嫉妬の……物惜の……幻惑の……狡猾の……強情の……激昂の……思量の……高慢の……驕慢の……放逸の……一切の〔心の〕汚れの……一切の悪しき行ないの……一切の懊悩の……一切の苦悶の……一切の熱苦の……一切の善ならざる行作の、静まりを、寂静を、寂止を、寂滅を、安息を、〔わたしは〕 述べるであろう、 〔わたしは〕 述べ伝えるであろう、 〔わたしは〕告げ知らせるであろう、 〔わたしは〕 説示するであろう、 〔わたしは〕 報知するであろう、 〔わたしは〕確立するであろう、 〔わたしは〕 開顕するであろう、 〔わたしは〕 区分するであろう、 〔わたしは〕明瞭と為すであろう、 〔わたしは〕 明示するであろう。ということで、「あなたに、〔真の〕 寂静を述べ伝えましょう」。

「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ」とは、「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊(バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ」。

「所見の法 現法 :現世) における、伝え聞きではない 〔真の寂静〕 を」とは、「所見の法 (現世)における」とは、 〔現に〕 見られた法 (事象) において、 〔現に〕 知られた法(事象) において、 〔現に〕比較された法 (事象) において、 〔現に〕 推量された法 (事象) において、〔現に〕 明確にされた法 (事象)において、 〔現に〕 分明された法 (事象) において。「一切の形成 〔作用〕は、無常である」と……略 ([221]参照) ……。「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質) である」と、 〔現に〕 見られた法(事象) において、 〔現に〕知られた法 (事象) において、 〔現に〕 比較された法 (事象) において、〔現に〕 推量された法 (事象)において、 〔現に〕 明確にされた法 (事象) において、 〔現に〕 分明された法(事象) において。ということで、このようにもまた、所見の法(現世) において、 〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、苦痛が見られたときにおいては、苦痛を、 〔わたしは〕 言説するであろう。集起が見られたときにおいては、集起を、 〔わたしは〕 言説するであろう。道が見られたときにおいては、道を、 〔わたしは〕 言説するであろう。止滅が見られたときにおいては、止滅を、 〔わたしは〕 言説するであろう。ということで、このようにもまた、所見の法 (現世) において、 〔わたしは〕言説するであろう。さらに、あるいは、所見の法 (現世)において、現に見られるものであり、時を要さないものであり、来て見るものであり、導くものであり、識者たちによって各自それぞれに知られるべきものを。ということで、このようにもまた、所見の法(現世) において、 〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法 (現世) における」。「伝え聞きではない〔真の寂静〕を」とは、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就 (保持) によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索(考証) によってではなく、見解の納得による受認 (受諾) によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法 (真理) を、それを、 〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「所見の法 (現世) における、伝え聞きではない〔真の寂静〕 を」。

「それを知って、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は」とは、それを、 〔あるがままに〕 知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕 は、無常である」と、 〔あるがままに〕 知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕 は、苦痛である」と……略……。「一切の法 (事象) は、無我である」と……略 ([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質) である」と、 〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照) ……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕 行なう」とは、 〔あるがままに〕 行なっている者として、 〔世に〕住んでいる者として、振る舞っている者として、行持している者として、 〔行ないを〕守っている者として、 〔身を〕 保っている者として、 〔身を〕 保ち行っている者として。ということで、「それを知って、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は」。

「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([207]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着 (ヴィサッティカー) 」とは、どのような義(意味) によって、執着となるのか。……略 ([425]参照) ……拡散したもの (ヴィサタ)となり、拡張したもの (ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略 ([196]参照) …… 〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超え渡るであろう、超え上がるであろう、超え登るであろう、等しく超越するであろう、超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、世尊は言った。

かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「ドータカよ、あなたに、 〔真の〕寂静を述べ伝えましょう⸺所見の法 現法:現世) における、伝え聞きではない 〔真の寂静〕 を。それを知って、〔あるがままに〕行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。
1073. (1067)〔尊者ドータカが言った〕 ⸺そして、その 〔真の寂静〕 を、わたしは大いに喜びます⸺偉大なる聖賢よ、 〔あなたが説くであろう〕 最上の寂静を。それを知って、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです。 (7)

「そして、その 〔真の寂静〕を、わたしは大いに喜びます」とは、「その 〔真の寂静〕を」とは、あなたの、言葉を、言葉の用途を、説示を、教示を、教示したことを、 〔わたしは〕 喜ぶ、 〔わたしは〕 大いに喜ぶ、〔わたしは〕 歓喜する、 〔わたしは〕 随喜する、 〔わたしは〕 欲求する、〔わたしは〕 愛用する、 〔わたしは〕 切望する、 〔わたしは〕 熱望する、〔わたしは〕 渇望する。ということで、「そして、その 〔真の寂静〕 を、わたしは大いに喜びます」。

「偉大なる聖賢よ、 〔あなたが説くであろう〕 最上の寂静を」とは、「偉大なる聖賢よ」とは、どうして、世尊は、偉大なる聖賢(偉大なる探求者)であるのか。大いなる戒の範疇を、探し求める者、追求する者、遍く探し求める者、ということで、「偉大なる聖賢」。大いなる禅定の範疇を……略([429]参照) ……「人の雄牛たる方は、どこにいるのか」〔と〕、探し求められた者、追求された者、遍く探し求められた者、ということで、「偉大なる聖賢」。「最上の寂静を」とは、寂静は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。「最上の」とは、至高であり、最勝であり、殊勝であり、筆頭であり、最上であり、最も優れたものである、寂静を。ということで、「偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕 最上の寂静を」。

