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翻訳【44】

一切の煩悩の経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)に住んでおられます。ジェータ林のアナータピンディカ〔長者〕の林園(祇園精舎)において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。「比丘たちよ」と。「幸甚なる方よ」と、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「比丘たちよ、一切の煩悩の統御(律儀)の教相を、あなたたちに説示しましょう。それを聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、それらの比丘たちは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。

「比丘たちよ、わたしは、〔あるがままに〕知っている者に、〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説きます——〔あるがままに〕知っていない者にではなく、〔あるがままに〕見ていない者にではなく。比丘たちよ、では、何を〔あるがままに〕知っている者に、かつまた、何を〔あるがままに〕見ている者に、諸々の煩悩の滅尽を説くのですか。そして、根源のままに意を為すこと(如理作意)であり、さらに、根源のままならずに意を為すこと(非如理作意)です。比丘たちよ、根源のままならずに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。比丘たちよ、しかしながら、まさに、根源のままに意を為していると、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩は生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩は捨棄されます。

比丘たちよ、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在し、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩が存在します。

見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、無聞の凡夫が、聖者たちと会見しない者であり、聖者たちの法(教え)を熟知しない者であり、聖者たちの法(教え)において教導されず、正なる人士たちと会見しない者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知しない者であり、正なる人士たちの法(教え)において教導されず、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せず、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しません。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知せずにいながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知せずにいながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為し、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為すことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為さないことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起し、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が増大します。

彼は、このように、根源のままならずに意を為します。『過去の時(過去世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有ったのか』『過去の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有ったのか』『未来の時(未来世)に、いったい、まさに、わたしは、〔世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、〔わたしは、世に〕有ることなくあるのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕有るのだろうか』『未来の時に、いったい、まさに、わたしは、どのようなものと成って〔そののち〕、どのようなものとして、〔世に〕有るのだろうか』と。あるいは、今現在、現在の時に、内に懐疑ある者として〔世に〕有ります。『いったい、まさに、わたしは、〔世に〕存しているのか』『いったい、まさに、〔わたしは、世に〕存していないのか』『いったい、まさに、どのようなものとして、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、どのように、〔わたしは、世に〕存しているのか』『いったい、まさに、この有情は、どこからやってきたのか』『彼は、どこに赴く者と成るのだろうか』と。

彼が、このように、根源のままならずに意を為していると、六つの見解のなかのどれか一つの見解が生起します。あるいは、『わたしの自己は存在する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します(真理であると誤認する)。あるいは、『わたしの自己は存在しない』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己によって、自己ならざるものを表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。あるいは、『まさしく、自己ならざるものによって、自己を表象する』と、彼に、真理〔の観点〕から、真実〔の観点〕から、見解が生起します。そこで、また、あるいは、彼に、このような見解が有ります。『すなわち、わたしのこの自己は、説くものであり、感受されるべきものであり、その場、その場に、諸々の善悪の行為()の報い(異熟)を得知する。また、まさに、その、わたしのこの自己は、常住であり、常恒であり、常久であり、変化なき法(性質)であり、常久に等しく、まさしく、そのとおりに止住するであろう』と。比丘たちよ、これは、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛と説かれます。比丘たちよ、見解の束縛に束縛された無聞の凡夫は、生から、老から、死から、諸々の憂いから、諸々の嘆きから、諸々の苦痛から、諸々の失意から、諸々の葛藤から、完全に解き放たれません。『〔彼は〕苦しみから完全に解き放たれない』と、〔わたしは〕説きます。

比丘たちよ、しかしながら、まさに、有聞の聖なる弟子は、聖者たちと会見する者であり、聖者たちの法(教え)を熟知する者であり、聖者たちの法(教え)において善く教導され、正なる人士たちと会見する者であり、正なる人士たちの法(教え)を熟知する者であり、正なる人士たちの法(教え)において善く教導され、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知し、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知します。彼は、諸々の意を為すべき法(性質)を覚知しながら、諸々の意を為すべきではない法(性質)を覚知しながら、それらが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為さず、それらが、諸々の意を為すべき法(性質)であるなら、それらの法(性質)に意を為します。

比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為さないのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が増大し、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起し、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が増大するなら、これらは、諸々の意を為すべきではない法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為しません。

比丘たちよ、では、どのようなものが、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為すのですか。比丘たちよ、彼が、諸々の法(性質)に意を為していると、あるいは、〔いまだ〕生起していない欲望の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した欲望の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない生存の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した生存の煩悩が捨棄され、あるいは、〔いまだ〕生起していない無明の煩悩が生起せず、あるいは、〔すでに〕生起した無明の煩悩が捨棄されるなら、これらは、諸々の意を為すべき法(性質)であり、それらの法(性質)に意を為します。

彼に、諸々の意を為すべきではない法(性質)に意を為さないことから、諸々の意を為すべき法(性質)に意を為すことから、まさしく、そして、諸々の〔いまだ〕生起していない煩悩が生起せず、さらに、諸々の〔すでに〕生起した煩悩が捨棄されます。

