このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティーに住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。
「比丘たちよ、正覚より、まさしく、過去において、〔いまだ〕現正覚していない、まさしく、菩薩として存しているわたしに、この〔思い〕が有りました。『それなら、さあ、わたしは、二種に為しては二種に為して、思考のうちに住むのだ』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、これが、そして、すなわち、欲望の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪の思考であるなら、さらに、すなわち、悩害の思考であるなら、これを、一つの部分と為し、これが、そして、すなわち、この離欲の思考であるなら、かつまた、すなわち、憎悪なき思考であるなら、さらに、すなわち、悩害なき思考であるなら、これを、第二の部分と為しました。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、欲望の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この欲望の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔欲望の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した欲望の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪の思考が生起します。……略……悩害の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、自己にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、他者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、両者にたいする加害〔の思い〕のためにもまた等しく転起し、智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起する』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、『智慧を止滅させるものであり、悩苦の徒党であり、涅槃ならざるものを等しく転起させるものである』ともまた、わたしが深慮していると、〔悩害の思考は〕滅至します。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、生起しては生起した悩害の思考を、まさしく、捨棄しながら、まさしく、除去しながら、まさしく、その終息を為しました。
比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、欲望の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、離欲の思考を捨棄したなら、欲望の思考を多く為したなら、彼の、その心は、欲望の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪の思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害なき思考を捨棄したなら、悩害の思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害の思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕雨期〔の月〕の最後の月となり、秋の時分の農繁期に、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼は、それらの牛たちを、そこかしこにおいて、棒によって打ち、逆に打ち、押さえ付け、防ぎ守ります。それは、何を因とするのですか。比丘たちよ、なぜなら、その牛飼いは、それ(牛の放置)を因縁として、あるいは、殴打を、あるいは、結縛を、あるいは、収奪を、あるいは、難詰を、見るからです。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、わたしは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ました。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、離欲の思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この離欲の思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。
比丘たちよ、〔まさに〕その、わたしが、このように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると、憎悪なき思考が生起します。……略……悩害なき思考が生起します。その〔わたし〕は、このように覚知します。『まさに、わたしに、この悩害なき思考が生起するところとなった。そして、それは、まさに、まさしく、自己にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、他者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、両者にたいする加害〔の思い〕のために等しく転起せず、智慧を増大させるものであり、悩苦ならざるものの徒党であり、涅槃を等しく転起させるものである』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう』〔と〕。比丘たちよ、『もし、また、夜と昼に、それを、刻々に思考し、刻々に想念するなら、それを因縁として、まさしく、〔わたしは〕恐怖を等しく随観しないであろう。しかしながら、また、まさに、わたしが、長々と、刻々に思考し、刻々に想念していると、身体は疲弊するであろう。身体が疲弊しているとき、心は乱されるであろう。心が乱されたとき、心は、禅定から遠く離れている』と。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、内に、心を、確立させ、静止させ、専一に作り為し、定めます。それは、何を因とするのですか。『わたしの心が乱されてはいけない』と〔思うからです〕。
比丘たちよ、比丘が、多く、刻々に思考し、刻々に想念する、まさしく、そのたびごとに、そのとおり、そのとおりに、心の誘導が有ります。比丘たちよ、もし、比丘が、離欲の思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、欲望の思考を捨棄したなら、離欲の思考を多く為したなら、彼の、その心は、離欲の思考に傾きます。比丘たちよ、もし、比丘が、憎悪なき思考を……略……。比丘たちよ、もし、比丘が、悩害なき思考を、多く、刻々に思考し、刻々に想念し、悩害の思考を捨棄したなら、悩害なき思考を多く為したなら、彼の、その心は、悩害なき思考に傾きます。比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕夏〔の月〕の最後の月となり、全ての作物が村の外れに運び込まれたとき、牛飼いが、牛たちを守っているようなものです。彼には、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、野外に赴き、まさしく、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの牛たちがいる』と。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、気づきによって為すべきことが有ります。『これらの法(性質)がある』と。
