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翻訳【23】

清信あるものの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。ヴェーダンニャという名の釈迦〔族〕の者たちがあり、彼らのアンバ林にある高楼において。

ニガンタ・ナータプッタの命終

また、まさに、その時点にあって、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)が、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えるところと成ります。彼の命終によって、ニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちは分裂し、二派を生じ、言争を生じ、紛争を生じ、論争を惹起し、互いに他を諸々の口の刃で突きながら〔世に〕住みます。「あなたは、この法(教え)と律を了知しない。わたしは、この法(教え)と律を了知する。どうして、あなたが、この法(教え)と律を了知するというのだろう」「あなたは、誤った実践者として存している。わたしは、正しい実践者として存している」「わたしには、利益を有するものがある。あなたには、利益を有さないものがある」「前に言うべきことを、後に言った。後に言うべきことを、前に言った」「あなたの歩み行ないは、転覆された。あなたの論は、論破された。あなたは存している──糾弾された者として」「歩め──論から解放されるために(論を放棄して立ち去れ)。あるいは、それで、もし、できるなら、弁明してみよ」と。思うに、まさしく、殺戮が、まさに、ニガンタ・ナータプッタの者たちにおいて転起します。すなわち、また、ニガンタ・ナータプッタの弟子である白衣の在家者たちは、彼らもまた、ニガンタ・ナータプッタの者たちにたいし、厭離している様子であり、離貪している様子であり、反発している様子です。すなわち、そのように、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては。

そこで、まさに、見習い沙門のチュンダが、パーヴァーにおいて雨期を過ごし、サーマ村のあるところに、尊者アーナンダのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、尊者アーナンダを敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに、こう言いました。「尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては」と。

このように説かれたとき、尊者アーナンダは、見習い沙門のチュンダに、こう言いました。「友よ、チュンダよ、まさに、このことは、世尊と会見するための議題として存します。友よ、チュンダよ、行きましょう。世尊のおられるところに、そこへと近づいて行くのです。近づいて行って、世尊に、この義(意味)を告げるのです」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、見習い沙門のチュンダは、尊者アーナンダに答えました。

そこで、まさに、かつまた、尊者アーナンダは、かつまた、見習い沙門のチュンダは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、この見習い沙門のチュンダが、このように言いました。『尊き方よ、ニガンタ・ナータプッタが、パーヴァーにおいて、最近のこと、命を終えたのです。彼の命終によって、ニガンタたちは分裂し、二派を生じ……略……破壊された塔にして、帰依所ならざる、法(教え)と律においては』」と。

正等覚者ならざる者によって知らされた法と律

「チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。チュンダよ、ここに、かつまた、教師が、正等覚者ならざる者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、しかしながら、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者ならざる者であり、かつまた、法(教え)は、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、しかしながら、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、しかしながら、弟子は、そこにおいて、このように賞賛されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『さあ、尊者は、すなわち、あなたの教師によって、法(教え)が説示され報知されたとおりに、そのとおりに実践したまえ』と。かつまた、或る者が受持させ、かつまた、或る者に受持させ、そして、すなわち、受持させられた者は、そのとおりそのままに実践します。彼らの全てが、多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者ならざる者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、そして、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざることがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者ならざる者であり、かつまた、法(教え)は、悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもなく、そして、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて難詰されるべきであり、弟子もまた、そこにおいて、このように難詰されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『たしかに、尊者は、正理の実践者であり、正理を達成するでしょう』と。かつまた、或る者が賞賛し、かつまた、或る者を賞賛し、そして、すなわち、賞賛された者は、より一層しっかりと、精進に励みます。彼らの全てが、多くの功徳ならざるものを生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──悪しく告げ知らされ、悪しく説き知らされ、出脱〔の教え〕ではなく、寂止のために等しく転起するものでもなく、正等覚者によって知らされたものでもない、法(教え)と律においては。

