読み込み中

翻訳【22】

大いなる獅子吼の経

無衣行者のカッサパの事

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、ウルンニャーに住んでおられます。カンナカッタラの鹿園において。そこで、まさに、無衣行者のカッサパが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に立ちました。一方に立った、まさに、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、このことを、わたしは聞きました。『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と。貴君ゴータマよ、すなわち、『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と、このように言った、それらの者たちですが、どうでしょう、彼らは、貴君ゴータマの説いたことを説く者たちですか。かつまた、貴君ゴータマを事実ならざることによって誹謗していないですか。さらに、法(教え)を法(教え)のままに説き明かしていますか。さてまた、何であれ、法(真理)を共にする、論への批判があり、難詰されるべき状況がやってくることはないですか。貴君ゴータマよ、まさに、わたしたちは、貴君ゴータマを誹謗することを欲する者たちにあらず」と。

「カッサパよ、すなわち、『沙門ゴータマは、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判する』と、このように言った、それらの者たちですが、彼らは、わたしの説いたことを説く者たちではありません。また、そして、彼らは、わたしを、正しからざることによって〔誹謗し〕、事実ならざることによって誹謗します。カッサパよ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、一部の苦行者で粗野な生き方ある者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見ます。カッサパよ、また、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、一部の苦行者で粗野な生き方ある者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇(善趣)に、天上の世に、再生したのを見ます。

カッサパよ、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、一部の苦行者で少苦の住ある者が、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのを見ます。カッサパよ、また、ここに、わたしは、人間を超越した清浄の天眼によって、一部の苦行者で少苦の住ある者が、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのを見ます。カッサパよ、すなわち、わたしが、これらの苦行者たちの、このような、かつまた、帰る所を、かつまた、赴く所を、かつまた、死滅を、かつまた、再生を、事実のとおりに覚知するなら、〔まさに〕その、わたしが、どうして、全ての苦行を難詰し、全ての苦行者を粗野な生き方ある者と一方的に弾劾し批判するというのでしょう。

カッサパよ、或る沙門や婆羅門の賢者たちで、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちが存在します。彼らは、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩みます。たとえ、彼らを相手にするも、わたしと、諸々の一部の箇所において合致し、諸々の一部の箇所において合致しません。すなわち、一部のものを、彼らが、『善きかな』と説くなら、わたしたちもまた、その一部のものを、『善きかな』と説きます。すなわち、一部のものを、彼らが、『善きにあらず』と説くなら、わたしたちもまた、その一部のものを、『善きにあらず』と説きます。すなわち、一部のものを、彼らが、『善きかな』と説くなら、わたしたちは、その一部のものを、『善きにあらず』と説きます。すなわち、一部のものを、彼らが、『善きにあらず』と説くなら、わたしたちは、その一部のものを、『善きかな』と説きます。

すなわち、一部のものを、わたしたちが、『善きかな』と説くなら、他者たちもまた、その一部のものを、『善きかな』と説きます。すなわち、一部のものを、わたしたちが、『善きにあらず』と説くなら、他者たちもまた、その一部のものを、『善きにあらず』と説きます。すなわち、一部のものを、わたしたちが、『善きにあらず』と説くなら、他者たちは、その一部のものを、『善きかな』と説きます。すなわち、一部のものを、わたしたちが、『善きかな』と説くなら、他者たちは、その一部のものを、『善きにあらず』と説きます。

