このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。未来の極(後際:未来の種々相)についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説します。(1)『表象(想)ある者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る——死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(2)『表象なき者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る——死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(3)『表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者として、自己は、無病のものとして〔世に〕有る——死後においても』と、ここにおいて、或る者たちは宣説し、(4)また、あるいは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知し、(5)また、あるいは、或る者たちは、所見の法(現世)における涅槃(現法涅槃)を宣説します。かくのごとく、(1)あるいは、〔世に〕存している自己を、死後においても、無病のものであると報知し、(2)また、あるいは、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知し、(3)また、あるいは、或る者たちは、所見の法(現世)における涅槃を宣説します。かくのごとく、これらは、五と成って、三と成り、三と成って、五と成ります。これは、五と三についての概略です。
比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるもの(色)として、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきもの(無色)として、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、一なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、種々なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、微小なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、無量なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。また、あるいは、このことを超克している或る者たちがいるなかで、或る者たちは、識知〔作用〕の遍満(識遍)を、無量にして不動なるものと宣説します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、一なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、種々なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、微小なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、無量なる表象あるものとして、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。また、あるいは、もしくは、形態ある表象であり、もしくは、形態なき表象であり、もしくは、一なる表象であり、もしくは、種々なる表象である、これらの表象のなかで、すなわち、完全なる清浄のものであり、最高のものであり、至高のものであり、無上なるものであると告げ知らされる、無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)を、『何であれ、存在しない』と、或る者たちは、無量にして不動なるものと宣説します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたもの(有為)であり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕(諸行)の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、そこで、すなわち、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『表象は、病である。表象は、腫物である。表象は、矢である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、表象なきものである』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、すなわち、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、あるいは、沙門が、あるいは、婆羅門が、『わたしは、形態(色)より他に、感受〔作用〕(受)より他に、表象〔作用〕(想)より他に、諸々の形成〔作用〕(行)より他に、識知〔作用〕(識)の、あるいは、帰る所を、あるいは、赴く所を、あるいは、死滅を、あるいは、再生を、あるいは、増大を、あるいは、成長を、あるいは、広大を、報知するであろう』と、このように説くとして、この状況は見出されません。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、そこで、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『表象は、病である。表象は、腫物である。表象は、矢である。表象なきものは、迷妄である。これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、表象あるにもあらず表象なきにもあらざるものである』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、すなわち、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちですが、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、かつまた、形態あるものとして、かつまた、形態なきものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知し、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、あるいは、形態あるにもあらず形態なきにもあらざるものとして、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知します。比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、見られ聞かれ思われたものによって識られるべき形成〔作用〕のみによって、この〔認識の〕場所(処)の成就を報知するなら、比丘たちよ、まさに、このことは、この〔認識の〕場所の成就にとって、災厄と告げ知らされます。比丘たちよ、まさに、この〔認識の〕場所は、形成〔作用〕による入定(等至:専心)によって至り得られるべきものと告げ知らされません。比丘たちよ、この〔認識の〕場所は、形成〔作用〕の残余による入定によって至り得られるべきものと告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、そこで、すなわち、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知する、それらの沙門や婆羅門たちです。比丘たちよ、そこで、すなわち、表象ある者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象なき者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾し、すなわち、また、表象あるにもあらず表象なきにもあらざる者である自己を、死後においても、無病のものであると報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちですが、彼らを、これらの者たちは弾劾します。それは、何を因とするのですか。『これらの尊き沙門や婆羅門たちは、全てもろともに、さらなる流れを、まさしく、執着を、宣説する。「かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう。かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう」と。それは、たとえば、また、まさに、商売のために赴きつつある商人に、このような〔思いが〕有るように、「これから、わたしに、これが有るであろう。これによって、これを、〔わたしは〕得るであろう」と、まさしく、このように、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、思うに、商人の如き者たちであることが明白となる。「かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう。かくのごとく、〔わたしたちは〕死後において、〔世に〕有るであろう」』と〔思うからです〕。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、すなわち、〔世に〕存している有情の断絶と消失と虚無を報知する、それらの尊き沙門や婆羅門たちですが、彼らは、身体を有することを恐怖する者たちであり、身体を有することを遍く忌避する者たちであり、まさしく、身体を有することに、遍く随走し、遍く随転します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、まさに、革紐によって結縛された犬が、堅固な、あるいは、杭に、あるいは、柱に、連結されたなら、まさしく、その、あるいは、杭〔の周囲〕を、あるいは、柱〔の周囲〕を、遍く随走し、遍く随転するように、比丘たちよ、まさしく、このように、これらの尊き沙門や婆羅門たちは、身体を有することを恐怖する者たちであり、身体を有することを遍く忌避する者たちであり、まさしく、身体を有することに、遍く随走し、遍く随転します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、まさに、彼らが誰であれ、あるいは、沙門たちが、あるいは、婆羅門たちが、未来の極についての妄想ある者たちであり、未来の極についての偏った見解ある者たちであり、未来の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説するなら、彼らの全てが、まさしく、これらの五つの〔認識の〕場所を宣説します——あるいは、これらのなかのどれか一つを。
比丘たちよ、或る沙門や婆羅門たちが存在します。過去の極(前際:過去の種々相)についての妄想ある者たちであり、過去の極についての偏った見解ある者たちであり、過去の極を対象として、無数〔の流儀〕に関した教説を宣説します。(1)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(2)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(3)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(4)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(5)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(6)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(7)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(8)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(9)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(10)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、種々なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(11)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、微小なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(12)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、無量なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(13)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な安楽あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(14)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(15)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、安楽と苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。(16)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、苦でもなく楽でもないものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、ここにおいて、或る者たちは宣説します。
