そこで、サーリプッタの経についての釈示を説くであろう。
961. (955) かくのごとく、尊者サーリプッタが 〔尋ねた〕⸺これより過去において、わたしには見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがありません⸺このように、麗しき論者にして〔世の〕 教師たる方 (ブッダ)は、兜率 〔天〕 からやってきた 〔世の〕 衆師たる方は。 (1)
「これより過去において、わたしには見たことがなく」とは、これより過去において、わたしにとって、わたしによって、過去において見られたことがない⸺彼は、世尊は、この眼によって、この自己状態(個我的あり方・身体) として。そのとき、世尊は、三十三 〔天〕 の居所において、パーリッチャッタカ 〔樹〕の根元にあるパンドゥカンバラの石床 (帝釈坐) において、雨期を過ごしたあと、天〔の神々〕 の群れに取り囲まれ、 〔黄金製と宝珠製と白銀製の三つの梯子があるなかの〕中央の宝珠製の梯子によって、サンカッサの城市へと降り行ったのだが、この見示は、過去において見られたことがない。ということで、「これより過去において、わたしには見たことがなく」。
「かくのごとく、尊者サーリプッタが 〔尋ねた〕」とは、「かくのごとく」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「かくのごとく」ということになる。「尊者」とは、敬愛の言葉、尊重の言葉、尊重〔の思い〕 を有し敬虔 〔の思い〕を有する言葉。これが、「尊者」ということになる。「サーリプッタ」とは、その長老の、名前としての、名称、呼称、通名、通称、名前、名前の行為(名づけ・呼称)、命名、言語、字音、話法。ということで、「かくのごとく、尊者サーリプッタが 〔尋ねた〕 」。
「あるいは、誰にも聞いたことがありません」とは、「ありません」とは、否定〔の言葉〕。「あるいは」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「あるいは」ということになる。「誰にも」とは、あるいは、士族に、あるいは、婆羅門に、あるいは、庶民に、あるいは、隷民に、あるいは、在家者に、あるいは、出家者に、あるいは、天〔の神〕に、あるいは、人間に。ということで、「あるいは、誰にも聞いたことがありません」。
「このように、麗しき論者にして 〔世の〕 教師たる方 (ブッダ)は」とは、このように、麗しき論者、甘美なる論者、愛すべき論者、心臓に至る (心に響く) 論者、カラヴィーカ 〔鳥〕の鳴き声の美妙なる話し声ある者。また、まさに、彼の、世尊の、口からは、八つの支分を具備した話し声が放たれます。かつまた、明瞭で、かつまた、識知でき、かつまた、美妙で、かつまた、必聴にして、かつまた、円滑で、かつまた、拡散せず、かつまた、深遠で、かつまた、雄大なるものとして。また、まさに、彼が、世尊が、すなわち、衆に、声によって識知させるとおりに、彼の話し声は、衆の外に放たれることがない(衆の外に漏れ出ない)。また、まさに、彼は、世尊は、梵の声ある方であり、カラヴィーカ 〔鳥〕の話し手たる方である。ということで、「このように、麗しき論者にして」。
「 〔世の〕教師たる方は」とは、 〔世の〕 教師 (サッタル) たる世尊は、先導者 (サッタヴァーハ:隊商の長) である。たとえば、隊商の長が、隊商たちを 〔導いて〕 、難所 (砂漠)を超え渡し、盗賊の難所を超え渡し、猛獣の難所を超え渡し、飢餓の難所を超え渡し、無水の難所を、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地(安全地帯) へと得達させるように、まさしく、このように、世尊は、先導者(隊商の長) であり、有情たちを 〔導いて〕、難所を超え渡し、生の難所を超え渡し、老の難所を超え渡し、病の難所を……略……死の難所を……諸々の憂いと嘆きと苦痛と失意と葛藤の難所を超え渡し、貪欲の難所を超え渡し、憤怒の難所を……迷妄の難所を……思量の難所を……見解の難所を……〔心の〕汚れの難所を……悪しき行ないの難所を超え渡し、貪欲の茂みを超え渡し、憤怒の茂みを……迷妄の茂みを……思量の茂みを……見解の茂みを……〔心の〕汚れの茂みを……悪しき行ないの茂みを、超え渡し、超え上げ、超え出させ、超え登らせ、平安の極地へと、不死なる涅槃へと、得達させる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者(隊商の長) である。
