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翻訳【30】

誤解なきものの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、コーサラ〔国〕において、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラーという名のコーサラ〔国〕の婆羅門の村のあるところに、そこへと至り着きました。まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、「君よ、まさに、釈迦〔族〕の家から出家した、釈迦族の沙門ゴータマが、大いなる比丘の僧団と共に、遊行〔の旅〕を歩みながら、サーラー〔村〕に到着したのだ。また、まさに、彼に、貴君ゴータマに、このように、善き評価の声が上がっている。『かくのごとくもまた、彼は、世尊は、阿羅漢であり、正等覚者であり、明知と行ないの成就者であり、善き至達者であり、世〔の一切〕を知る者であり、無上なる者であり、調御されるべき人の馭者であり、天〔の神々〕と人間たちの教師であり、覚者であり、世尊である』と。彼は、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、この世〔の人々〕に、天〔の神〕や人間を含む人々に、自ら、証知して、実証して、〔法を〕知らせる。彼は、法(教え)を説示する——最初が善きものとして、中間において善きものとして、結末が善きものとして、義(意味)を有するものとして、文(文型)を有するものとして、全一にして円満成就した完全なる清浄の梵行を明示する。また、まさに、善きかな、そのような形態の阿羅漢たちとの会見が有るのは」と耳にしました。そこで、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊のおられるところに、そこへと近づいて行きました。近づいて行って、一部の者たちはまた、世尊を敬拝して、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊を相手に共に挨拶しました。共に挨拶し記憶されるべき話を交わして、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊のおられるところに、そこへと合掌を手向けて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、世尊の現前において、名と姓を告げ聞かせて、一方に坐りました。一部の者たちはまた、沈黙の状態で、一方に坐りました。

一方に坐った、まさに、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちに、世尊は、こう言いました。「家長たちよ、また、あなたたちには、誰であれ、意に適う教師が存在しますか。その〔教師〕にたいする、あなたたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師が〕」と。「尊き方よ、まさに、わたしたちには、誰であれ、意に適う教師は存在しません。その〔教師〕にたいする、わたしたちの信が、〔明確な〕行相あるものとして獲得された、〔そのような教師は〕」と。「家長たちよ、あなたたちが、意に適う教師を得ずにいるなら、この誤解なき法(性質)を受持して転起させるべきです。家長たちよ、なぜなら、誤解なき法(性質)が完結され受持されたなら、それは、あなたたちにとって、長夜にわたり、利益のために〔成り〕、安楽のために成るからです。家長たちよ、では、どのようなものが、誤解なき法(性質)なのですか。

家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』『捧げられたもの〔の果〕は存在しない』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在しない』『この世は存在しない』『他の世は存在しない』『母は存在しない』『父は存在しない』『化生の有情たちは存在しない』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『布施された〔施物の果〕は存在する』『祭祀された〔供物の果〕は存在する』『捧げられたもの〔の果〕は存在する』『諸々の善く為され悪しく為された行為の果たる報いは存在する』『この世は存在する』『他の世は存在する』『母は存在する』『父は存在する』『化生の有情たちは存在する』『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕

「家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在しない』『祭祀された〔供物の果〕は存在しない』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します——誤った見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう(悪業の報いに苦しめられない)。それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、非存論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

家長たちよ、そこで、すなわち、『布施された〔施物の果〕は存在する』……略……『すなわち、そして、この世を、さらに、他の世を、自ら、証知して、実証して、〔他者に〕知らせる、世における正しい至達者にして正しい実践者たる沙門や婆羅門たちは存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、他の世を知る者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している他の世を、『他の世は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します——正しい見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、他の世が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、他の世が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、存在論者である」』と。それで、もし、まさに、他の世が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも(家屋に侵入する)、強奪物を運び去っているも(略奪し強奪する)、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも(不倫をする)、虚偽を話しているも——為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、或る者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているも、布施させているも、祭祀しているも、祭祀させているも、それを因縁とする善(功徳)は存在せず、善の帰還は存在しない。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉(正直)によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら——為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善(功徳)が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕

家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているも、為させているも、断ち切っているも、断ち切らせているも、責めているも、責めさせているも、憂い悲しんでいるも、憂い悲しませているも、疲れているも、疲れさせているも、震えおののいているも、震えおののかせているも、命あるものを殺しているも、与えられていないものを取っているも、〔家の〕境目を断ち切っているも、強奪物を運び去っているも、泥棒を為しているも、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているも、他者の妻のもとに赴いているも、虚偽を話しているも——為している者に、悪は作り為されない。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すも、それを因縁とする悪は存在せず、悪の帰還は存在しない。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているも、殺させているも……略……布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善は存在せず、善の帰還は存在しない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します——誤った見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無作論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