正等覚者によって知らされた法と律

チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得ならざることがあります。〔まさに〕その、あなたには、悪しく得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者であり、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者ではなく、適正に実践する者ではなく、法(教え)のままに行なう者ではなく、〔世に〕住み、さらに、その法(教え)から外れて行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、しかしながら、弟子は、そこにおいて、このように難詰されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『さあ、尊者は、すなわち、あなたの教師によって、法(教え)が説示され報知されたとおりに、そのとおりに実践したまえ』と。かつまた、或る者が受持させ、かつまた、或る者に受持させ、そして、すなわち、受持させられた者は、そのとおりそのままに実践します。彼らの全てが、多くの功徳を生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、正等覚者として〔世に〕有り、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、弟子が、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します。彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、〔まさに〕その、あなたには、諸々の利得があります。〔まさに〕その、あなたには、善く得られたものがあります。かつまた、あなたの教師は、正等覚者であり、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、あなたは、その法(教え)にたいし、法(教え)を法(教え)のままに実践する者として、適正に実践する者として、法(教え)のままに行なう者として、〔世に〕住み、その法(教え)を受持して行持します』と。チュンダよ、かくのごとく、まさに、教師もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、法(教え)もまた、そこにおいて賞賛されるべきであり、弟子もまた、そこにおいて、このように賞賛されるべきです。チュンダよ、まさに、このような形態の弟子に、或る者は、このように説くでしょう。『たしかに、尊者は、正理の実践者であり、正理を達成するでしょう』と。かつまた、或る者が賞賛し、かつまた、或る者を賞賛し、そして、すなわち、賞賛された者は、より一層しっかりと、精進に励みます。彼らの全てが、多くの功徳を生み出します。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、このように、このことは有るからです──善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものである、法(教え)と律においては。

弟子たちにとって悩み苦しむべきものとなる教師の〔消没〕

チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、彼の弟子たちが、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられていない者たちとして〔世に〕有り、さらに、彼らには、全一にして円満成就の梵行が有りません──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、彼らに、教師の消没が有ります(命を終える)。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきものと成ります。それは、何を因とするのですか。『かつまた、わたしたちの教師は、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、しかしながら、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられていない者たちとして、〔わたしたちは〕存しており、さらに、わたしたちには、全一にして円満成就の梵行が有ることなくある──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、わたしたちに、教師の消没が有る』と〔思うからです〕。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきものと成ります。

弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものとなる教師の〔消没〕

チュンダよ、また、ここに、かつまた、教師が、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)が、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、彼の弟子たちが、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられた者たちとして〔世に〕有り、さらに、彼らには、全一にして円満成就の梵行が有ります──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、彼らに、教師の消没が有ります。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものと成ります。それは、何を因とするのですか。『かつまた、わたしたちの教師は、阿羅漢にして正等覚者として〔世に〕生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられた者たちとして、〔わたしたちは〕存しており、さらに、わたしたちには、全一にして円満成就の梵行が有る──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。そこで、わたしたちに、教師の消没が有る』と〔思うからです〕。チュンダよ、まさに、このような形態の教師が命を終えたなら、弟子たちにとって悩み苦しむべきではないものと成ります。

梵行の円満成就なきもの等の話

チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有ることなくあるなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、そして、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有ることから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(解脱に導く教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安(軛安穏)に至り得た者たちとして、〔世に〕有ることなくあるなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、さらに、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有ることから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

チュンダよ、たとえ、もし、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有ることなくあるなら……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有るも、しかしながら、まさに、至高の利得と至高の盛名に至り得ていないなら、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就なきものと成ります。

チュンダよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、そして、これらの支分を具備した梵行が〔世に〕有り、かつまた、教師である長老が、経歴ある者として、長き出家者として、歳月を重ねた者として、年齢を加えた者として、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘たちが、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である長老の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である中堅の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子である新参の比丘尼たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが……略……〔世に〕有り、かつまた、彼の梵行が、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成ったものとして、〔世に〕有り、そして、至高の利得に至り得たことから、さらに、至高の盛名に至り得たことから、このように、その梵行は、その支分によって、円満成就あるものと成ります。

チュンダよ、また、まさに、わたしは、今現在、阿羅漢にして正等覚者として、世に生起し、かつまた、法(教え)は、善く告げ知らされ、善く説き知らされ、出脱〔の教え〕であり、寂止のために等しく転起するものであり、正等覚者によって知らされたものであり、そして、わたしの弟子たちは、正なる法(教え)において、義(意味)を識知させられ、かつまた、彼らには、全一にして円満成就の梵行があります──天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、明らかと為され、明瞭と為され、一切を包摂する句によって為され、神変を有するものと為された、〔そのようなものとして〕。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしは、教師である長老として、経歴ある者であり、長き出家者であり、歳月を重ねた者であり、年齢を加えた者です。

チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である長老の比丘たちが存在し、正なる法(教え)を正しく告げ知らせるに十分であり、諸々の法(真理)を共にするものによって、生起した異論を善く制御されたものに制御して、〔教示の〕神変を有する法(教え)を説示するに十分であり、明敏で、〔正しく〕教え導かれ、〔道に〕熟達し、束縛からの平安に至り得た者たちとして、〔世に〕有ります。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である中堅の比丘たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である新参の比丘たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である長老の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である中堅の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子である新参の比丘尼たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、梵行者である女性在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの弟子であり、白衣の在家者であり、欲望の享受者である女性在俗信者たちが存在し……略……。チュンダよ、また、まさに、今現在、わたしの梵行は、まさしく、そして、繁栄し、さらに、興隆し、天〔の神々〕と人間たちによって見事に明示されるに至るまで、拡張し、多くの人々にあり、広きものと成っています。

チュンダよ、まさに、今現在、世に生起した教師たちとしてある、そのかぎりにおいて、チュンダよ、わたしは、このように至高の利得と至高の盛名に至り得た者として、〔これより〕他に、一者の教師でさえも、等しく随観することがありません。すなわち、わたしのような〔教師〕は。チュンダよ、また、まさに、今現在、世に生起した、あるいは、僧団としてあり、あるいは、僧集としてある、そのかぎりにおいて、チュンダよ、わたしは、このように至高の利得と至高の盛名に至り得たものとして、〔これより〕他に、一者の僧団でさえも、等しく随観することがありません。チュンダよ、すなわち、この、比丘の僧団のようなものは。チュンダよ、まさに、すなわち、それを、『一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『一切の行相を成就し……略……見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くべきです。

チュンダよ、まさに、ウダカ・ラーマプッタは、このような言葉を語ります。『見ていながらも見ない』と。では、『見ていながらも見ない』とは、どのようなことなのですか。剃刀が善く研がれたなら、その〔剃刀〕の面を見るも、しかしながら、まさに、その〔剃刀〕の切っ先を見ません。このことが、『見ていながらも見ない』と説かれます。チュンダよ、また、まさに、すなわち、ウダカ・ラーマプッタによって語られたことは、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、剃刀だけに関してのものです。チュンダよ、しかしながら、すなわち、それを、『見ていながらも見ない』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『見ていながらも見ない』と、正しく説きつつ説くべきです。では、『見ていながらも見ない』とは、どのようなことなのですか。『このように、一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ます。『ここにおいて、これを取り去るなら、このように、それは、より完全なる清浄のものとなり、〔世に〕存するであろう』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ません。『ここにおいて、これを取り入れるなら、このように、それは、円満成就のものとなり、〔世に〕存するであろう』とは、まさに、かくのごとく、このことを見ません。チュンダよ、このことが、『見ていながらも見ない』と説かれます。チュンダよ、まさに、すなわち、それを、『一切の行相を成就し……略……見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くなら、まさしく、このこととして、それを、『一切の行相を成就し、一切の行相の円満成就ある、少なくもなく多くもなく、見事に告げ知らされ、見事に明示された、全一にして円満成就の梵行である』と、正しく説きつつ説くべきです。

合誦されるべき法

チュンダよ、それゆえに、ここに、それらの法(教え)が、あなたたちに、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたなら、そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(文型)によって文(文型)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。チュンダよ、では、どのようなものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのですか──そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(文型)によって文(文型)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。それは、すなわち、この、四つの気づきの確立であり、四つの正しい精励であり、四つの神通の足場であり、五つの機能であり、五つの力であり、七つの覚りの支分であり、聖なる八つの支分ある道です。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの法(教え)であり、わたしによって、証知して〔そののち〕説示されたのです──そこにおいては、全ての者たちによって、群集して、集いあつまって、義(意味)によって義(意味)が、文(文型)によって文(文型)が、合誦されるべきであり、論争されるべきではありません。すなわち、この梵行が、時に耐え得るものとして、長き止住あるものとして、〔世に〕存するとおりに、それは、多くの人々の利益のために、多くの人々の安楽のために、世〔の人々〕への慈しみ〔の思い〕のために、天〔の神々〕と人間たちの、義(目的)のために、利益のために、安楽のために、〔世に〕存するでしょう。