さらに、あるいは、世尊は、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、清信させる方である。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。
さらに、あるいは、世尊は、 〔いまだ〕 生起していない道を生起させる方であり、 〔いまだ〕 産出されていない道を産出させる方であり、 〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕 住む、 〔彼の〕弟子たちは、のちに、 〔教えを〕具備した者たちとなる。ということで、このようにもまた、世尊は、先導者である。ということで、「このように、麗しき論者にして〔世の〕 教師たる方は」。
「兜率 〔天〕からやってきた 〔世の〕 衆師たる方は」とは、世尊は、兜率 〔天〕の衆から死滅して、気づきと正知の者として、母の子宮に入った方である。ということで、このようにもまた、「兜率 〔天〕 からやってきた 〔世の〕 衆師たる方は」。
さらに、あるいは、天 〔の神々〕 たちは、兜率 〔天の神々〕たちと説かれる。彼らは、満ち足りている者たちであり、等しく満ち足りている者たちであり、わが意を得た者たちであり、歓喜した者たちであり、喜悦と悦意を生じた者たちであり、〔その〕天の世から、衆師としてやってきた方である。ということで、このようにもまた、「兜率 〔天〕 からやってきた 〔世の〕衆師たる方は」。さらに、あるいは、阿羅漢たちは、兜率 〔天の神々〕たちと説かれる。彼らは、満ち足りている者たちであり、等しく満ち足りている者たちであり、わが意を得た者たちであり、歓喜した者たちであり、喜悦と悦意を生じた者たちであり、〔それらの〕阿羅漢たちの、衆師としてやってきた方である。ということで、このようにもまた、「兜率 〔天〕 からやってきた 〔世の〕 衆師たる方は」。「〔世の〕 衆師たる方は」とは、 〔世の〕衆師たる世尊は、衆の師匠、ということで、「衆師」。衆にとっての教師、ということで、「衆師」。衆を守り抜く、ということで、「衆師」。衆を教諭する、ということで、「衆師」。衆に教示する、ということで、「衆師」。恐れおののきを離れた者として、衆に近づいて行く、ということで、「衆師」。衆が、彼の〔言葉を〕聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させる、ということで、「衆師」。衆を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる、ということで、「衆師」。比丘の衆にとって、衆師であり、比丘尼の衆にとって、衆師であり、在俗信者( 優婆塞 )の衆にとって、衆師であり、女性在俗信者 ( 優婆夷)の衆にとって、衆師であり、王の衆にとって、衆師であり、士族の衆にとって……婆羅門の衆にとって……庶民の衆にとって……隷民の衆にとって……天の衆にとって……梵の衆にとって、衆師である。僧師であり、衆師であり、衆の師匠である。「やってきた」とは、サンカッサの城市へと、近しく赴いた者、到着した者、到来した者。ということで、「兜率〔天〕 からやってきた 〔世の〕衆師たる方は」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
かくのごとく、尊者サーリプッタが 〔尋ねた〕⸺「これより過去において、わたしには見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがありません⸺このように、麗しき論者にして〔世の〕 教師たる方 (ブッダ)は、兜率 〔天〕 からやってきた 〔世の〕 衆師たる方は」と。
962. (956) すなわち、天を含む世 〔の人々〕 に〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方 (ブッダ) は、一切の闇を除き去って、まさしく、独り、 〔真の〕 喜びに到達しました。 (2)
「天を含む世 〔の人々〕に」とは、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世 〔の人々〕 に、天〔の神〕 や人間を含む人々に。ということで、「天を含む世 〔の人々〕 に」。