家長たちよ、そこで、すなわち、『為しているなら、為させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、憂い悲しんでいるなら、憂い悲しませているなら、疲れているなら、疲れさせているなら、震えおののいているなら、震えおののかせているなら、命あるものを殺しているなら、与えられていないものを取っているなら、〔家の〕境目を断ち切っているなら、強奪物を運び去っているなら、泥棒を為しているなら、〔往来者から強奪するために〕路傍に立っているなら、他者の妻のもとに赴いているなら、虚偽を話しているなら——為している者に、悪は作り為される。もし、また、剃刀を末端とする輪で、その者が、この地の命あるものたちを、一つの肉の団塊と〔為し〕、一つの肉の集塊と為すなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の南岸に赴き、殺しているなら、殺させているなら、断ち切っているなら、断ち切らせているなら、責めているなら、責めさせているなら、それを因縁とする悪が存在し、悪の帰還が存在する。もし、また、ガンガー〔川〕の北岸に赴き、布施しているなら、布施させているなら、祭祀しているなら、祭祀させているなら、それを因縁とする善が存在し、善の帰還が存在する。布施によっても、調御によっても、自制によっても、真理の言葉によっても、善が存在し、善の帰還が存在する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、作用論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している作用を、『作用は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します——正しい見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、作用が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、作用が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、作用論者である」』と。それで、もし、まさに、作用が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕

家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在せず、縁は存在しない。因なく縁なき者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在せず、精進は存在せず、人の強靭は存在せず、人の勤勉は存在しない。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知する』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見ないからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の誤った見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と思惟するなら、それは、彼の誤った思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、言葉を語るなら、それは、彼の誤った言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為します。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在しない』と、他者を説得するなら、それは、彼の正ならざる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、自己を賞揚し、他者を蔑視します。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の善き戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、悪しき戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、誤った見解があり、誤った思惟があり、誤った言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとなることがあり、正ならざる法(教え)の説得があり、自己を賞揚することがあり、他者を蔑視することがあります。このように、彼には、これらの無数なる悪しき善ならざる法(性質)が発生します——誤った見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在しないなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、安穏なる自己を作り為すであろう。それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となる。「人士たる人として、劣戒の者であり、誤った見解ある者であり、無因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、〔悪しき〕賽の目の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに難詰されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が悪しく完結され受持され、一定して充満して止住し、善なる境位を遠ざけます。

家長たちよ、そこで、すなわち、『有情たちの汚染のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは汚染される。有情たちの清浄のための、因は存在し、縁は存在する。因を有し縁を有する者たちとして、有情たちは清浄となる。活力は存在し、精進は存在し、人の強靭は存在し、人の勤勉は存在する。一切の有情たちは、一切の命あるものたちは、一切の生類たちは、一切の生あるものたちは、自在なく、活力なく、精進なく、運命と偶然と〔生来の〕状態によって変化し、まさしく、六つの出生において、楽と苦を得知するのではない』と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちですが、彼らには、このことが待っています。すなわち、この、身体による悪しき行ないがあり、言葉による悪しき行ないがあり、意による悪しき行ないがあるなら、これらの三つの善ならざる法(性質)を回避して、すなわち、この、身体による善き行ないがあり、言葉による善き行ないがあり、意による善き行ないがあるなら、これらの三つの善なる法(性質)を受持して転起させるでしょう。それは、何を因とするのですか。なぜなら、それらの尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の善ならざる法(性質)の危険と卑賎と汚染を、諸々の善なる法(性質)の離欲と福利と浄化の側面を、見るからです。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、彼の見解が有るなら、それは、彼の正しい見解と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と思惟するなら、それは、彼の正しい思惟と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、言葉を語るなら、それは、彼の正しい言葉と成ります。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と言うなら、すなわち、それらの阿羅漢たちが、因論者たちであるなら、彼らにとって正反対のものを、この者は為しません。また、まさに、まさしく、存している因を、『因は存在する』と、他者を説得するなら、それは、彼の正なる法(教え)の説得と成ります。また、そして、その正ならざる法(教え)の説得によって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しません。また、まさに、かくのごとく、まさしく、過去における、彼の悪しき戒ある〔生き方〕は捨棄されたものと成り、善き戒ある〔生き方〕が現起するところと〔成ります〕。そして、この、正しい見解があり、正しい思惟があり、正しい言葉があり、聖者たちにとって正反対のものとならないことがあり、正なる法(教え)の説得があり、自己を賞揚しないことがあり、他者を蔑視しないことがあります。このように、彼には、これらの無数なる善なる法(性質)が発生します——正しい見解という縁あることから。

