このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、クル〔国〕に住んでおられます。クル〔国〕には、カンマーサダンマという名の町があります。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
概略
「比丘たちよ、これは、一路の道です——有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立(四念処・四念住)です。
どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体(身)における身体の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受(受)における感受の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。
概略は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の呼吸の部
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります——結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、轆轤師が、あるいは、轆轤師の内弟子が、あるいは、長く引きつつ、『〔わたしは〕長く引く』と覚知し、あるいは、短く引きつつ、『〔わたしは〕短く引く』と覚知するように、比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知し、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知します。あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知し、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知します。『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学びます。『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学びます。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知(智)あるためのみに、気づき(念)あるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
呼吸の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の振る舞いの道の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、あるいは、赴いているなら、『〔わたしは〕赴く』と覚知し、あるいは、立っているなら、『立っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、坐っているなら、『坐っている者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、あるいは、臥しているなら、『臥している者として、〔わたしは〕存している』と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
振る舞いの道の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の正知の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、前進しているとき、後進しているとき、正知を為す者として〔世に〕有り、前視したとき、後視したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、屈曲したとき、伸直したとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として〔世に〕有り、食べたとき、飲んだとき、咀嚼したとき、味わったとき、正知を為す者として〔世に〕有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として〔世に〕有り、赴いたとき、立ったとき、坐ったとき、眠っているとき、起きているとき、語っているとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として〔世に〕有ります。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
正知の部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の嫌悪のものに意を為すことの部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と諸々の爪と諸々の歯と皮膚と肉と腱と骨と骨髄と腎臓と心臓と肝臓と肋膜と脾臓と肺臓と腸と腸間膜と胃物と糞と胆汁と痰と膿と血と汗と脂肪と涙と膏と唾液と鼻水と髄液と尿が存在する』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、両側に口のある袋があり、種々に取り揃えられた穀物に満ちているとします——それは、すなわち、この、諸々のサーリ〔米〕であり、諸々のヴィーヒ〔米〕であり、諸々の緑豆であり、諸々の豆であり、諸々の胡麻であり、諸々のタンドゥラ〔米〕です。〔まさに〕その、この〔袋〕を、眼ある人が、解き放って注視します。『これらは、サーリ〔米〕である。これらは、ヴィーヒ〔米〕である。これらは、緑豆である。これらは、豆である。これらは、胡麻である。これらは、タンドゥラ〔米〕である』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、足の裏から上に、髪の頂から下に、皮膚を極限とし、種々なる流儀の不浄物に満ちているものと〔あるがままに〕注視します。『この身体には、諸々の髪と諸々の毛と……略……尿が存在する』と。
かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
嫌悪のものに意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の界域に意を為すことの部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域(界)〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、能ある、あるいは、屠牛者が、あるいは、屠牛者の内弟子が、雌牛を屠殺して、大きな四つ辻において、片々に細別して、〔そこに〕坐り、存するようなものです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、比丘が、まさしく、この身体を、止住しているとおりに、作為されたとおりに、界域〔の観点〕から、〔あるがままに〕注視します。『この身体において、地の界域と水の界域と火の界域と風の界域が存在する』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
界域に意を為すことの部は〔以上で〕終了となる。
身体の随観の九つの墓所の部
(1)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——あるいは、死んで一日の、あるいは、死んで二日の、あるいは、死んで三日の、膨張し、青黒くなり、膿爛を生じたものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
(2)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——あるいは、烏たちによって喰われているものを、あるいは、鷹たちによって喰われているものを、あるいは、鷲たちによって喰われているものを、あるいは、鷺たちによって喰われているものを、あるいは、犬たちによって喰われているものを、あるいは、虎たちによって喰われているものを、あるいは、豹たちによって喰われているものを、あるいは、野狐(ジャッカル)たちによって喰われているものを、あるいは、様々な種類の命あるものの類によって喰われているものを。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