「 〔はっきりと〕見えるように、眼ある方は」とは、すなわち、世尊が、三十三 〔天〕の居所において、パーリッチャッタカ 〔樹〕 の根元にあるパンドゥカンバラの石床(帝釈坐) において坐り、法 (教え)を説示しているのを、天神たちが見るように、そのように、人間たちが見る。すなわち、人間たちが見るように、そのように、天神たちが見る。すなわち、天〔の神々〕たちに見えるように、そのように、人間たちに見える。すなわち、人間たちに見えるように、そのように、天 〔の神々〕 たちに見える。ということで、このようにもまた、「 〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方は」。また、あるいは、たとえば、或る尊き 〔異教の〕 沙門や婆羅門たちが、 〔いまだ〕調御されていない者たちでありながら、調御された姿で見え、 〔心が〕静まっていない者たちでありながら、 〔心が〕静まった姿で見え、寂静ならざる者たちでありながら、寂静となった姿で見え、寂滅ならざる者たちでありながら、寂滅した姿で見えるように⸺
〔そこで、詩偈に言う〕 「土の耳飾のような、金で覆われた銅の半銭のような、それらしい形態をした者がいる。〔彼らは〕取り巻きたちに覆われ、世を歩む⸺内に清浄ならず、外に美しく輝きながら」と⸺
世尊は、このように見えることがない。世尊は、事実によって、如実によって、真実によって、あるがままによって、転倒ならざるものによって、自らの状態( 自性 ) によって、 〔すでに〕 調御された者であり、調御された姿で見え、 〔心が〕 静まった者であり、 〔心が〕静まった姿で見え、寂静となった者であり、寂静となった姿で見え、寂滅した者であり、寂滅した姿で見える。そして、覚者たる世尊たちは、誓願を成就した者たちであり、振る舞いの道を〔心に〕 想い描かない者たちである。ということで、このようにもまた、「〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方は」。
さらに、あるいは、世尊は、清浄の声 (評判)ある方であり、名誉の声と名声を具した方であり、かつまた、龍の生存域においても、かつまた、金翅鳥の生存域においても、かつまた、夜叉の生存域においても、かつまた、阿修羅の生存域においても、かつまた、音楽神の生存域においても、かつまた、〔天の〕 大王の居所においても、かつまた、インダ 〔神〕 (インドラ神) の居所においても、かつまた、梵〔天〕 (ブラフマー神)の居所においても、かつまた、天 〔の神〕の居所においても、そして、このとおりの方であり、かつまた、そのとおりの方であり、さらに、それよりもより一層の方である。ということで、このようにもまた、「〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方は」。
さらに、あるいは、世尊は、十の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法 (性質)を、具備した方であり、かつまた、威光によって、かつまた、力によって、かつまた、徳によって、かつまた、精進によって、かつまた、智慧によって、見え、知られ、覚知される。
〔そこで、詩偈に言う〕 「正しくある者たちは、遠くにあるも知れわたる⸺ヒマヴァント (ヒマラヤ)の山嶺のように。正しからざる者たちは、この場にあるも見られない⸺あたかも、夜に放たれた諸々の矢のように」 〔と〕 。ということで⸺
このようにもまた、「 〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方は」。
「眼ある方は」とは、世尊は、五つの眼によって、眼ある方である。(1) 肉眼によってもまた、眼ある方である。 (2) 天眼によってもまた、眼ある方である。 (3)智慧の眼によってもまた、眼ある方である。 (4)覚者の眼によってもまた、眼ある方である。 (5)一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。
(1)どのように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊の肉眼にはまた、五つの色が等しく見出される⸺かつまた、青色が、かつまた、黄色が、かつまた、赤色が、かつまた、黒色が、かつまた、白色が。そして、世尊の諸々の眼毛は、そして、そこにおいて、諸々の眼毛が立脚している、その〔眼毛〕は、青く、極めて青く、清らかで、美しく、ウンマーの花に等しきものとして有る。その後方 (毛根)は、黄で、極めて黄で、黄金の色で、清らかで、美しく、カニカーラの花に等しきものとして有る。そして、世尊の両の眼球は、赤く、極めて赤く、清らかで、美しく、黄金虫〔の色艶〕に等しきものとして有る。中央においては、黒く、極めて黒く、粗野ならず、滑らかで、清らかで、美しく、濡れたアリッタカ(黒岩) に等しきものとして有る。