尋問の話

わたしは、近づいて行って、彼らに、このように説きます。『友よ、わたしたちと、それらの箇所において合致しないなら、それらの箇所はさておき、それらの箇所において合致するなら、そこにおいて、識者たちは、尋問し、審問し、査問したまえ──あるいは、教師〔の観点〕によって、教師を、あるいは、僧団〔の観点〕によって、僧団を。「それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、罪過を有するものであり、罪過を有すると見なされたものであるなら、慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものではなく、十全にして聖なると見なされたものではないなら、黒いものであり、黒いと見なされたものであるなら、誰が、これらの法(性質)を、残りなく捨棄して行持するのですか。あるいは、沙門ゴータマですか、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちですか」』と。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、識者たちが、尋問し、審問し、査問しながら、このように説くことです。『それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、罪過を有するものであり、罪過を有すると見なされたものであるなら、慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものではなく、十全にして聖なると見なされたものではないなら、黒いものであり、黒いと見なされたものであるなら、沙門ゴータマは、これらの法(性質)を、残りなく捨棄して行持します。すなわち、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちは、〔さにあらず〕』と。カッサパよ、まさに、かくのごとく、識者たちは、尋問し、審問し、査問しながら、まさしく、わたしたちのことを、そこにおいて、多くのところとして賞賛するでしょう。

カッサパよ、他にもまた、〔このように説きます〕。『まさに、識者たちは、尋問し、審問し、査問したまえ──あるいは、教師〔の観点〕によって、教師を、あるいは、僧団〔の観点〕によって、僧団を。「それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであるなら、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであるなら、白いものであり、白いと見なされたものであるなら、誰が、これらの法(性質)を、残りなく受持して行持するのですか。あるいは、沙門ゴータマですか、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちですか」』と。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、識者たちが、尋問し、審問し、査問しながら、このように説くことです。『それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであるなら、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであるなら、白いものであり、白いと見なされたものであるなら、沙門ゴータマは、これらの法(性質)を、残りなく受持して行持します。すなわち、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちは、〔さにあらず〕』と。カッサパよ、まさに、かくのごとく、識者たちは、尋問し、審問し、査問しながら、まさしく、わたしたちのことを、そこにおいて、多くのところとして賞賛するでしょう。

カッサパよ、他にもまた、〔このように説きます〕。『まさに、識者たちは、尋問し、審問し、査問したまえ──あるいは、教師〔の観点〕によって、教師を、あるいは、僧団〔の観点〕によって、僧団を。「それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、罪過を有するものであり、罪過を有すると見なされたものであるなら、慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものではなく、十全にして聖なると見なされたものではないなら、黒いものであり、黒いと見なされたものであるなら、誰が、これらの法(性質)を、残りなく捨棄して行持するのですか。あるいは、ゴータマの弟子の僧団ですか、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちの弟子の僧団ですか」』と。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、識者たちが、尋問し、審問し、査問しながら、このように説くことです。『それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善ならざるものであり、善ならざると見なされたものであるなら、罪過を有するものであり、罪過を有すると見なされたものであるなら、慣れ親しむべきではないものであり、慣れ親しむべきではないと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものではなく、十全にして聖なると見なされたものではないなら、黒いものであり、黒いと見なされたものであるなら、ゴータマの弟子の僧団は、これらの法(性質)を、残りなく捨棄して行持します。すなわち、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちの弟子の僧団は、〔さにあらず〕』と。カッサパよ、まさに、かくのごとく、識者たちは、尋問し、審問し、査問しながら、まさしく、わたしたちのことを、そこにおいて、多くのところとして賞賛するでしょう。

カッサパよ、他にもまた、〔このように説きます〕。『まさに、識者たちは、尋問し、審問し、査問したまえ──あるいは、教師〔の観点〕によって、教師を、あるいは、僧団〔の観点〕によって、僧団を。「それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであるなら、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであるなら、白いものであり、白いと見なされたものであるなら、誰が、これらの法(性質)を、残りなく受持して行持するのですか。あるいは、ゴータマの弟子の僧団ですか、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちの弟子の僧団ですか」』と。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、識者たちが、尋問し、審問し、査問しながら、このように説くことです。『それらの法(性質)が、これらの尊き者たちにとって、善なるものであり、善なると見なされたものであるなら、罪過なきものであり、罪過なきと見なされたものであるなら、慣れ親しむべきものであり、慣れ親しむべきと見なされたものであるなら、十全にして聖なるものであり、十全にして聖なると見なされたものであるなら、白いものであり、白いと見なされたものであるなら、ゴータマの弟子の僧団は、これらの法(性質)を、残りなく受持して行持します。すなわち、また、あるいは、他の尊き衆徒の師匠たちの弟子の僧団は、〔さにあらず〕』と。カッサパよ、まさに、かくのごとく、識者たちは、尋問し、審問し、査問しながら、まさしく、わたしたちのことを、そこにおいて、多くのところとして賞賛するでしょう。