彼は、『これは、苦しみである』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの集起である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅である』と、根源のままに意を為し、『これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕道である』と、根源のままに意を為します。彼が、このように、根源のままに意を為していると、三つの束縛するもの(三結)が捨棄されます——身体を有するという見解(有身見:実体として自己が存在するという見解)が、疑惑〔の思い〕(:仏法僧にたいする疑惑)が、戒や掟への偏執(戒禁取:無意味な戒や掟への執着)が。比丘たちよ、これらは、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、眼の機能(眼根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、眼の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、眼の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。根源のままに審慮して〔そののち〕、耳の機能(耳根)における統御によって……略……鼻の機能(鼻根)における統御によって……略……舌の機能(舌根)における統御によって……略……身の機能(身根)における統御によって……略……意の機能(意根)における統御によって統御された者として〔世に〕住みます。比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、意の機能における統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、意の機能における統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、統御によって統御されていない者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が、統御によって統御された者として〔世に〕住んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、衣料を受用します——寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて——恥〔の思い〕で隠すべきところを覆うことを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

根源のままに審慮して〔そののち〕、〔行乞の〕施食を受用します——まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行(禁欲清浄行)の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。『かくのごとく、そして、〔わたしは〕古い〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう——かつまた、罪過なき〔生〕が、かつまた、平穏の住が』と。

根源のままに審慮して〔そののち〕、臥坐所を受用します——寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて——季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。

根源のままに審慮して〔そののち〕、病のための日用品たる薬の必需品(常備薬)を受用します——生起した諸々の病苦の〔苦痛の〕感受の防御のために、加害なき〔あり方〕を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、〔そのように〕受用していないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が受用していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、寒さや暑さに、飢えや渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、諸々の悪しく言われ悪しく言及された言葉の道に、忍耐ある者として〔世に〕有り、諸々の生起した強烈で粗野で辛辣で不快にして意に適わない命を奪い去る肉体的な苦痛の感受を耐え忍ぶ類の者として〔世に〕有ります。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、耐え忍んでいないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が耐え忍んでいると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、狂暴な象を遍く避け、狂暴な馬を遍く避け、狂暴な牛を遍く避け、狂暴な犬を——蛇を、木株を、棘の地を、暗坑を、深淵を、どぶ池を、水たまりを——遍く避けます。そのような形態の坐所ならざるところに坐っている者を、そのような形態の托鉢所ならざるところを歩んでいる者を、そのような形態の悪しき朋友たちに親しんでいる者を、梵行を共にする識者たちが、諸々の悪しき境位に位置づけるなら、彼は、そして、その坐所ならざるところを、かつまた、その托鉢所ならざるところを、さらに、それらの悪しき朋友たちを、根源のままに審慮して〔そののち〕、遍く避けます。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、遍く避けていないと、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が遍く避けていると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した欲望の思考を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。根源のままに審慮して〔そののち〕、生起した憎悪の思考を……略……生起した悩害の思考を……略……生起した諸々の悪しき善ならざる法(性質)を甘受せず、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らしめます。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、除去しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が除去していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩

比丘たちよ、では、どのようなものが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩なのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、気づきという正覚の支分(念覚支)を修めます。……略……法(真理)の判別という正覚の支分(択法覚支)を修めます。……精進という正覚の支分(精進覚支)を修めます。……喜悦という正覚の支分(喜覚支)を修めます。……静息という正覚の支分(軽安覚支)を修めます。……禅定という正覚の支分(定覚支)を修めます。根源のままに審慮して〔そののち〕、遠離に依拠し、離貪に依拠し、止滅に依拠し、放棄に向かわせるものである、放捨という正覚の支分(捨覚支)を修めます。

比丘たちよ、まさに、すなわち、その者が、修行しないでいると、諸々の煩悩が〔生起し〕、諸々の悩苦と苦悶が生起するでしょうが、このように、彼が修行していると、諸々の煩悩も、諸々の悩苦と苦悶も、それらは有ることなくあります。比丘たちよ、これらは、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩と説かれます。

比丘たちよ、すなわち、まさに、比丘にとって、それらが、見〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、見〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、統御〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、統御〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、受用〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、受用〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、耐え忍ぶ〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、遍く避ける〔観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、遍く避ける〔観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、除去〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、除去〔の観点〕から捨棄されたものと成り、それらが、修行〔の観点〕から捨棄されるべき諸々の煩悩であるなら、それらは、修行〔の観点〕から捨棄されたものと成ることから、比丘たちよ、この者は、『比丘として、一切の煩悩が統御によって統御され、〔世に〕住む。渇愛を断ち、束縛するものを還転させた。〔我想の〕思量()の寂止あることから、正しく苦しみの終極を為した』〔と〕説かれます」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。わが意を得たそれらの比丘たちは、世尊の語ったことを大いに喜んだ、ということです。

一切の煩悩の経は終了となり、〔以上が〕第二となる。

注釈【5】