(3)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——骨の鎖にして、肉と血を有し、腱の連結あるものを。……略……(4)骨の鎖にして、肉がなく血にまみれ、腱の連結あるものを。……略……(5)骨の鎖にして、肉と血が離れ去り、腱の連結あるものを。……略……(6)連結が離れ去り、〔四〕方(東西南北)と〔四〕維(北西・南西・南東・北東の四隅)に散乱した、諸々の骨を——他なるものとして、手の骨を、他なるものとして、足の骨を、他なるものとして、踝の骨を、他なるものとして、脛の骨を、他なるものとして、腿の骨を、他なるものとして、腰の骨を、他なるものとして、肋の骨を、他なるものとして、背の骨を、他なるものとして、肩の骨を、他なるものとして、首の骨を、他なるものとして、顎の骨を、他なるものとして、歯の骨を、他なるものとして、頭蓋を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み……略……。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
(7)比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、それは、たとえば、また、墓所に捨てられた肉体を見るとします——白く、法螺貝の色に相似した、諸々の骨を。……略……(8)山積みされ、年を経た、諸々の骨を。……略……(9)腐敗し、細片の類の、諸々の骨を。彼は、まさしく、この身体に近しく集中します。『まさに、この身体もまた、このような法(性質)あるものであり、このような状態あるものであり、このような〔状態を〕超え行くことなきものである』と。かくのごとく、あるいは、内に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、身体において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、身体において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『身体が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます。
九つの墓所の部は〔以上で〕終了となる。
十四の身体の随観は〔以上で〕終了となる。
感受の随観
比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、安楽の感受(楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦痛の感受(苦受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、苦でもなく楽でもない感受(不苦不楽受)を感受しているなら、『〔わたしは〕苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する安楽(世俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき安楽(非俗の安楽)の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき安楽の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦痛の感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦痛の感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨を有する苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知し、あるいは、財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受しているなら、『〔わたしは〕財貨なき苦でもなく楽でもない感受を感受する』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の感受において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の感受において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の感受が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます。
感受の随観は〔以上で〕終了となる。
心の随観
比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、貪欲を有する心を、『貪欲を有する心である』と覚知します。あるいは、貪欲を離れた心を、『貪欲を離れた心である』と覚知します。あるいは、憤怒を有する心を、『憤怒を有する心である』と覚知します。あるいは、憤怒を離れた心を、『憤怒を離れた心である』と覚知します。あるいは、迷妄を有する心を、『迷妄を有する心である』と覚知します。あるいは、迷妄を離れた心を、『迷妄を離れた心である』と覚知します。あるいは、退縮した心を、『退縮した心である』と覚知します。あるいは、散乱した心を、『散乱した心である』と覚知します。あるいは、莫大なる心を、『莫大なる心である』と覚知します。あるいは、莫大ならざる心を、『莫大ならざる心である』と覚知します。あるいは、有上なる心を、『有上なる心である』と覚知します。あるいは、無上なる心を、『無上なる心である』と覚知します。あるいは、定められた心を、『定められた心である』と覚知します。あるいは、定められていない心を、『定められていない心である』と覚知します。あるいは、解脱した心を、『解脱した心である』と覚知します。あるいは、解脱していない心を、『解脱していない心である』と覚知します。かくのごとく、あるいは、内に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、心において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、心において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『心が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます。
心の随観は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔修行の〕妨害の部
比丘たちよ、では、どのように、比丘は、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、五つの〔修行の〕妨害(五蓋)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕(欲貪)が存在しているのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、憎悪〔の思い〕(瞋恚)が存在しているのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、憎悪〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、憎悪〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない憎悪〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した憎悪〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した憎悪〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気(昏沈睡眠)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕沈滞と眠気が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕沈滞と眠気の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕沈滞と眠気の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕沈滞と眠気の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨(掉挙悪作)が存在しているのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在する』と覚知します。