聖なる八つの支分ある道

カッサパよ、〔聖なる〕道が存在し、〔実践の〕道が存在します──実践したそのとおりに、『沙門ゴータマこそは、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者である』と、まさしく、自ら知ることになり、自ら見ることになります。カッサパよ、では、どのようなものが、〔聖なる〕道であり、そして、どのようなものが、〔実践の〕道なのですか──実践したそのとおりに、『沙門ゴータマこそは、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者である』と、まさしく、自ら知ることになり、自ら見ることになるのですか。まさしく、この、聖なる八つの支分ある道です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。カッサパよ、まさに、これは、〔聖なる〕道です。これは、〔実践の〕道です。実践したそのとおりに、『沙門ゴータマこそは、〔正しい〕時に説く者であり、事実を説く者であり、義(意味)を説く者であり、法(教え)を説く者であり、律を説く者である』と、まさしく、自ら知ることになり、自ら見ることになります」と。

苦行の行動の話

このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「友よ、ゴータマよ、まさに、これらの苦行の行動もまた、これらの沙門や婆羅門たちにあります──そして、沙門の資質と見なされ、さらに、婆羅門の資質と見なされた、〔これらの苦行の行動が〕。無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕、『幸いなる者よ、来たまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、『幸いなる者よ、止まりたまえ』〔と言われて従わ〕ない者と〔成り〕、運ばれてきたものを〔受け〕ず、指定して作られたものを〔受け〕ず、招待を受けません。彼は、瓶の口から納受せず、鍋の口から納受せず、敷居の内で〔納受せ〕ず、棒の内で〔納受せ〕ず、杵の内で〔納受せ〕ず、二者が食べていると〔納受せ〕ず、妊婦から〔納受せ〕ず、授乳者から〔納受せ〕ず、男の内に至った〔女〕から〔納受せ〕ず、諸々の配給があるときは〔納受せ〕ず、そこにおいて、近しく立つ犬が有るなら〔納受せ〕ず、そこにおいて、群れ集い行き交う蝿たちが〔有るなら納受せ〕ず、魚を〔食べ〕ず、肉を〔食べ〕ず、穀物酒を〔飲ま〕ず、果実酒を〔飲ま〕ず、酸粥を飲みません。彼は、あるいは、〔施者を〕一軒とする者と成り、〔施物を〕一口とする者と〔成り〕、あるいは、〔施者を〕二軒とする者と成り、〔施物を〕二口とする者と〔成り〕……略……あるいは、〔施者を〕七軒とする者と成り、〔施物を〕七口とする者と〔成り〕、一つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、二つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き……七つの施鉢によってもまた〔身を〕保ち行き、一日おきの食をもまた食し、二日おきの食をもまた食し……七日おきの食をもまた食し、かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。

友よ、ゴータマよ、まさに、これらの苦行の行動もまた、これらの沙門や婆羅門たちにあります──そして、沙門の資質と見なされ、さらに、婆羅門の資質と見なされた、〔これらの苦行の行動が〕。あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と成り、あるいは、野生米を食物とする者と成り、あるいは、革屑を食物とする者と成り、あるいは、苔を食物とする者と成り、あるいは、糠を食物とする者と成り、あるいは、飯汁を食物とする者と成り、あるいは、胡麻粉を食物とする者と成り、あるいは、草を食物とする者と成り、あるいは、牛糞を食物とする者と成り、林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行きます。