説得させるべき手順

チュンダよ、そして、〔まさに〕その、あなたたちが、和合し、共に歓喜しながら、論争せず、学んでいると、或るひとりの梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさしく、そして、義(意味)を誤って把握し、さらに、諸々の文(文型)を誤って作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、この義(意味)には、あるいは、これらの文と、あるいは、これらの文と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか。そして、これらの文には、あるいは、この義(意味)と、あるいは、この義(意味)と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、この義(意味)には、まさしく、これらの文が、そして、すなわち、これらこそが、より〔適切に〕導くものです。そして、これらの文には、まさしく、この語(意味)が、そして、すなわち、これこそが、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──かつまた、その義(意味)の、かつまた、それらの文の、感知のために。

チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさに、義(意味)を、まさに、誤って把握し、諸々の文(文型)を正しく作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、これらの文には、あるいは、この義(意味)と、あるいは、この義(意味)と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、これらの文には、まさしく、この語(意味)が、そして、すなわち、これこそが、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──まさしく、その義(意味)の感知のために。

チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさに、義(意味)を、まさに、正しく把握し、諸々の文(文型)を誤って作成する』と。彼の〔語ったことは〕、まさしく、大いに喜ぶべきでもなく、弾劾するべきでもありません。大いに喜ばずして、弾劾せずして、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、いったい、まさに、この義(意味)には、あるいは、これらの文と、あるいは、これらの文と、どちらのものが、より〔適切に〕導くものですか』と。もし、彼が、このように説くなら、『友よ、まさに、この義(意味)には、まさしく、これらの文が、そして、すなわち、これらこそが、より〔適切に〕導くものです』と、彼は、まさしく、賞揚されるべきでもなく、指弾されるべきでもありません。賞揚せずして、指弾せずして、まさしく、彼は、善くしっかりと説得させられるべきです──まさしく、それらの文の感知のために。

チュンダよ、もし、他のまた、梵行を共にする者が、僧団において、法(教え)を語るとします。そこで、もし、あなたたちに、このような〔思いが〕存するなら、『まさに、この尊者は、まさしく、そして、義(意味)を正しく把握し、さらに、諸々の文(文型)を正しく作成する』と。彼の語ったことは、『善きかな』と、大いに喜ぶべきであり、随喜するべきです。彼の語ったことを、『善きかな』と、大いに喜んで、随喜して、彼は、このように説かれるべき者として存するでしょう。『友よ、わたしたちには、諸々の利得があります。友よ、わたしたちには、善く得られたものがあります。すなわち、わたしたちは、そのような者である尊者を、梵行を共にする者として見ます──このように義(意味)を具した者を、このように文(文型)を具した者を』と。

日用品が承認された動機

チュンダよ、わたしは、あなたたちに、所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のためだけに、法(教え)を説示するのではありません。チュンダよ、また、わたしは、未来のものたる諸々の煩悩の防御のためだけに、法(教え)を説示するのではありません。チュンダよ、わたしは、まさしく、そして、所見の法(現世)たる諸々の煩悩の統御のために、さらに、未来のものたる諸々の煩悩の防御のために、法(教え)を説示します。チュンダよ、それゆえに、ここに、すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された衣料は、それは、寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された〔行乞の〕施食は、それは、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう──かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』〔と〕。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された臥坐所は、それは、寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて、季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。すなわち、あなたたちのために、わたしによって承認された病のための日用品たる薬の必需品は、それは、生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて、あなたたちにとって、十分なるものがあります。

安楽への専念〔努力〕

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、どのようなものが、その安楽への専念〔努力〕なのですか。まさに、安楽への専念〔努力〕は、多くのものがあり、無数のものに関した種々なる流儀があります』と。

チュンダよ、四つのものがあります。これらの安楽への専念〔努力〕は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。