あるいは、内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在していないのを、『わたしの内に、〔心の〕高揚と悔恨が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない〔心の〕高揚と悔恨の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した〔心の〕高揚と悔恨の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した〔心の〕高揚と悔恨の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、疑惑〔の思い〕(疑)が存在しているのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在する』と覚知します。あるいは、内に、疑惑〔の思い〕が存在していないのを、『わたしの内に、疑惑〔の思い〕が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない疑惑〔の思い〕の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した疑惑〔の思い〕の捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した疑惑〔の思い〕の未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔修行の〕妨害において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
妨害の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔心身を構成する〕範疇の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『かくのごとく、形態(色)があり、かくのごとく、形態の集起があり、かくのごとく、形態の滅至がある』『かくのごとく、感受〔作用〕(受)があり、かくのごとく、感受〔作用〕の集起があり、かくのごとく、感受〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、表象〔作用〕(想)があり、かくのごとく、表象〔作用〕の集起があり、かくのごとく、表象〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、諸々の形成〔作用〕(行)があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の集起があり、かくのごとく、諸々の形成〔作用〕の滅至がある』『かくのごとく、識知〔作用〕(識)があり、かくのごとく、識知〔作用〕の集起があり、かくのごとく、識知〔作用〕の滅至がある』と、かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
〔心身を構成する〕範疇の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の〔認識の〕場所の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、内と外の六つの〔認識の〕場所(六処)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。
比丘たちよ、ここに、比丘が、そして、眼を覚知し、さらに、諸々の形態(色)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するもの(結)が生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、耳を覚知し、さらに、諸々の音声(声)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、鼻を覚知し、さらに、諸々の臭気(香)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、舌を覚知し、さらに、諸々の味感(味)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、身を覚知し、さらに、諸々の感触(触・所触)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
そして、意を覚知し、さらに、諸々の法(法:意の対象)を覚知します。さらに、すなわち、その両者を縁として、束縛するものが生起するなら、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない束縛するものの生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した束縛するものの捨棄が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕捨棄した束縛するものの未来に生起なきことが有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、内と外の六つの〔認識の〕場所において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
〔認識の〕場所の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の覚りの支分の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、七つの覚りの支分(七覚支)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、あるいは、内に、気づきという正覚の支分(念覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、気づきという正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、気づきという正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない気づきという正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した気づきという正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、法(真理)の判別という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない法(真理)の判別という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した法(真理)の判別という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、精進という正覚の支分(精進覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、精進という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、精進という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない精進という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した精進という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、喜悦という正覚の支分(喜覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、喜悦という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、喜悦という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない喜悦という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した喜悦という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、静息という正覚の支分(軽安覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、静息という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、静息という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない静息という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した静息という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、禅定という正覚の支分(定覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、禅定という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、禅定という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない禅定という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した禅定という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