友よ、ゴータマよ、まさに、これらの苦行の行動もまた、これらの沙門や婆羅門たちにあります──そして、沙門の資質と見なされ、さらに、婆羅門の資質と見なされた、〔これらの苦行の行動が〕。諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の屍衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の糞掃衣〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々のティリータ〔樹の衣料〕をもまた〔身に〕付け、皮衣をもまた〔身に〕付け、網状の皮衣をもまた〔身に〕付け、茅の衣をもまた〔身に〕付け、樹皮の衣をもまた〔身に〕付け、延べ板の衣をもまた〔身に〕付け、髪の毛布をもまた〔身に〕付け、尾の毛布をもまた〔身に〕付け、梟の羽をもまた〔身に〕付け、髪と髭を抜かせることへの専念〔努力〕に専念する抜毛行者ともまた成り、坐を拒絶する常立行者ともまた成り、跪坐の精励に専念する跪坐行者ともまた成り、棘のうえに臥す者ともまた成り、棘のうえに臥す臥所を営み、延べ板の臥所をもまた営み、野の臥所をもまた営み、片脇で臥す者ともまた成り、塵や埃を〔身に〕付ける者と〔成り〕、野外にある者ともまた成り、〔坐具が〕広げられたとおり〔の場所〕にある者と〔成り〕、汚物を食べることへの専念〔努力〕に専念する汚物行者ともまた成り、不飲を為すことに専念する不飲行者ともまた成り、夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住みます」と。

苦行の行動の義(利益)なきことの話

「カッサパよ、もし、また、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住むも、しかしながら、彼に、この、戒の成就と心(禅定)の成就と智慧の成就が、〔いまだ〕修められず実証されずに有るなら、そこで、まさに、彼は、沙門の資質から、まさしく、遠く離れているのであり、婆羅門の資質から、まさしく、遠く離れているのです。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、野菜を食物とする者と成り、粟を食物とする者と……略……林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行くも、しかしながら、彼に、この、戒の成就と心の成就と智慧の成就が、〔いまだ〕修められず実証されずに有るなら、そこで、まさに、彼は、沙門の資質から、まさしく、遠く離れているのであり、婆羅門の資質から、まさしく、遠く離れているのです。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、諸々の麻〔の衣料〕を〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け……略……夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住むも、しかしながら、彼に、この、戒の成就と心の成就と智慧の成就が、〔いまだ〕修められず実証されずに有るなら、そこで、まさに、彼は、沙門の資質から、まさしく、遠く離れているのであり、婆羅門の資質から、まさしく、遠く離れているのです。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます」と。

このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です」と。「カッサパよ、まさに、これは、世における普通〔の言い方〕です。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。カッサパよ、もし、また、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住み、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。

また、そして、このことは、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、為すことができます(身分に関係なく、やろうと思えばできる)。『さあ、わたしは、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住むのだ』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、野菜を食物とする者と成り、粟を食物とする者と……略……林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行き、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。

また、そして、このことは、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、為すことができます。『さあ、わたしは、あるいは、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と……略……林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行くのだ』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、諸々の麻〔の衣料〕を〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け……略……夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住み、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。

また、そして、このことは、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、為すことができます。『さあ、わたしは、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け……略……夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住むのだ』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門の資質が、あるいは、婆羅門の資質が、為し難く極めて為し難きものとして〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『為し難きは、沙門の資質です。為し難きは、婆羅門の資質です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます」と。

このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です」と。「カッサパよ、まさに、これは、世における普通〔の言い方〕です。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。カッサパよ、もし、また、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住み、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。

また、そして、この者は、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、知ることができます(沙門であるか、婆羅門であるか、簡単に判別できてしまう)。『この者は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕、〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……かくのごとく、このような形態の半月おきの〔食〕をもまた〔食し〕、〔このような〕様態の食事を食べることへの専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住む』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と……略……林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行き、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。