「それを知って、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は」とは、それを、 〔あるがままに〕 知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕 は、無常である」と、 〔あるがままに〕 知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「一切の形成〔作用〕 は、苦痛である」と……略……。「一切の法 (事象) は、無我である」と……略 ([221]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質) である」と、 〔あるがままに〕知られたものと為して、比較して、推量して、分明して、明確と為して。「気づきある者は」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり……略([255-258]参照) ……彼は、気づきある者と説かれる。「〔あるがままに〕 行なう」とは、 〔あるがままに〕 行なっている者……略 ([430]参照)…… 〔身を〕 保ち行っている者。ということで、「それを知って、〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は」。

「世における執着を超えるのです」とは、執着は、渇愛と説かれる。すなわち、貪欲(ラーガ) 、貪染……略 ([207]参照) ……強欲、貪欲 (ローバ)、善ならざるものの根元である。「執着 (ヴィサッティカー) 」とは、どのような義(意味) によって、執着となるのか。……略 ([425]参照) ……拡散したもの (ヴィサタ)となり、拡張したもの (ヴィッタタ)となる、ということで、「執着」。「世における」とは、悪所の世における……略 ([196]参照) …… 〔十二の認識の〕場所の世における。「世における執着を超えるのです」とは、世において、この執着があり、世における、この執着を、気づきある者は、超えるであろう、超え上がるであろう……略([431]参照)……超克するであろう。ということで、「世における執着を超えるのです」。それによって、その婆羅門は言った。

〔尊者ドータカが言った〕⸺「そして、その 〔真の寂静〕 を、わたしは大いに喜びます⸺偉大なる聖賢よ、〔あなたが説くであろう〕 最上の寂静を。それを知って、 〔あるがままに〕 行なう、気づきある者は、世における執着を超えるのです」と。
1074. (1068)かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ、それが何であれ、〔あなたが〕 正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、〔その〕 中間において、これを、「世における執着 〔の対象〕 である」と知って、種々なる生存のために、渇愛 〔の思い〕 を為してはなりません。 (8)

「それが何であれ、 〔あなたが〕 正しく知るなら」とは、それが何であれ、 〔あなたが〕 覚知するなら、 〔あなたが〕 了知するなら、〔あなたが〕 識知するなら、 〔あなたが〕 解知するなら、 〔あなたが〕理解するなら。ということで、「それが何であれ、 〔あなたが〕正しく知るなら」。「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕⸺ドータカよ」とは、「ドータカよ」とは、世尊は、その婆羅門に、名前で語りかける。「世尊 (バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。……略 ([205]参照) …… 〔その〕実証となる概念であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺ドータカよ」。

「上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、「上に」とは、未来。「下に」とは、過去。「さらに、また、横に、〔その〕中間において」とは、現在。「上に」とは、天の世。「下に」とは、地獄の世。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、人間の世。さらに、あるいは、「上に」とは、諸々の善なる法(事象) 。「下に」とは、諸々の善ならざる法 (事象) 。「さらに、また、横に、 〔その〕中間において」とは、諸々の 〔善悪が〕 説き明かされない法 (事象) 。「上に」とは、形態なき界域 無色界 。「下に」とは、欲望の界域 欲界 。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、形態の界域 色界 。「上に」とは、安楽の感受 楽受 。「下に」とは、苦痛の感受 苦受 。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、苦でもなく楽でもない感受 不苦不楽受。「上に」とは、足の裏から上に。「下に」とは、髪の頂から下に。「さらに、また、横に、 〔その〕 中間において」とは、 〔その〕中間において。ということで、「上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕中間において」。

「これを、『世における執着 〔の対象〕である』と知って」とは、「これは、執着である」「これは、付着である」「これは、結縛である」「これは、障害である」と、知って、知りて、比較して、推量して、分明して、明確と為して。ということで、「これを、『世における執着〔の対象〕 である』と知って」。

「種々なる生存のために、渇愛 〔の思い〕 を為してはなりません」とは、「渇愛」とは、形態への渇愛……略……法 (意の対象) への渇愛。「種々なる生存のために」とは、種々なる生存における、行為の生存業有 のために、さらなる生存再有 のために⸺欲望の生存欲有における行為の生存のために、欲望の生存におけるさらなる生存のために、形態の生存 色有における行為の生存のために、形態の生存におけるさらなる生存のために、形態なき生存 無色有における行為の生存のために、形態なき生存におけるさらなる生存のために。繰り返す生存 のために、繰り返す境遇 のために、繰り返す再生のために、繰り返す結生のために、繰り返す自己状態(個我的あり方・身体) の発現のために、渇愛 〔の思い〕を、為してはならない、生じさせてはならない、産出させてはならない、発現させてはならない、結実させてはならない、捨棄しなさい、除去しなさい、終息を為しなさい、状態なきへと至らせなさい。ということで、「種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕 を為してはなりません」。それによって、世尊は言った。

かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「ドータカよ、それが何であれ、 〔あなたが〕正しく知るなら、上に、下に、さらに、また、横に、 〔その〕中間において、これを、『世における執着 〔の対象〕である』と知って、種々なる生存のために、渇愛 〔の思い〕を為してはなりません」と。

詩偈の終了と共に……略 ([262]参照)……。「尊き方よ、世尊は、わたしの教師です。わたしは、弟子として存しています」と。

ドータカ学徒の問いについての釈示が、第五となる。

注釈【0】