あるいは、内に、放捨という正覚の支分(捨覚支)が存在しているのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在する』と覚知します。あるいは、内に、放捨という正覚の支分が存在していないのを、『わたしの内に、放捨という正覚の支分が存在しない』と覚知します。さらに、すなわち、〔いまだ〕生起していない放捨という正覚の支分の生起が有るとおりに、そして、それを覚知します。さらに、すなわち、〔すでに〕生起した放捨という正覚の支分の修行の円満成就が有るとおりに、そして、それを覚知します。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、七つの覚りの支分において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
覚りの支分の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観の真理の部
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘が、四つの聖なる真理(四聖諦)において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、また、では、どのように、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。
第一の朗読分は〔以上で〕終了となる。
苦しみという真理についての釈示
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみという聖なる真理(苦諦)なのですか。生もまた、苦しみです。老もまた、苦しみです。死もまた、苦しみです。諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤(愁悲苦憂悩)もまた、苦しみです。諸々の愛しくないものとの結合(怨憎会)は、苦しみです。諸々の愛しいものとの別離(愛別離)は、苦しみです。すなわち、また、求めるものを得ないなら(求不得)、それもまた、苦しみです。簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇(五取蘊)は、苦しみです。
比丘たちよ、では、どのようなものが、生なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、生、産出、入胎、発現、諸々の〔心身を構成する〕範疇の出現、諸々の〔認識の〕場所の獲得は、比丘たちよ、これは、生と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、老なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類における、老、老いること、〔歯が〕破断すること、白髪になること、皺が寄ること、寿命の退失、諸々の機能の完熟は、比丘たちよ、これは、老と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、死なのですか。すなわち、それぞれの有情たちの、それぞれの有情の部類からの、死滅、死滅すること、〔身体の〕破壊、消没すること、死魔〔との遭遇〕、死、命終、諸々の〔心身を構成する〕範疇の破壊、死体の捨置、生命の機能の断絶は、比丘たちよ、これは、死と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、憂いなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、憂い、憂うこと、憂いあること、内なる憂い、内なる遍き憂いは、比丘たちよ、これは、憂いと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、嘆きなのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、悲嘆、嘆き、悲嘆すること、嘆くこと、悲嘆あること、嘆きあることは、比丘たちよ、これは、嘆きと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦痛なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、身体の属性としての苦痛、身体の属性としての不快、身体の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、苦痛と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、失意なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、心の属性としての苦痛、心の属性としての不快、意の接触から生じる苦痛や不快として感受されたものは、比丘たちよ、これは、失意と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、葛藤なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、何らかの或る災厄を具備した者の、何らかの或る苦痛の法(性質)に襲われた者の、苦労、葛藤、苦労すること、葛藤することは、比丘たちよ、これは、葛藤と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、諸々の好ましくなく愛らしくなく意に適わない、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触や法(意の対象)として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する者たちとして有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合、遭遇、配備、混合の状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの結合の苦しみと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみなのですか。ここに、彼にとって、それらのものが、好ましく愛らしく意に適う、諸々の形態や音声や臭気や味感や感触として有るなら、また、あるいは、すなわち、彼にとって、それらの者たちが、〔彼の〕義(利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちとして——あるいは、母が、あるいは、父が、あるいは、兄弟が、あるいは、姉妹が、あるいは、朋友たちが、あるいは、僚友たちが、あるいは、親族や血縁たちが——有るなら、すなわち、それらのものを相手とする、会合なきこと、遭遇なきこと、配備なきこと、混合なき状態は、比丘たちよ、これは、諸々の愛しくないものとの別離の苦しみと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみなのですか。比丘たちよ、生の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、生の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、生が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、老の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、老の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、老が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、病の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、病の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、病が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、死の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、死の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、死が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。比丘たちよ、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある有情たちに、このように、求めが生起します。『ああ、まさに、わたしたちは、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の法(性質)ある者たちとして〔世に〕存するべきにあらず。そして、まさに、わたしたちに、諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤が帰り来るべきにあらず』と。また、まさに、このことは、求めによって至り得るべきものではありません。これもまた、すなわち、また、求めるものを得ないなら、それもまた、苦しみです。
比丘たちよ、では、どのようなものが、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみなのですか。それは、すなわち、この、形態という〔心身を構成する〕執取の範疇(色取蘊)であり、感受〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(受取蘊)であり、表象〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(想取蘊)であり、諸々の形成〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(行取蘊)であり、識知〔作用〕という〔心身を構成する〕執取の範疇(識取蘊)です。比丘たちよ、これらのものは、簡略〔の観点〕によって〔説くなら〕、五つの〔心身を構成する〕執取の範疇の苦しみと説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみという聖なる真理と説かれます。
集起という真理についての釈示
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの集起という聖なる真理(集諦)なのですか。すなわち、この、さらなる生存あるものであり、愉悦と貪欲を共具したものであり、そこかしこに愉悦〔の思い〕ある、渇愛です。それは、すなわち、この、欲望の渇愛(欲愛)であり、生存の渇愛(有愛)であり、非生存の渇愛(非有愛)です。
比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、生起しつつ生起し、どこにおいて、固着しつつ固着するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の識知〔作用〕(識)は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の接触(触)は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
眼の接触から生じる感受(受)は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の表象(想)は、世において……略……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の思欲(思)は、世において……略……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の渇愛(愛)は、世において……略……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の思考(尋)は、世において……略……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。
形態の想念(伺)は、世において……略……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、生起しつつ生起し、ここにおいて、固着しつつ固着します。比丘たちよ、これは、苦しみの集起という聖なる真理と説かれます。
止滅という真理についての釈示
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅という聖なる真理(滅諦)なのですか。すなわち、まさしく、その渇愛の、残りなき離貪と止滅であり、施捨であり、放棄であり、解放であり、〔生存の〕基底なき〔状態〕です。
比丘たちよ、また、まさに、その、この渇愛は、どこにおいて、捨棄されつつ捨棄され、どこにおいて、止滅しつつ止滅するのですか。それが、世において、愛しい形態であり、快なる形態であるなら、この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
では、何が、世において、愛しい形態であり、快なる形態なのですか。眼は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。耳は、世において……略……。鼻は、世において……。舌は、世において……。身は、世において……。意は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
諸々の形態は、世において……。諸々の音声は、世において……。諸々の臭気は、世において……。諸々の味感は、世において……。諸々の感触は、世において……。諸々の法(意の対象)は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の識知〔作用〕は、世において……。耳の識知〔作用〕は、世において……。鼻の識知〔作用〕は、世において……。舌の識知〔作用〕は、世において……。身の識知〔作用〕は、世において……。意の識知〔作用〕は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の接触は、世において……。耳の接触は、世において……。鼻の接触は、世において……。舌の接触は、世において……。身の接触は、世において……。意の接触は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
眼の接触から生じる感受は、世において……。耳の接触から生じる感受は、世において……。鼻の接触から生じる感受は、世において……。舌の接触から生じる感受は、世において……。身の接触から生じる感受は、世において……。意の接触から生じる感受は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の表象は、世において……。音声の表象は、世において……。臭気の表象は、世において……。味感の表象は、世において……。感触の表象は、世において……。法(意の対象)の表象は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の思欲は、世において……。音声の思欲は、世において……。臭気の思欲は、世において……。味感の思欲は、世において……。感触の思欲は、世において……。法(意の対象)の思欲は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の渇愛は、世において……。音声の渇愛は、世において……。臭気の渇愛は、世において……。味感の渇愛は、世において……。感触の渇愛は、世において……。法(意の対象)の渇愛は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の思考は、世において……。音声の思考は、世において……。臭気の思考は、世において……。味感の思考は、世において……。感触の思考は、世において……。法(意の対象)の思考は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。
形態の想念は、世において……。音声の想念は、世において……。臭気の想念は、世において……。味感の想念は、世において……。感触の想念は、世において……。法(意の対象)の想念は、世において、愛しい形態であり、快なる形態です。この渇愛は、ここにおいて、捨棄されつつ捨棄され、ここにおいて、止滅しつつ止滅します。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅という聖なる真理と説かれます。