また、そして、この者は、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、知ることができます。『この者は、野菜を食物とする者と成り、あるいは、粟を食物とする者と……略……林の根や果を食する者として、落ちた果を受益する者として、〔身を〕保ち行く』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます。

カッサパよ、もし、また、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け……略……夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住み、カッサパよ、そして、これのみによって、この苦行の行動によって、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ったなら──このことは、〔そのように〕有ったなら、言葉たるに健全なるものがありません。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。

また、そして、この者は、〔そのように〕有ったなら、あるいは、家長によって、あるいは、家長の子によって、もしくは、水汲みの奴婢によってさえも、知ることができます。『この者は、諸々の麻〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け、諸々の麻混〔の衣料〕をもまた〔身に〕付け……略……夕方までに三度の水行をする専念〔努力〕に専念する者としてもまた〔世に〕住む』と。

カッサパよ、しかしながら、すなわち、まさに、まさしく、これのみより他にも、この苦行の行動より他にも、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、知り難く極めて知り難き者として〔世に〕有ることから、それゆえに、このことは、言葉たるに健全なるものがあります。『知り難きは、沙門です。知り難きは、婆羅門です』とは。カッサパよ、すなわち、まさに、比丘が、怨念〔の思い〕なく憎悪〔の思い〕なき慈愛の心を修め、そして、諸々の煩悩の滅尽あることから、煩悩なきものとして、〔止寂の〕心による解脱を、〔観察の〕智慧による解脱を、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住むことから、カッサパよ、この比丘は、『沙門』ともまた〔説かれ〕、『婆羅門』ともまた説かれます」と。

戒と禅定と智慧の成就

このように説かれたとき、無衣行者のカッサパは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、また、それで、どのようなものが、戒の成就であり、どのようなものが、心(禅定)の成就であり、どのようなものが、智慧の成就なのですか」と。「カッサパよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……(すなわち、190-193において断絶なくあるように、このように詳知されるべきである)。恐怖を見る者として、〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処(戒律)において学びます──善なる身体の行為と言葉の行為を具備した者として、完全なる清浄の生き方ある者として、戒を成就した者として、諸々の〔感官の〕機能において門が守られている者として、気づきと正知を具備した者として、〔常に〕満ち足りている者として。

カッサパよ、では、どのように、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有るのですか。カッサパよ、ここに、比丘が、命あるものを殺すことを捨棄して、命あるものを殺すことから離間した者として〔世に〕有り、棒を置いた者として、刃を置いた者として、恥を知る者として、憐憫〔の思い〕を起こした者として、一切の命ある生類たちに利益と慈しみ〔の思い〕ある者として、〔世に〕住みます。これもまた、彼の戒の成就のうちに有ります。……略……(すなわち、194 から 210 に至るまで断絶なくあるように、このように詳知されるべきである)。

また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて〔そののち〕、彼らは、このような形態の畜生知である誤った生き方によって、生計を営みます。それは、すなわち、この、寂静〔祈願〕の儀礼、誓願〔成就〕の儀礼……略……(すなわち、211において断絶なくあるように)。諸々の薬草の除染であり、あるいは、かくのごときものです。かくのごとき、このような形態の畜生知である誤った生き方から離間した者として〔世に〕有ります。これもまた、彼の戒の成就のうちに有ります。

カッサパよ、それで、まさに、その比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。カッサパよ、それは、たとえば、また、即位灌頂した王たる士族が、対立者を打破したなら、すなわち、この、義(利益)に反する者〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しないように、カッサパよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、このように戒を成就したなら、すなわち、この、戒による統御〔の観点〕から、もはや、けっして、恐怖を等しく随観しません。彼は、この聖なる戒の範疇を具備した者となり、内に罪過なき安楽を得知します。カッサパよ、このように、まさに、比丘は、戒を成就した者として〔世に〕有ります。カッサパよ、これが、まさに、戒の成就となります。……略……第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これもまた、彼の心の成就のうちに有ります。……略……第二の瞑想を……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。これもまた、彼の心の成就のうちに有ります。カッサパよ、これが、まさに、心の成就となります。

