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翻訳【32】

小なる苦しみの範疇の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、釈迦〔族〕の者たちのなかに住んでおられます。カピラヴァットゥのニグローダ〔樹〕の林園において。そこで、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマが、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一方に坐った、まさに、釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊に、こう言いました。「尊き方よ、長夜にわたり、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しています。『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)である。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と。尊き方よ、そして、わたしは、このように、世尊によって説示された法(教え)を了知しているのですが、『貪欲は、心の、付随する〔心の〕汚れである。憤怒は、心の、付随する〔心の〕汚れである。迷妄は、心の、付随する〔心の〕汚れである』と、そこで、また、しかしながら、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住します。尊き方よ、〔まさに〕その、わたしに、このような〔思いが〕有ります。『いったい、まさに、わたしに、どのような法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのだろう。それによって、わたしに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのだ』」と。

「マハー・ナーマよ、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあるのです。それによって、あなたに、或る時には、諸々の貪欲の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の憤怒の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住し、諸々の迷妄の法(性質)もまた、心を完全に奪い去って止住するのです。マハー・ナーマよ、なぜなら、そして、あなたに、その法(性質)が、内に〔すでに〕捨棄されたものと成っていたなら、あなたは、家に居住しないでしょうし、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益しないでしょう。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、あなたに、まさしく、その法(性質)が、内に〔いまだ〕捨棄されずにあることから、それゆえに、あなたは、家に居住し、諸々の欲望〔の対象〕を遍く受益するのです。

『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、マハー・ナーマよ、かくのごとく、もし、また、聖なる弟子に、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達しないなら、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達しないなら〕、そこで、まさに、彼は、まさしく、それまでのあいだ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成りません。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、聖なる弟子に、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、彼が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達することから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達することから〕、そこで、まさに、彼は、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者と成ります。

マハー・ナーマよ、まさに、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存している、わたしにもまた、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成るも、しかしながら、その〔わたし〕は、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達せず、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達せず〕、そこで、まさに、わたしは、まさしく、それまでのあいだ、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しませんでした。マハー・ナーマよ、しかしながら、すなわち、まさに、わたしに、『諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なきもの、苦痛多きもの、葛藤多きもの、ここにおいて、より一層の危険がある』と、このように、このことが、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られたものと成り、そして、その〔わたし〕が、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕より他の、諸々の善ならざる法(性質)より他の、喜悦と安楽に到達したことから、あるいは、それより他の、より寂静なるものに〔到達したことから〕、そこで、わたしは、諸々の欲望〔の対象〕にたいし誘引なくある者であると明言しました。

マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の悦楽なのですか。マハー・ナーマよ、五つのものがあります。これらの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……略……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。マハー・ナーマよ、まさに、これらの五つの欲望の属性があります。マハー・ナーマよ、それが、まさに、これらの五つの欲望の属性を縁として生起する、安楽であり、悦意であるなら、これは、諸々の欲望の悦楽です。