その後方は、白く (オーダータ) 、極めて白く (スオーダータ) 、白く(セータ) 、白く (パンダラ)、清らかで、美しく、明けの明星に等しきものとして有る。過去 (前世)の善き行ないの行為によって発現したものとして、自己状態 (個我的あり方・身体)に属するところの、 〔まさに〕 その、 〔生来の〕 性向の肉眼によって、世尊は、まさしく、そして、昼に、さらに、夜に、遍きにわたり、〔一〕ヨージャナを見る。すなわち、また、四つの支分を具備した暗黒が有るときも⸺かつまた、滅至した太陽が有り、かつまた、黒分の斎戒(新月の夜)が有り、かつまた、漆黒の密林が有り、かつまた、立ちのぼった大いなる黒雲が有る、このような形態の四つの支分を具備した暗黒においてでさえも⸺遍きにわたり、〔一〕 ヨージャナを見る。 〔まさに〕その、諸々の形態を見るための妨げとなる、あるいは、壁は、あるいは、戸は、あるいは、垣は、あるいは、山は、あるいは、薮は、あるいは、蔓は、存在しない。もし、一つの胡麻の果を、〔それに〕形相を為して、胡麻の荷のなかに置くなら、まさしく、その胡麻の果を、取り出すであろう。このように、世尊の、 〔生来の〕性向の肉眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、肉眼によってもまた、眼ある方である。
(2)どのように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇( 善趣 ) の者たちとして、悪しき境遇( 悪趣 ) の者たちとして⸺〔為した〕 行為のとおり 〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。「まさに、これらの尊き有情たちは、身体による悪しき行ないを具備し、言葉による悪しき行ないを具備し、意による悪しき行ないを具備し、聖者たちを批判する者たちであり、誤った見解ある者たちであり、誤った見解と行為の受持ある者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、悪所に、悪趣に、堕所に、地獄に、再生したのだ。また、あるいは、これらの尊き有情たちは、身体による善き行ないを具備し、言葉による善き行ないを具備し、意による善き行ないを具備し、聖者たちを批判しない者たちであり、正しい見解ある者たちであり、正しい見解と行為を受持する者たちである。彼らは、身体の破壊ののち、死後において、善き境遇に、天上の世に、再生したのだ」と、かくのごとく、人間を超越した清浄の天眼によって、有情たちが、死滅しつつあるのを、再生しつつあるのを、見る。下劣なる者たちとして、精妙なる者たちとして、善き色艶の者たちとして、醜き色艶の者たちとして、善き境遇の者たちとして、悪しき境遇の者たちとして⸺〔為した〕 行為のとおり 〔報いに〕近しく赴く者たちとして、有情たちを覚知する。そして、世尊は、望んでいるなら、一つの世の界域をもまた見るであろうし、二つの世の界域をもまた見るであろうし、三つの世の界域をもまた見るであろうし、四つの世の界域をもまた見るであろうし、五つの世の界域をもまた見るであろうし、十の世の界域をもまた見るであろうし、二十の世の界域をもまた見るであろうし、三十の世の界域をもまた見るであろうし、四十の世の界域をもまた見るであろうし、五十の世の界域をもまた見るであろうし、百の世の界域をもまた見るであろうし、千の小なる世の界域をもまた見るであろうし、二千の中なる世の界域をもまた見るであろうし、三千の世の界域をもまた見るであろうし、大千の世の界域をもまた見るであろう。あるいは、あるかぎりのものを望むなら、そのかぎりのものを見るであろう。このように、世尊の天眼は、完全なる清浄のものとしてある。このように、世尊は、天眼によってもまた、眼ある方である。
(3)どのように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、偉大なる智慧ある方であり、多々なる智慧ある方であり、敏速なる智慧ある方であり、疾走する智慧ある方であり、鋭敏なる智慧ある方であり、洞察の智慧ある方であり、智慧の細別に巧みな智ある方であり、細別された知恵ある方であり、融通無礙に到達した方であり、四つの離怖に至り得た方であり、十の力を保持する方であり、人の雄牛たる方であり、人の獅子たる方であり、人の龍象たる方であり、人の良馬たる方(善き生まれの者) であり、人の荷牛たる方 (忍耐強き者)であり、終極なき知恵ある方であり、終極なき威光ある方であり、終極なき福徳ある方であり、富ある方であり、大いなる財ある方であり、財ある方であり、導く方であり、教導する方であり、指導する方であり、報知する方であり、納得させる方であり、注視させる方であり、清信させる方である。まさに、彼は、世尊は、〔いまだ〕 生起していない道を生起させる方であり、 〔いまだ〕 産出されていない道を産出させる方であり、 〔いまだ〕告知されていない道を告知する方であり、道を知る方であり、道の知者たる方であり、道の熟知者たる方であり、また、そして、今現在、道に従い行く者たちとして〔世に〕 住む、 〔彼の〕弟子たちは、のちに、 〔教えを〕 具備した者たちとなる。