チュンダよ、ここに、一部の愚者は、命あるものたちを打ち殺しては打ち殺して、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第一の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、与えられていないものを取っては取って、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第二の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、虚偽を話しては話して、自己を安楽させ喜悦させます。チュンダよ、これは、第三の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、ここに、一部の者は、五つの欲望の属性(五妙欲:色・声・香・味・触)を供与され、保有する者と成り、〔それらを〕楽しみます。チュンダよ、これは、第四の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕は、下劣なるものであり、野卑なるものであり、凡夫のものであり、聖ならざるものであり、義(道理)ならざることを伴ったものであり、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起します。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。彼らは、あなたたちによって、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者たちとして存するでしょう。彼らは、あなたたちに、正しく説きつつ説くのではなく、彼らは、あなたたちを、正しからざることによって、事実ならざることによって、誹謗するのです。

チュンダよ、四つのものがあります。これらの安楽への専念〔努力〕は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。どのようなものが、四つのものなのですか。

チュンダよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想(初禅第一禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第一の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから……略……第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第二の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、さらに、喜悦の離貪あることから……略……第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第三の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、さらに、また、他に、比丘が、かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから……略……第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。チュンダよ、これは、第四の安楽への専念〔努力〕です。

チュンダよ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕は、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起します。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住む』と。彼らは、あなたたちによって、『そのとおりです』と説かれるべき者たちとして存するでしょう。彼らは、あなたたちに、正しく説きつつ説くのであり、彼らは、あなたたちを、正しからざることによって、事実ならざることによって、誹謗するのではありません。

安楽への専念〔努力〕の福利

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、どれだけの果が〔期待でき〕、どれだけの福利が期待できますか』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、四つの果が〔期待でき〕、四つの福利が期待できます。どのようなものが、四つのものなのですか。友よ、ここに、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、預流たる者と成り、堕所の法(性質)なき者と〔成り〕、決定の者と〔成り〕、正覚を行き着く所とする者と〔成ります〕。これは、第一の果であり、第一の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、三つの束縛するものの完全なる滅尽あることから、貪欲と憤怒と迷妄の希薄なることから、一来たる者と成り、一度だけ、この世に帰り来て、苦しみの終極を為します。これは、第二の果であり、第二の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、五つの下なる域に束縛するものの完全なる滅尽あることから、化生の者と成り、そこにおいて、完全なる涅槃に到達する者と〔成り〕、その世から戻り来る法(性質)なき者と〔成ります〕。これは、第三の果であり、第三の福利です。友よ、さらに、また、他に、比丘が、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みます。これは、第四の果であり、第四の福利です。友よ、まさに、これらの四つの安楽への専念〔努力〕に専念する者たちとして〔世に〕住んでいると、これらの、四つの果が〔期待でき〕、四つの福利が期待できます』と。

煩悩が滅尽した者にとって不可能となる状況

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『釈子たる沙門たちは、確立なき法(性質)の者たちとして〔世に〕住む』と。チュンダよ、このように説く者たちである、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、弟子たちに説示され報知された、生あるかぎり違犯できない諸々の法(性質)が存在します。友よ、それは、たとえば、また、あるいは、インダの杭(城門に立てられた標柱)が、あるいは、鉄の杭が、基部が深く、善く埋められ、不動で、揺るぎなくあるように、友よ、まさしく、このように、まさに、彼によって、〔あるがままに〕知り見る阿羅漢にして正等覚者たる世尊によって、弟子たちに説示され報知された、生あるかぎり違犯できない諸々の法(性質)があります。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、九つの状況を行作することが不可能となります。友よ、(1)煩悩が滅尽した比丘は、思弁して〔そののち〕、命あるものの生命を奪うことが不可能となります。(2)煩悩が滅尽した比丘は、〔誰にも〕与えられていない、〔取ると〕盗みと見なされるものを取ることが不可能となります。(3)煩悩が滅尽した比丘は、淫事の法(性質)を受用することが不可能となります。(4)煩悩が滅尽した比丘は、正知しつつ虚偽を語ることが不可能となります。(5)煩悩が滅尽した比丘は、それは、たとえば、また、過去において、在家者として有ったように、蓄積を為し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益することが不可能となります。(6)煩悩が滅尽した比丘は、欲〔の思い〕の非道に赴くことが不可能となります。(7)煩悩が滅尽した比丘は、憤怒の非道に赴くことが不可能となります。(8)煩悩が滅尽した比丘は、迷妄の非道に赴くことが不可能となります。(9)煩悩が滅尽した比丘は、恐怖の非道に赴くことが不可能となります。友よ、すなわち、その比丘が、阿羅漢であり、煩悩の滅尽者であり、〔梵行の〕完成者であり、為すべきことを為した者であり、〔生の〕重荷を置いた者であり、自らの義(目的)に至り得た者であり、〔迷いの〕生存に束縛するものの完全なる滅尽者であり、正しい了知による解脱者であるなら、彼は、これらの九つの状況を行作することが不可能となります』と。