家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『それで、もし、まさに、因が存在するなら、このように、この尊き人士たる人は、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するであろう。また、まさに、たとえ、因が有りようもなく、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理と成るにせよ、そこで、また、そして、この尊き人士たる人は、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となる。「人士たる人として、戒ある者であり、正しい見解ある者であり、因論者である」』と。それで、もし、まさに、因が、まさしく、存在するなら、このように、この尊き人士たる人には、両所において、幸運の掴み取りがあります。そして、すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、識者たちに賞賛されるべき者となり、さらに、すなわち、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生するでしょう。このように、彼には、この誤解なき法(性質)が善く完結され受持され、両方ともに充満して止住し、善ならざる境位を遠ざけます。

家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、形態なきもの(無色)は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、形態なきものは存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一定して持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、形態なきものは存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態があり、意によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、形態なきものは存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕たちがいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、まさに、形態を事因として、諸々の棒を取ることや刃を取ることや紛争や口論や論争や争議や中傷や虚偽を説くことが見られる。また、まさに、このことは、全てにわたり、形態なきものにおいては存在しない』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の形態の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

家長たちよ、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、或る沙門や婆羅門たちが存在します。『全てにわたり、生存()の止滅は存在しない』と。家長たちよ、まさしく、まさに、それらの沙門や婆羅門たちとは、真に正反対の論ある、或る沙門や婆羅門たちが〔存在します〕。彼らは、このように言います。『全てにわたり、生存の止滅は存在する』と。家長たちよ、それを、どう思いますか。まさに、これらの沙門や婆羅門たちは、互いに他と、真に正反対の論ある者たちではないですか」と。「尊き方よ、そのとおりです」〔と〕。家長たちよ、そこで、識者たる人は、かくのごとく深慮します。『すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見られたことがない。すなわち、また、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、このことは、わたしによって見出されたことがない。また、まさに、まさしく、そして、わたしが、知らずにいながら、見ずにいながら、「これこそが、真理であり、他は、無駄な〔思考〕である」と、一定して持して語用するなら、このことは、わたしにとって、適切なることとして存在せず。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、形態がなく、表象〔作用〕によって作られる、それらの天〔の神々〕がいるが、誤解〔の余地〕なく、わたしに、そこへの再生が有るであろう。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、それで、もし、それらの尊き沙門や婆羅門たちの言葉が真理であるなら、この状況が見出される。すなわち、まさしく、所見の法(現世)において、〔わたしが〕完全なる涅槃に到達するであろうことが。すなわち、まさに、「全てにわたり、生存の止滅は存在しない」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染の現前にあり、束縛の現前にあり、愉悦の現前にあり、固執の現前にあり、執取の現前にある。また、すなわち、「全てにわたり、生存の止滅は存在する」と、このような論ある者たちであり、このような見解ある者たちである、それらの沙門や婆羅門たちがいるが、彼らのこの見解は、貪染なきものの現前にあり、束縛なきものの現前にあり、愉悦なきものの現前にあり、固執なきものの現前にあり、執取なきものの現前にある』と。彼は、かくのごとく深慮して、まさしく、諸々の生存の、厭離のために、厭離のために、離貪のために、止滅のために、実践する者と成ります。

家長たちよ、四つのものがあります。これらの人たちが、世において等しく見出されつつ存しています。どのようなものが、四つのものなのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、そして、自己を苦しめる者として、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、さらに、他者を苦しめる者として、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者として、〔世に〕有ります。家長たちよ、ここに、一部の人は、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、〔世に〕有ります。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。

家長たちよ、では、どのような人が、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、無衣の者と成り、放埒の習行ある者と〔成り〕〔食後に〕手を舐める者と〔成り〕……略……。かくのごとく、このような形態の無数〔の流儀〕に関した身体の種々なる難行苦行への専念〔努力〕に専念する者として〔世に〕住みます。家長たちよ、この人は、『自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