まさに、彼は、世尊は、 〔あるがままに〕 知っている者として知り、 〔あるがままに〕 見ている者として見る、 〔世の〕眼と成った方であり、 〔世の〕 知恵と成った方であり、法 (真理) と成った方であり、梵と成った方であり、 〔法の〕説者たる方であり、 〔法の〕 伝授者たる方であり、義 (利益) を与え導く方であり、不死を与える方であり、法 (真理) の主であり、如来である。彼にとって、世尊にとって、 〔いまだ〕 知られていないものは 〔存在せず〕 、〔いまだ〕 見られていないものは 〔存在せず〕 、 〔いまだ〕 見出されていないものは〔存在せず〕 、 〔いまだ〕実証されていないものは 〔存在せず〕 、智慧によって 〔いまだ〕 体得されていないものは存在しない。過去と未来と現在を加え含めて、一切の法(事象)が、一切の行相をもって、覚者たる世尊の知恵の門において、視野へと至り来る。それが何であれ、導かれるべきもの (未了義のもの) が、まさに、存在するなら、 〔その〕 法(性質) は、知られるべきものとなる。あるいは、自己の義 (利益) が、あるいは、他者の義 (利益)が、あるいは、両者の義 (利益) が、あるいは、所見の法 ( 現法 :現世) の義 (利益) が、あるいは、未来の義 (利益)が、あるいは、明瞭なる義 (利益) が、あるいは、深遠なる義(利益) が、あるいは、秘密にされた義 (利益) が、あるいは、隠蔽された義 (利益)が、あるいは、導かれるべき義 (利益) が、あるいは、導かれた義(利益) が、あるいは、罪過なきものの義 (利益) が、あるいは、 〔心の〕 汚れなきものの義(利益) が、あるいは、浄化の義 (利益) が、あるいは、最高の義 (勝義 ) としての義 (利益)が、その全てが、覚者の知恵の内において遍く転起する。
覚者たる世尊の知恵は、過去において、打破されざるものとしてあり、未来において、打破されざるものとしてあり、現在において、打破されざるものとしてある。一切の身体の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転し、一切の言葉の行為は……一切の意の行為は、覚者たる世尊の知恵に遍く随転する。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質)となる。たとえば、二つの箱の面が、正しく接触したなら、下の箱の面は、上のものを超克することがなく、上の箱の面は、下のものを超克することがなく、互いに他を極限の境位とするように、まさしく、このように、覚者たる世尊の、かつまた、導かれるべきものも、かつまた、知恵も、互いに他を極限の境位とするものとなる。およそ、導かれるべきものとしてあるかぎり、そのかぎりのものが、知恵となる。およそ、知恵としてあるかぎり、そのかぎりのものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを極限とするものが、知恵となる。知恵を極限とするものが、導かれるべきものとなる。導かれるべきものを超え行って、知恵が転起することはない。知恵を超え行って、導かれるべき道が存在することはない。互いに他を極限の境位とするのが、それらの法(性質) となる。
一切の法 (事象)において、覚者たる世尊の知恵は転起する。一切の法 (事象) は、覚者たる世尊の、〔心を〕傾注することに連結したものとしてあり、望みに連結したものとしてあり、意を為すことに連結したものとしてあり、心の生起に連結したものとしてある。一切の有情たちにおいて、覚者たる世尊の知恵は転起する。世尊は、一切の有情たちの、志欲を知り、悪習を知り、所行を知り、信念を知る。少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者(教えやすい者) たちとして、識知させるに難き者 (教えにくい者)たちとして、可能なる者たちとして、可能ならざる者たちとして、有情たちを覚知する。天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕 が、天 〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。