問いへの説き明かし

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『まさに、過去の時に関して、沙門ゴータマは、際限なき知見を報知する。しかしながら、まさに、未来の時に関して、際限なき知見を報知しない。〔まさに〕その、このことは、いったい、何なのだ。〔まさに〕その、このことは、いったい、どうしてなのだ』と。さてまた、それらの〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、他のものに関した知見によって他のものに関した知見を報知するべきと思い考えます──あたかも、愚者にして明敏ならざる者であるかのように。チュンダよ、まさに、過去の時に関して、如来には、気づきと隨念の知恵が有ります。彼は、すなわち、望むかぎりの、そのかぎりのものを隨念します。そして、まさに、未来の時に関して、如来には、覚りから生じる知恵が生起します。『これは、最後の生である。今や、さらなる生存は存在しない』と。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、過去のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、未来のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。……略……その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実ならざるものとして、真実ならざるものとして、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それを説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴わないものとして、有るなら、如来は、それもまた説き明かしません。チュンダよ、もし、また、現在のものが、事実として、真実として、義(利益)を伴うものとして、有るなら、そこで、如来は、その問いを説き明かすための〔正しい〕時を知る者として〔世に〕有ります。

チュンダよ、かくのごとく、まさに、諸々の過去と未来と現在の法(性質)について、如来は、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、そして、それが、まさに、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕にとって、天〔の神〕や人間を含む人々にとって、見られたものであり、聞かれたものであり、思われたものであり、識られたものであり、至り得られたものであり、遍く探し求められたものであり、意によって探索されたものであるなら、その全てが、如来によって現正覚されたのであり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来が、そして、その夜に、無上なる正等覚(無上正等覚)を現正覚し、そして、その夜に、〔生存の〕依り所という残りものがない涅槃の界域(無余依涅槃界)において完全なる涅槃に到達するなら、すなわち、この中間において、〔彼が〕語り、談じ、釈示するものは、その全てが、まさしく、そのとおりに成り、他なるものと〔成ら〕ず、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、如来は、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者です。かくのごとく、説くとおり、そのとおりに為す者であり、為すとおり、そのとおりに説く者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。チュンダよ、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世において、天〔の神〕や人間を含む人々において、如来は、〔他を〕征服する者であり、〔他に〕征服されざる者であり、何であろうが見る者であり、自在に転起する者であり、それゆえに、『如来』と説かれます。

説き明かされなかった状況

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有るのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有る。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に有ることがないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このことは、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、かつまた、有り、かつまた、有ることがない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、いったい、まさに、どうなのでしょう、如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともないのですか。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕なのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、まさに、このこともまた、世尊によって説き明かされたことはありません。「如来は、死後に、まさしく、有ることもなく、有ることがないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」』と。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何ゆえに、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものではなく、初等の梵行たるものではなく、厭離のためではなく、離貪のためではなく、止滅のためではなく、寂止のためではなく、証知のためではなく、正覚のためではなく、涅槃のためではなく、等しく転起するからです。それゆえに、それは、沙門ゴータマによって説き明かされなかったのです』と。

説き明かされた状況

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何が、沙門ゴータマによって説き明かされたのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、「これは、苦しみである」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの集起である」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの止滅である」と、まさに、世尊によって説き明かされました。友よ、「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である」と、まさに、世尊によって説き明かされました』と。

チュンダよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『友よ、また、何ゆえに、このことは、沙門ゴータマによって説き明かされたのですか』と。チュンダよ、このような論ある〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちは、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。『友よ、なぜなら、このことは、義(利益)を伴ったものであり、このことは、法(真理)を伴ったものであり、このことは、初等の梵行たるものであり、一方的に、厭離のために、離貪のために、止滅のために、寂止のために、証知のために、正覚のために、涅槃のために、等しく転起するからです。それゆえに、それは、沙門ゴータマによって説き明かされたのです』と。