比丘たちよ、そこで、すなわち、このような論ある者であり、このような見解ある者である、それらの沙門や婆羅門たちですが、(1)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久である。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼らに、まさに、まさしく、信より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が有るであろう、という、この状況は見出されません(伝聞の知識があるだけである)。比丘たちよ、また、まさに、各自に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が存していないとき、すなわち、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、そこにおいて、まさしく、知恵の部分のみを遍く清めるのであり、それはまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちにとっての、執取(取)と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、そこで、すなわち、このような論ある者であり、このような見解ある者である、それらの沙門や婆羅門たちですが、(2)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……略……(3)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、常久であり、かつまた、常久ではない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(4)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、常久であることもなく、常久でないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(5)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がある。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(6)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(7)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、かつまた、終極があり、かつまた、終極がない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(8)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、まさしく、終極があることもなく、終極がないこともない。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(9)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(10)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、種々なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(11)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、微小なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(12)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、無量なる表象あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(13)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な安楽あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(14)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、一方的な苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(15)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、安楽と苦痛あるものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と……(16)『かつまた、自己も、かつまた、世〔界〕も、苦でもなく楽でもないものである。これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である』と、彼らに、まさに、まさしく、信より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が有るであろう、という、この状況は見出されません。比丘たちよ、また、まさに、各自に、完全なる清浄にして完全なる清白の知恵が存していないとき、すなわち、また、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、そこにおいて、まさしく、知恵の部分のみを遍く清めるのであり、それはまた、それらの尊き沙門や婆羅門たちにとっての、執取と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住みます(第一禅と第二禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その遠離の喜悦が止滅します。遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、遠離の喜悦を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その遠離の喜悦が止滅します。遠離の喜悦の止滅あることから、失意が生起し、失意の止滅あることから、遠離の喜悦が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽(非俗の安楽)を成就して〔世に〕住みます(第三禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その財貨なき安楽が止滅します。財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、財貨なき安楽を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その財貨なき安楽が止滅します。財貨なき安楽の止滅あることから、遠離の喜悦が生起し、遠離の喜悦の止滅あることから、財貨なき安楽が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を成就して〔世に〕住みます(第四禅を成就する)。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その苦でもなく楽でもない感受が止滅します。苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。比丘たちよ、それは、たとえば、また、それを、影が捨棄するなら、それに、熱光が充満し、それを、熱光が捨棄するなら、それに、影が充満するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住みます。『これは、寂静である。これは、精妙である。すなわち、この、苦でもなく楽でもない感受を成就して〔世に〕住む』と。彼の、その苦でもなく楽でもない感受が止滅します。苦でもなく楽でもない感受の止滅あることから、財貨なき安楽が生起し、財貨なき安楽の止滅あることから、苦でもなく楽でもない感受が生起します。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、また、ここに、一部の、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受の超越あることから、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観します。比丘たちよ、〔まさに〕その、このことを、如来は証知します。まさに、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、そして、諸々の過去の極についての偏った見解の放棄あることから、さらに、諸々の未来の極についての偏った見解の放棄あることから、全てにわたり、諸々の欲望の束縛の確立なきことから、遠離の喜悦の超越あることから、財貨なき安楽の超越あることから、苦でもなく楽でもない感受の超越あることから、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観します。たしかに、この尊者は、まさしく、涅槃に正当なる〔実践の〕道を宣説します。そこで、また、しかしながら、この尊き、あるいは、沙門は、あるいは、婆羅門は、あるいは、諸々の過去の極についての偏った見解に執取しつつ執取し、あるいは、諸々の未来の極についての偏った見解に執取しつつ執取し、あるいは、諸々の欲望の束縛に執取しつつ執取し、あるいは、遠離の喜悦に執取しつつ執取し、あるいは、財貨なき安楽に執取しつつ執取し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受に執取しつつ執取します。そして、すなわち、まさに、この尊者が、『わたしは、寂静なる者として〔世に〕存している。わたしは、涅槃に到達した者として〔世に〕存している。わたしは、執取なき者として〔世に〕存している』と等しく随観するなら、それはまた、この尊き、沙門にとっての、婆羅門にとっての、執取と告げ知らされます。『〔まさに〕その、このことは、形成されたものであり、粗大なるものである。また、まさに、諸々の形成〔作用〕の止滅が存在し、この〔涅槃〕が存在する』と、かくのごとく見出して、それの出離を見る者となり、如来は、それを超克したのです。
比丘たちよ、また、まさに、この、優れた寂静の境処(涅槃)という無上なるものが、如来によって現正覚されました。すなわち、この、六つの接触ある〔認識の〕場所(六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、事実のとおりに見出して、〔何も〕執取せずして〔到達する〕解脱です」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
五と三の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。
注釈【4】
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