彼は、このように、心が、定められたものとなり……略……〔あるがままの〕知見〔の獲得〕のために、心を導引し、向かわせます。……略……。これもまた、彼の智慧の成就のうちに有ります。……略……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。これもまた、彼の智慧の成就のうちに有ります。カッサパよ、これが、まさに、智慧の成就となります。

カッサパよ、そして、この、戒の成就と心の成就と智慧の成就より、他の、戒の成就と心の成就と智慧の成就で、あるいは、より上なるものも、あるいは、より精妙なるものも、存在しません。

獅子吼の話

カッサパよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。戒を説く者たちです。彼らは、無数の教相によって、戒の栄誉を語ります。カッサパよ、すなわち、聖なる最高の戒に至るまで、わたしは、そこにおいて、自己のものと等しく同等のものを等しく随観しません──ましてや、より一層のものは〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層にあります。すなわち、この、卓越の戒として。

カッサパよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。苦行による忌避を説く者たちです。彼らは、無数の教相によって、苦行による忌避の栄誉を語ります。カッサパよ、すなわち、聖なる最高の苦行による忌避に至るまで、わたしは、そこにおいて、自己のものと等しく同等のものを等しく随観しません──ましてや、より一層のものは〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層にあります。すなわち、この、卓越の忌避として。

カッサパよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。智慧を説く者たちです。彼らは、無数の教相によって、智慧の栄誉を語ります。カッサパよ、すなわち、聖なる最高の智慧に至るまで、わたしは、そこにおいて、自己のものと等しく同等のものを等しく随観しません──ましてや、より一層のものは〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層にあります。すなわち、この、卓越の智慧として。

カッサパよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。解脱を説く者たちです。彼らは、無数の教相によって、解脱の栄誉を語ります。カッサパよ、すなわち、聖なる最高の解脱に至るまで、わたしは、そこにおいて、自己のものと等しく同等のものを等しく随観しません──ましてや、より一層のものは〔言うまでもなく〕。そこで、まさに、わたしこそは、そこにおいて、より一層にあります。すなわち、この、卓越の解脱として。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『まさに、沙門ゴータマは、獅子吼を吼え叫ぶ。しかしながら、それを、まさに、空家のなかで吼え叫ぶ──諸々の衆のなかではなく』と。彼らは、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者たちとして存するでしょうし、『沙門ゴータマは、かつまた、獅子吼を吼え叫び、かつまた、諸々の衆のなかで吼え叫ぶ』と、カッサパよ、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、かつまた、獅子吼を吼え叫び、かつまた、諸々の衆のなかで吼え叫ぶ。しかしながら、まさに、離怖の者ではなく吼え叫ぶ』と。彼らは、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者たちとして存するでしょうし、『沙門ゴータマは、かつまた、獅子吼を吼え叫び、かつまた、諸々の衆のなかで吼え叫び、かつまた、離怖の者として吼え叫ぶ』と、カッサパよ、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。