過去の極を共具した見解の依所

チュンダよ、すなわち、また、それらの過去の極(前際:過去の種々相)を共具した見解の依所も、それらもまた、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、すなわち、また、それらの未来の極(後際:未来の種々相)を共具した見解の依所も、それらもまた、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、では、どのようなものが、それらの過去の極を共具した見解の依所なのですか。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。……略……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。『楽と苦は、常久である。……。『楽と苦は、常久ではない。……『楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『楽と苦は、自作されたものである。……。『楽と苦は、他作されたものである。……。『楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。

チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象()ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知(施設)についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。

チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。……略……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。……。『楽と苦は、常久である。……。『楽と苦は、常久ではない。……『楽と苦は、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。……。『楽と苦は、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。……。『楽と苦は、自作されたものである。……。『楽と苦は、他作されたものである。……。『楽と苦は、かつまた、自作されたものであり、かつまた、他作されたものである。……。『楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「楽と苦は、自作のものではなく、他作のものではなく、偶発生起したものである」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの過去の極を共具した見解の依所です。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。

未来の極を共具した見解の依所

チュンダよ、では、どのようなものが、それらの未来の極を共具した見解の依所なのですか。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。チュンダよ、まさに、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『形態あるもの()として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、また、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『形態なきもの(無色)として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、表象あるものでもなく、表象なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「形態あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る──死後においても」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。

チュンダよ、そこで、すなわち、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるなら、『形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……略……。『かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、形態あるものでもなく、形態なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象あるものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『表象なきものとして、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『まさしく、表象あるものでもなく、表象なきものでもなく、自己は、無病のものとして〔世に〕有る……。『自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と。わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、いったい、まさに、存在しますか──「自己は、断絶し、消失する──死後において、〔世に〕有ることはない」と説かれる、このことは』と。そして、すなわち、まさに、彼らが、『これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、このように言ったなら、彼らのその〔言葉〕を、〔わたしは〕承認しません。それは、何を因とするのですか。チュンダよ、なぜなら、ここにおいて、或る有情たちで、他なるものとして表象ある者たちもまた存在するとして、チュンダよ、まさに、わたしは、このことの報知についてもまた、自己と等しく同等の者を随観することが、まさしく、ないからです──ましてや、より一層の者は〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層の者となります──すなわち、この、卓越の報知ある者として。チュンダよ、まさに、これらのものが、それらの未来の極を共具した見解の依所です。それらは、あなたたちに、わたしによって説き明かされました──すなわち、それらが説き明かされるべきである、〔そのとおりに〕。そして、すなわち、それらが説き明かされるべきでない、そのとおりに、どうして、あなたたちに、わたしが、それらを説き明かすというのでしょう。

チュンダよ、そして、これらの過去の極を共具した見解の依所の、さらに、これらの未来の極を共具した見解の依所の、捨棄のために、超越のために、このように、四つの気づきの確立が、わたしによって説示され報知されました。どのようなものが、四つのものなのですか。チュンダよ、ここに、比丘が、身体()における身体の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受()における感受の随観ある者として……略……。心における心の随観ある者として……。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます──熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。チュンダよ、そして、これらの過去の極を共具した見解の依所の、さらに、これらの未来の極を共具した見解の依所の、捨棄のために、超越のために、このように、これらの四つの気づきの確立が、わたしによって説示され報知されました」と。

また、まさに、その時点にあって、尊者ウパヴァーナは、世尊の背後に立った状態でいます──世尊を扇ぎながら。そこで、まさに、尊者ウパヴァーナは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、めったにないことです。尊き方よ、はじめてのことです。尊き方よ、まさに、この法(教え)の教相は、清信あるものです。尊き方よ、まさに、この法(教え)の教相は、極めて清信あるものです。尊き方よ、どのような名前が、この法(教え)の教相にありますか」と。「ウパヴァーナよ、それゆえに、ここに、あなたは、この法(教え)の教相を、まさしく、『清信あるもの』と、それを保持しなさい」と。世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た尊者ウパヴァーナは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

清信あるものの経は終了となり、〔以上が〕第六となる。

注釈【2】