たとえば、それらが何であれ、魚や亀たちが、もしくは、巨大魚を加え含めて、大海の内において遍く転起するように、まさしく、このように、天を含み、魔を含み、梵を含み、沙門や婆羅門を含む、世〔の人々〕 が、天 〔の神〕や人間を含む人々が、覚者の知恵の内において遍く転起する。たとえば、それらが何であれ、翼あるものたち (鳥類) が、もしくは、ヴェーナテイヤたるガルラ (金翅鳥) を加え含めて、虚空の分際 (天空)において遍く転起するように、まさしく、このように、すなわち、また、彼らが、智慧としてはサーリプッタと同等の者たちであるとして、彼らもまた、覚者の知恵の分際において遍く転起する。覚者の知恵は、天〔の神々〕 と人間たちの智慧を、充満して 〔止住し〕、凌駕して止住する。すなわち、また、それらの、士族の賢者たちが、婆羅門の賢者たちが、家長の賢者たちが、沙門の賢者たちが、精緻にして、他者と論争を為し、毛を貫く形態の者たちであり、思うに、具した智慧によって、諸々の悪しき見解を破りながら、〔世を〕歩むも、彼らは、諸々の問いを準備しては準備して、近づいて行って、如来に尋ねる⸺そして、諸々の秘密にされたものを、さらに、諸々の隠蔽されたものを。それらの問いは、世尊によって、言説され、まさしく、回答され、〔問い尋ねの〕 契機が釈示されたものと成る。そして、商売人 (質問者) たちは、それら 〔の問い〕を、世尊のために成就する。そこで、まさに、世尊は、そこにおいて、輝きまさる⸺すなわち、この、智慧によって。ということで、このように、世尊は、智慧の眼によってもまた、眼ある方である。
(4)どのように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方であるのか。世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た⸺少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕 住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕住んでいる者たちを。それは、たとえば、また、まさに、あるいは、青蓮の池において、あるいは、赤蓮の池において、あるいは、白蓮の池において、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び上がらず、内に潜り生育するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水面のところで止住するものとしてあり、一部のまた、あるいは、諸々の青蓮が、あるいは、諸々の赤蓮が、あるいは、諸々の白蓮が、水のなかに生じ、水のなかで等しく増大し、水から伸び出て止住し、水に汚されないものとしてあるように、まさしく、このように、世尊は、覚者の眼によって、世を眺めながら、有情たちを見た⸺少なき塵の者たちとして、大いなる塵の者たちとして、鋭敏なる機能の者たちとして、柔弱なる機能の者たちとして、善き行相の者たちとして、悪しき行相の者たちとして、識知させるに易き者たちとして、識知させるに難き者たちとして、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見る者たちとして〔世に〕 住んでいる者たちを、一部のまた、他の世の罪について恐怖を見ない者たちとして〔世に〕 住んでいる者たちを。世尊は知る。「この人は、貪欲の行ないの者である」「この〔人〕 は、憤怒の行ないの者である」「この 〔人〕 は、迷妄の行ないの者である」「この 〔人〕は、思考の行ないの者である」「この 〔人〕 は、信の行ないの者である」「この〔人〕は、知恵の行ないの者である」と。世尊は、貪欲の行ないの人には、不浄の言説を言説する (不浄想を説く) 。世尊は、憤怒の行ないの人には、慈愛の修行 (慈悲の瞑想) を告げ知らせる。世尊は、迷妄の行ないの人には、誦説 (聖典) について、遍問 (義釈) について、〔しかるべき〕 時には、法 (真理) の聴聞において、 〔しかるべき〕 時には、法(真理)の論議において、導師との共住において確たるものとする。世尊は、思考の行ないの人には、呼吸についての気づき ( 安般念 )を告げ知らせる。世尊は、信の行ないの人には、清信するべき形相を告げ知らせる⸺覚者の善き覚り (菩提 ) を、法 (教え) の善き法(教え)たることを、僧団の善き実践を、さらに、自己の諸戒を。世尊は、知恵の行ないの人には、 〔あるがままの〕 観察 (毘鉢舎那・観 :観察瞑想)の形相を告げ知らせる⸺無常の行相を、苦痛の行相を、無我の行相を。