比丘たちよ、また、まさに、わたしの、精進は勉励され、退去なきものと成りました。気づきは現起され、忘却なきものと〔成りました〕。身体は静息し、懊悩を有さないものと〔成りました〕。心は定められ、一境のものと〔成りました〕。比丘たちよ、それで、まさに、わたしは、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し(有尋)、〔微細なる〕想念を有し(有伺)、遠離から生じる喜悦と安楽(喜楽)がある、第一の瞑想(初禅・第一禅)を成就して〔世に〕住みました。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく(無尋)、想念なく(無伺)、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想(第二禅)を成就して〔世に〕住みました。さらに、喜悦の離貪あることから、そして、放捨の者として〔世に〕住み、かつまた、気づきと正知の者として〔世に住み〕、そして、身体による安楽を得知します。すなわち、その者のことを、聖者たちが、『放捨の者であり、気づきある者であり、安楽の住ある者である』と告げ知らせるところの、第三の瞑想(第三禅)を成就して〔世に〕住みました。かつまた、安楽の捨棄あることから、かつまた、苦痛の捨棄あることから、まさしく、過去において、悦意と失意の滅至あることから、苦でもなく楽でもない、放捨(捨)による気づきの完全なる清浄たる、第四の瞑想(第四禅)を成就して〔世に〕住みました。
その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)が離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の初更(宵の内)において、この第一の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。……略……。『まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し……略……かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見ます。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇(善趣)の者たちとして、悪しき境遇(悪趣)の者たちとして——〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の中更(真夜中)において、この第二の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
その〔わたし〕は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせました。その〔わたし〕は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。『これらは、諸々の煩悩である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の集起である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅である』と、事実のとおりに証知し、『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに証知しました。〔まさに〕その、わたしが、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱しました。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有りました。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と証知しました。比丘たちよ、まさに、わたしには、夜の後更(明け方)において、この第三の明知が到達するところとなりました。無明が打破され、明知が生起するところとなりました。闇が打破され、光明が生起するところとなりました。すなわち、そのように、〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として〔世に〕住んでいると。
比丘たちよ、それは、たとえば、また、林地の森のなかに大いなる低き湖沼があり、〔まさに〕その、この〔湖沼〕に、大いなる鹿の群れが近しく依拠して住んでいるとします。その〔大いなる鹿の群れ〕の、義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を閉ざし、悪しき道を開き、〔囮の〕雄獣を設置し、〔囮の〕雌獣を据え置きます。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、不幸と災厄を惹起するでしょう。比丘たちよ、また、まさに、まさしく、その大いなる鹿の群れの、義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する、誰かしら或る人が現われるとします。すなわち、その道が、その〔大いなる鹿の群れ〕にとって、平安で、安穏で、喜悦に至るべきものであるなら、その道を開き、悪しき道を閉ざし、〔囮の〕雄獣を取り去り、〔囮の〕雌獣を放逐します。比丘たちよ、まさに、このように、その大いなる鹿の群れは、他時にあって、増大を〔惹起し〕、成長を〔惹起し〕、広大を惹起するでしょう。
比丘たちよ、まさに、わたしのこの喩えは、義(意味)を識知させるために為されました。まさしく、そして、これが、ここにおいて、義(意味)となります。比丘たちよ、『大いなる低き湖沼』とは、まさに、これは、諸々の欲望〔の対象〕の同義語です。比丘たちよ、『大いなる鹿の群れ』とは、まさに、これは、有情たちの同義語です。比丘たちよ、『義(利益)なきを欲し、利益なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する人』とは、まさに、これは、悪魔パーピマントの同義語です。比丘たちよ、『悪しき道』とは、まさに、これは、八つの支分ある誤った道の同義語です。それは、すなわち、この、誤った見解であり、誤った思惟であり、誤った言葉であり、誤った行業であり、誤った生き方であり、誤った努力であり、誤った気づきであり、誤った禅定です。比丘たちよ、『〔囮の〕雄獣』とは、まさに、これは、愉悦と貪欲の同義語です。比丘たちよ、『〔囮の〕雌獣』とは、まさに、これは、無明の同義語です。比丘たちよ、『義(利益)を欲し、利益を欲し、束縛からの平安を欲する人』とは、まさに、これは、阿羅漢にして正等覚者たる如来の同義語です。比丘たちよ、『平安で、安穏で、喜悦に至るべき道』とは、まさに、これは、聖なる八つの支分ある道の同義語です。それは、すなわち、この、正しい見解であり、正しい思惟であり、正しい言葉であり、正しい行業であり、正しい生き方であり、正しい努力であり、正しい気づきであり、正しい禅定です。
比丘たちよ、かくのごとく、まさに、わたしによって、平安で、安穏で、喜悦に至るべき道は開かれ、悪しき道は閉ざされ、〔囮の〕雄獣は取り去られ、〔囮の〕雌獣は放逐されました。比丘たちよ、それが、教師によって、弟子たちのために——〔彼らの〕利益を求める者によって、慈しみ〔の思い〕ある者によって、慈しみ〔の思い〕を抱いて——為されるべきであるなら、それが、わたしによって、あなたたちのために為されたのです。比丘たちよ、これらの木の根元があります。これらの空家があります。比丘たちよ、瞑想しなさい。〔気づきを〕怠ってはいけません。のちに後悔ある者たちと成ってはいけません。これは、あなたたちへの、わたしたちの教示です」と。
世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。
二種の思考の経は終了となり、〔以上が〕第九となる。
注釈【5】
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