マハー・ナーマよ、では、何が、諸々の欲望の危険なのですか。マハー・ナーマよ、ここに、良家の子息が、何らかの技能の境位によって——もしくは、指算によって、もしくは、計算によって、もしくは、目算によって、もしくは、耕作によって、もしくは、商売によって、もしくは、牧畜によって、もしくは、弓術によって、もしくは、仕官によって、もしくは、何らかの或る技能によって——生計を営むとして、寒さが待ち受け、暑さが待ち受け、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって責め苛まれながら、飢えと渇きで死につつあります。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されないなら、彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『まさに、わたしの奮起は、無駄である。まさに、わたしの努力は、無果である』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、もし、その良家の子息が、このように奮起し勤労し努力しながら、それらの財物が確保されるなら、彼は、それらの財物の守護を事因とする、苦痛と失意を得知します。『どのようにすると、わたしの諸々の財物を、まさしく、王たちが運び去らず、盗賊たちが運び去らず、火が焼かず、水が運ばず、愛しからざる相続者たちが運び去らないであろうか』と。彼が、このように守護し保護しつつも、それらの財物を、あるいは、王たちが運び去り、あるいは、盗賊たちが運び去り、あるいは、火が焼き、あるいは、水が運び、あるいは、愛しからざる相続者たちが運び去ります。彼は、憂い悲しみ、疲弊し、嘆き悲しみ、胸を打ち泣き叫び、等しき迷妄を惹起します。『それもまた、わたしに有ったが、それもまた、まさに、存在しない』と。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、王たちもまた、王たちと論争し、士族たちもまた、士族たちと論争し、婆羅門たちもまた、婆羅門たちと論争し、家長たちもまた、家長たちと論争し、母もまた、子と論争し、子もまた、母と論争し、父もまた、子と論争し、子もまた、父と論争し、兄弟もまた、兄弟と論争し、姉妹もまた、姉妹と論争し、兄弟もまた、姉妹と論争し、姉妹もまた、兄弟と論争し、道友もまた、道友と論争します。彼らは、そこにおいて、紛争と口論と論争を惹起し、互いに他を、諸々の手によってもまた攻撃し、諸々の石によってもまた攻撃し、諸々の棒によってもまた攻撃し、諸々の刃によってもまた攻撃します。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、両軍のいる戦場に跳入します——諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、剣と盾を掴んで、弓と矢束を装着して、しっかりと塗り固められた諸々の要塞に跳入します——諸々の矢が飛び交うなかでさえも、諸々の槍が飛び交うなかでさえも、諸々の剣が閃くなかでさえも。彼らは、そこにおいて、諸々の矢によってもまた貫き、諸々の槍によってもまた貫き、〔煮込んだ〕牛糞をもまた注ぎ落とし、大群によってもまた押し潰し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、〔家の〕境目をもまた断ち切り(家屋に侵入する)、強奪物をもまた運び去り(略奪し強奪する)、泥棒をもまた為し、〔往来者から強奪するために〕路傍にもまた立ち、他者の妻のもとにもまた赴きます(不倫をする)。〔まさに〕その、この者を、王たちは捕捉して、様々な種類の行罰刑を執行します。諸々の鞭でもまた打ち、諸々の杖でもまた打ち、諸々の棍棒でもまた打ち、手をもまた断ち切り、足をもまた断ち切り、手と足をもまた断ち切り、耳をもまた断ち切り、鼻をもまた断ち切り、耳と鼻をもまた断ち切り、酸粥鍋の刑をもまた為し、貝剥ぎの刑をもまた為し、ラーフの口の刑をもまた為し、火鬘の刑をもまた為し、手灯の刑をもまた為し、駆動の刑をもまた為し、皮衣の刑をもまた為し、羚羊の刑をもまた為し、鉤肉の刑をもまた為し、銭形の刑をもまた為し、灰汁の刑をもまた為し、閂回しの刑をもまた為し、藁台の刑をもまた為し、熱せられた油をもまた注ぎ、犬たちにもまた喰わせ、生きながらもまた串に刺し、剣によってもまた頭を断ち切ります。彼らは、そこにおいて、死にもまた遭遇し、死ぬほどの苦しみにもまた〔遭遇します〕。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。現に見られるものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、さらに、また、他に、〔世の人々は〕欲望を因として、欲望を因縁として、欲望を事因として、まさしく、諸々の欲望を因として、身体による悪しき行ないを行ない、言葉による悪しき行ないを行ない、意による悪しき行ないを行ないます。彼らは、身体による悪しき行ないを行なって、言葉による悪しき行ないを行なって、意による悪しき行ないを行なって、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生します。マハー・ナーマよ、これもまた、諸々の欲望の危険です。未来のものであり、苦しみの範疇であり、欲望を因とするものであり、欲望を因縁とするものであり、欲望を事因とするものであり、まさしく、諸々の欲望を因とするものです。

マハー・ナーマよ、これは、或る時のことです。わたしは、ラージャガハに住んでいます。ギッジャクータ山(霊鷲山)において。また、まさに、その時点にあって、大勢のニガンタ(離繋者・ジャイナ教徒)たちが、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩において、坐を拒絶する常立行者たちとして〔世に〕有り、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受します。マハー・ナーマよ、そこで、まさに、わたしは、夕刻時に、静坐から出起し、イシギリ〔山〕の山麓の黒岩のあるところに、それらのニガンタたちのいるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、いったい、どうして、あなたたちは、坐を拒絶する常立行者たちとなり、諸々の突発性の強烈で粗野で辛辣な苦痛の感受を感受するのですか』と。マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、それらのニガンタたちは、わたしに、こう言いました。『友よ、ニガンタ・ナータプッタ(六師外道の一者・ジャイナ教の開祖)は、一切を知る者として、一切を見る者として、完全に残りなく、〔あるがままの〕知見を明言します。「わたしが、そして、歩いていると、そして、立っていると、そして、眠っていると、そして、起きていると、常に連続して、〔あるがままの〕知見が確立されている」と。彼は、このように言います。「ニガンタたちよ、まさに、あなたたちには、過去において作り為された悪しき行為(悪業)が存在する。それを、この辛辣なる難行によって衰尽せしめよ。また、すなわち、ここにおいて、今現在、身体によって統御されたことから、言葉によって統御されたことから、意によって統御されたことから、それは、未来に悪しき行為を作り為さないこととなる。かくのごとく、諸々の古い行為の苦行による終息の状態あることから、諸々の新しい行為を作り為さないことから、未来に無顕現があり、未来に無顕現あることから、行為の滅尽があり、行為の滅尽あることから、苦しみの滅尽があり、苦しみの滅尽あることから、感受の滅尽があり、感受の滅尽あることから、一切の苦痛の衰尽が有るであろう」と。また、そして、それは、わたしたちにとって、まさしく、そして、好ましくあり、さらに、受認するところです。さらに、それによって、〔わたしたちは〕わが意を得た者たちとして存しています』と。