カッサパよ、また、まさに、この状況は見出されます。すなわち、〔教えを〕他にする異教の遍歴遊行者たちが、このように説くことです。『沙門ゴータマは、かつまた、獅子吼を吼え叫び、かつまた、諸々の衆のなかで吼え叫び、かつまた、離怖の者ではなく吼え叫ぶ。しかしながら、まさに、彼に、〔人々は〕問いを尋ねない』……略……かつまた、彼に、〔人々は〕問いを尋ねる。しかしながら、まさに、〔人々に〕問いを尋ねられ、彼らに説き明かさない』……略……かつまた、〔人々に〕問いを尋ねられ、彼らに説き明かす。しかしながら、まさに、問いへの説き明かしによって、〔人々の〕心を喜ばせない』……略……かつまた、問いへの説き明かしによって、〔人々の〕心を喜ばせる。しかしながら、まさに、〔人々は〕聞くべきものと思い考えない』……略……かつまた、〔人々は〕聞くべきものと思い考える。しかしながら、まさに、聞いて〔そののち、人々は〕清信しない』……略……かつまた、聞いて〔そののち、人々は〕清信する。しかしながら、まさに、〔人々は〕清信の行相を作り為さない』……略……かつまた、〔人々は〕清信の行相を作り為す。しかしながら、まさに、〔人々は〕そのとおりそのままに実践しない』……略……かつまた、〔人々は〕そのとおりそのままに実践する。しかしながら、まさに、実践した者たちは達成しない』と。彼らは、『まさに、このように〔言っては〕いけません』と説かれるべき者たちとして存するでしょうし、『沙門ゴータマは、かつまた、獅子吼を吼え叫び、かつまた、諸々の衆のなかで吼え叫び、かつまた、離怖の者として吼え叫び、かつまた、彼に、〔人々は〕問いを尋ね、かつまた、〔人々に〕問いを尋ねられ、彼らに説き明かし、かつまた、問いへの説き明かしによって、〔人々の〕心を喜ばせ、かつまた、〔人々は〕聞くべきものと思い考え、かつまた、聞いて〔そののち、人々は〕清信し、かつまた、〔人々は〕清信の行相を作り為し、かつまた、〔人々は〕そのとおりそのままに実践し、かつまた、実践した者たちは達成する』と、カッサパよ、このように説かれるべき者たちとして存するでしょう。

異教の者の別住の話

カッサパよ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。そこで、わたしに、ニグローダという名の或るひとりの苦行の梵行者が、卓越の忌避について、問いを尋ねました。彼に、わたしは、問いを尋ねられた者として、卓越の忌避について説き明かしました。また、そして、わたしによって説き明かされたとき、〔彼は〕極度に激しく、わが意を得た者と成りました」と。「尊き方よ、まさに、誰が、世尊の法(教え)を聞いて、極度に激しく、わが意を得た者として存さないというのでしょう。尊き方よ、まさに、わたしもまた、世尊の法(教え)を聞いて、極度に激しく、わが意を得た者としてあります。尊き方よ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。尊き方よ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、世尊によって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。尊き方よ、〔まさに〕この、わたしは、世尊を帰依所に赴きます──そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。尊き方よ、わたしが、世尊の現前において、出家を得られますように──〔戒の〕成就(具足戒)を得られますように」と。

「カッサパよ、すなわち、まさに、〔教えを〕他にする異教の過去ある者が、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望むなら、彼は、四月のあいだ別住します(試験期間を設ける)。四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼を〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させます。しかしながら、また、ここにおいて、人によって相違あることが、わたしによって見出されました(あなたは例外である)」と。「尊き方よ、それで、もし、〔教えを〕他にする異教の過去ある者たちが、この法(教え)と律において、出家を望み、〔戒の〕成就を望み、四月のあいだ別住し、四月が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔彼らを〕出家させ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させるなら(そのような決まりがあるなら)、わたしは、四年のあいだ別住します。四年が経過して、勉励心ある比丘たちが、〔わたしを〕出家させたまえ、比丘の状態となるために、〔戒を〕成就させたまえ」と。

まさに、無衣行者のカッサパは、世尊の現前において、出家を得ました──〔戒の〕成就を得ました。また、まさに、〔戒を〕成就したばかりの尊者カッサパは、独り、〔静所に〕隠棲し、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、まさしく、長からずして──その義(目的)のために、良家の子息たちが、まさしく、正しく、家から家なきへと出家する、〔まさに〕その、梵行の結末という無上なるものを、まさしく、所見の法(現世)において、自ら、証知して、実証して、成就して、〔世に〕住みました。「生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない」と証知しました。また、まさに、尊者カッサパは、阿羅漢たちのなかの或るひとりと成った、ということです。

大いなる獅子吼の経は終了となり、〔以上が〕第八となる。

注釈【3】