家長たちよ、では、どのような人が、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、屠羊者として、屠豚者として……略……〔世に〕有ります——また、あるいは、彼らが誰であれ、他のまた、残酷な生業ある者たちとして。家長たちよ、この人は、『他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

家長たちよ、では、どのような人が、そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者なのですか。家長たちよ、ここに、一部の人は、あるいは、即位灌頂した王たる士族として〔世に〕有り……略……彼らもまた、棒に怯え、恐怖に怯え、涙顔で泣き叫びながら、諸々の事前作業を為します。家長たちよ、この人は、『そして、自己を苦しめる者であり、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者であり、さらに、他者を苦しめる者であり、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者である』〔と〕説かれます。

家長たちよ、では、どのような人が、まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではないのですか。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます。家長たちよ、ここに、如来が、阿羅漢として、正等覚者として……略……。彼は、これらの、心に付随する〔心の〕汚れにして、智慧を力弱きものと為す、五つの〔修行の〕妨害を捨棄して、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕から離れて、諸々の善ならざる法(性質)から離れて、〔粗雑なる〕思考を有し、〔微細なる〕想念を有し、遠離から生じる喜悦と安楽がある、第一の瞑想を成就して〔世に〕住みます。〔粗雑なる〕思考と〔微細なる〕想念の寂止あることから、内なる清信あり、心の専一なる状態あり、思考なく、想念なく、禅定から生じる喜悦と安楽がある、第二の瞑想を成就して〔世に〕住みます。……略……第三の瞑想を……略……第四の瞑想を成就して〔世に〕住みます。

彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、過去における居住(過去世)の随念の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。それは、すなわち、この、一生をもまた、二生をもまた……略……かくのごとく、行相を有し、素性を有する、無数〔の流儀〕に関した過去における居住を随念します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、有情たちの死滅と再生の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、人間を超越した清浄の天眼によって……略……〔為した〕行為のとおり〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知します。彼は、このように、心が、定められたものとなり、完全なる清浄にして完全なる清白のものとなり、穢れなきものとなり、付随する〔心の〕汚れが離れ去ったものとなり、柔和と成ったものとなり、行為に適するものとなり、安立し不動に至り得たものとなるとき、諸々の煩悩の滅尽の知恵〔の獲得〕のために、心を向かわせます。彼は、『これは、苦しみである』と、事実のとおりに覚知し、『これは、苦しみの集起である』と、事実のとおりに覚知し……略……『これは、諸々の煩悩の止滅に至る〔実践の〕道である』と、事実のとおりに覚知します。彼が、このように知っていると、このように見ていると、欲望の煩悩からもまた、心は解脱し、生存の煩悩からもまた、心は解脱し、無明の煩悩からもまた、心は解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。『生は滅尽し、梵行は完成された。為すべきことは為された。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します。家長たちよ、この人は、『まさしく、自己を苦しめる者ではなく、自己を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではなく、他者を苦しめる者ではなく、他者を悩み苦しめることへの専念〔努力〕に専念する者ではない』〔と〕説かれます。彼は、自己を苦しめない者として、他者を苦しめない者として、まさしく、所見の法(現世)において、無欲の者として、涅槃に到達した者として、〔心が〕清涼と成った者として、安楽の得知ある者として、梵と成った自己によって〔世に〕住みます」と。

このように説かれたとき、サーラー〔村〕の婆羅門や家長たちは、世尊に、こう言いました。「貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、すばらしいことです。貴君ゴータマよ、それは、たとえば、また、あるいは、倒れたものを起こすかのように、あるいは、覆われたものを開くかのように、あるいは、迷う者に道を告げ知らせるかのように、あるいは、暗黒のなかで油の灯火を保つかのように、『眼ある者たちは、諸々の形態を見る』と、まさしく、このように、貴君ゴータマによって、無数の教相によって、法(真理)が明示されました。〔まさに〕この、わたしたちは、貴君ゴータマを帰依所に赴きます——そして、法(教え)を、さらに、比丘の僧団を。貴君ゴータマは、わたしたちを、在俗信者として認めてください——今日以後、命ある限り、帰依所に赴いた者たちとして」と。

誤解なきものの経は終了となり、〔以上が〕第十となる。

家長の章は終了となり、〔以上が〕第一となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「そして、カンダラと城市民と〔いまだ〕学びある者の掟、ポータリヤ、さらに、ジーヴァカ・バッチャ、ウパーリの調御、犬とアバヤ、多くの感受されるべきもの、第十のものとして、誤解なきものがある」〔と〕

注釈【4】