道という真理についての釈示
比丘たちよ、では、どのようなものが、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理(道諦)なのですか。比丘たちよ、まさしく、この、聖なる八つの支分ある道(八正道・八聖道)です。それは、すなわち、この、正しい見解(正見)であり、正しい思惟(正思惟)であり、正しい言葉(正語)であり、正しい行業(正業)であり、正しい生き方(正命)であり、正しい努力(正精進)であり、正しい気づき(正念)であり、正しい禅定(正定)です。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい見解なのですか。比丘たちよ、すなわち、まさに、苦しみについての知恵であり、苦しみの集起についての知恵であり、苦しみの止滅についての知恵であり、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道についての知恵です。比丘たちよ、これは、正しい見解と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい思惟なのですか。離欲の思惟であり、憎悪なき思惟であり、悩害なき思惟です。比丘たちよ、これは、正しい思惟と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい言葉なのですか。虚偽を説くことから離れている〔生き方〕であり、中傷の言葉から離れている〔生き方〕であり、粗暴な言葉から離れている〔生き方〕であり、雑駁な虚論から離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい言葉と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい行業なのですか。命あるものを殺すことから離れている〔生き方〕であり、与えられていないものを取ることから離れている〔生き方〕であり、諸々の欲望〔の対象〕にたいする誤った行ないから離れている〔生き方〕です。比丘たちよ、これは、正しい行業と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい生き方なのですか。比丘たちよ、ここに、聖なる弟子が、誤った生き方を捨棄して、正しい生き方によって、生計を営みます。比丘たちよ、これは、正しい生き方と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい努力なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、諸々の〔いまだ〕生起していない悪しき善ならざる法(性質)の生起なきために、欲〔の思い〕(意欲)を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した悪しき善ならざる法(性質)の捨棄のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔いまだ〕生起していない善なる法(性質)の生起のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。諸々の〔すでに〕生起した善なる法(性質)の、止住のために、忘却なきために、より一層の状態のために、広大のために、修行の円満成就のために、欲〔の思い〕を生じさせ、努力し、精進に励み、心を励起し、精励します。比丘たちよ、これは、正しい努力と説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい気づきなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。心における心の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます——熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これは、正しい気づきと説かれます。
比丘たちよ、では、どのようなものが、正しい禅定なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みます。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知し、すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みます。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みます。比丘たちよ、これは、正しい禅定と説かれます。比丘たちよ、これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道という聖なる真理と説かれます。
かくのごとく、あるいは、内に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、内と外に、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。あるいは、諸々の法(性質)において、集起の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住み、あるいは、諸々の法(性質)において、集起と衰失の法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。また、あるいは、知あるためのみに、気づきあるためのみに、まさしく、そのかぎりにおいて、『諸々の法(性質)が存在する』と、彼に、気づきが現起するところと成り、そして、依存なき者として〔世に〕住み、さらに、何であれ、世において、〔何も〕執取しません。比丘たちよ、このようにもまた、まさに、比丘は、四つの聖なる真理において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます。
真理の部は〔以上で〕終了となる。
法の随観は〔以上で〕終了となる。
比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七年のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。
比丘たちよ、七年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六年のあいだ修めるなら……略……五年のあいだ……四年のあいだ……三年のあいだ……二年のあいだ……一年のあいだ……。比丘たちよ、一年は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七月のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。比丘たちよ、七月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、六月のあいだ修めるなら……略……五月のあいだ……四月のあいだ……三月のあいだ……二月のあいだ……一月のあいだ……半月のあいだ……。比丘たちよ、半月は、さておくとしましょう。比丘たちよ、まさに、彼が誰であれ、これらの四つの気づきの確立を、このように、七日のあいだ修めるなら、彼には、二つの果のなかのどちらか一つの果が期待できます。まさしく、所見の法(現世)における了知であり、あるいは、〔生存の〕依り所という残りものが存しているなら、不還たることです。
『比丘たちよ、これは、一路の道です——有情たちの清浄のために、諸々の憂いと嘆きの超越のために、諸々の苦痛と失意の滅至のために、正理の到達のために、涅槃の実証のために。すなわち、この、四つの気づきの確立です』と、かくのごとく、〔わたしによって〕説かれた、すなわち、その〔言葉〕ですが、この〔言葉〕は、これを縁として説かれました」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
大いなる気づきの確立の経は終了となり、〔以上が〕第十となる。
根元の教相の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。
その〔章〕のための摂頌となる。
〔そこで、詩偈に言う〕「根元と善き統御と法(教え)の相続者、恐ろしさと穢れなき者と『望むなら』と衣装、謹厳と正しい見解と気づきの確立があり、同等のものなく、善く完結された、優れた章となる」〔と〕。
注釈【4】
English
Việt Ngữ