マハー・ナーマよ、このように説かれたとき、わたしは、それらのニガンタたちに、こう言いました。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。『友よ、ニガンタたちよ、また、どうでしょう、あなたたちは知っていますか。まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

『友よ、ニガンタたちよ、かくのごとく、まさに、あなたたちは、「わたしたちは、過去において、まさしく、〔世に〕有った、〔世に〕有ることなくあった」と知らず、「わたしたちは、過去において、悪しき行為を、まさしく、作り為した、作り為さなかった」と知らず、「あるいは、このような形態のものとして、あるいは、このような形態のものとして、悪しき行為を、〔わたしたちは〕作り為した」と知らず、「あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたのだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽させられるべきだ、あるいは、これだけの苦しみが衰尽されたとき、一切の苦しみが、衰尽されたものと成るのだ」と知らず、まさしく、所見の法(現世)において、諸々の善ならざる法(性質)の捨棄を、諸々の善なる法(性質)の成就を、知りません。友よ、ニガンタたちよ、このように存しているとき、すなわち、世において、残忍で、血の手をもち、残酷な生業ある者たちが、人間たちのなかに生まれ落ちたとして、それらの者たちが、ニガンタたちのもとで出家するのでは』と。『友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です』と。

『たしかに、尊者たちによって、ニガンタたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、まさしく、わたしは、そこにおいて〔このように〕問い返されるべき者としてあります。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか——あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。『友よ、ゴータマよ、たしかに、わたしたちによって、無理やり審慮なき言葉が語られました。「友よ、ゴータマよ、まさに、安楽は、安楽によって到達されるべきにあらず。まさに、安楽は、苦痛によって到達されるべきです。友よ、ゴータマよ、もし、安楽が、安楽によって到達されるべきものとして有るなら、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、安楽に到達するべきです。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、尊者ゴータマよりも、より安楽の住ある者です」と。しかしながら、また、このことは、さておくとしましょう。今やまた、わたしたちは、尊者ゴータマに尋ねます。「いったい、まさに、誰が、尊者たちにとって、より安楽の住ある者となるのですか——あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、尊者ゴータマですか」』と。

『友よ、ニガンタたちよ、まさに、それでは、まさしく、あなたたちに、そこにおいて問い返します。すなわち、あなたたちのよろしいように、そのとおりに、それを説き明かしてください。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

『友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王は、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、六つの夜と昼のあいだ……略……五つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……二つの夜と昼のあいだ……一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができますか』と。『友よ、まさに、このことは、さにあらず』〔と〕。

『友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、一つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、わたしは、まさに、身体を動かすことなく、言葉を語ることなく、二つの夜と昼のあいだ……三つの夜と昼のあいだ……四つの夜と昼のあいだ……五つの夜と昼のあいだ……六つの夜と昼のあいだ……七つの夜と昼のあいだ、一方的な安楽の得知者として〔世に〕住むことができます。友よ、ニガンタたちよ、それを、どう思いますか。このように存しているとき、誰が、より安楽の住ある者ですか。あるいは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王ですか、あるいは、わたしですか』と。『このように存しているとき、まさしく、尊者ゴータマは、マガダ〔国〕のセーニヤ・ビンビサーラ王よりも、より安楽の住ある者です』」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得た釈迦〔族〕のマハー・ナーマは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

小なる苦しみの範疇の経は終了となり、〔以上が〕第四となる。

注釈【4】