〔そこで、詩偈に言う〕「たとえば、山の頂きの巌に立つ者が、あたかも、また、遍きにわたり、人民を見るであろうように、その喩えのように、一切に眼ある思慮深き者は、法(真理) で作られている 〔智慧の〕 高楼に登って、憂いを離れた者となり、憂いに沈んだ人民を、生と老に征服された者を、〔智慧の眼で〕 注視する」と。
このように、世尊は、覚者の眼によってもまた、眼ある方である。
(5)どのように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方であるのか。一切にわたる眼は、一切知者たる知恵と説かれる。世尊は、一切知者たる知恵を、具した方であり、具完した方であり、所有した方であり、完備した方であり、具有した方であり、完有した方であり、具備した方である。
〔そこで、詩偈に言う〕 「彼にとって、 〔いまだ〕見られていないものは、この 〔世において〕 、何であれ、存在しない。さらに、〔いまだ〕 識られていないものは 〔存在せず〕 、知ることができないものは 〔存在しない〕。それが、導かれるべきもの (未了義のもの) として存在するなら、〔その〕 一切を、 〔彼は〕証知した。如来は、それによって、一切に眼ある者と 〔説かれる〕」と。
このように、世尊は、一切にわたる眼によってもまた、眼ある方である。ということで、「 〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方は」。
「一切の闇を除き去って」とは、一切の、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、 〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、除いて、除き去って、捨棄して、捨棄し去って、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて。ということで、「一切の闇を除き去って」。
「まさしく、独り、 〔真の〕 喜びに到達しました」とは、「独り」とは、世尊は、 (1) 出家と名づけられたことによって、独りであり、 (2) 伴侶なきの義 (意味) によって、独りであり、(3) 渇愛の捨棄の義 (意味)によって、独りであり、 (4)絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、絶対的に〔心の〕 汚れなき方、ということで、独りであり、 (5) 一路の道に至った方、ということで、独りであり、 (6) 独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。
(1)どのように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りであるのか。世尊は、まさしく、年少の者として 〔世に〕 存しつつ、若き黒髪の者であり、幸いなる若さの初年期 (青年期)を具備した者であるも、欲することなき母と父が涙顔で泣き叫んでいるなか、親族の群れを捨棄して、一切の、家の居住の障害を断ち切って、子と妻の障害を断ち切って、親族の障害を断ち切って、朋友と僚友の障害を断ち切って、蓄積の障害を断ち切って、髪と髭を剃り落として、諸々の黄褐色の衣( 袈裟 )をまとって、家から家なきへと出家して、無一物の状態へと近しく赴いて、独りで、 〔世を〕 歩み、 〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、〔行ないを〕 守り、 〔身を〕保ち、 〔身を〕保ち行く。このように、世尊は、出家と名づけられたことによって、独りである。
(2)どのように、世尊は、伴侶なきの義 (意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、出家者として 〔世に〕存しつつ、独りで、林地や林野の辺境を、諸々の辺地の臥坐所を受用する⸺音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、〔諸々の臥坐所を〕。彼は、独りで歩み、独りで赴き、独りで立ち、独りで坐り、独りで臥所を営み、独りで 〔行乞の〕 食のために村に入り、独りで戻り、独りで静所に坐り (瞑想する) 、独りで歩行 〔瞑想〕( 経行 ) に 〔心を〕 確立し、独りで、 〔世を〕 歩み、〔世に〕 住み、振る舞い、行持し、 〔行ないを〕 守り、 〔身を〕 保ち、〔身を〕 保ち行く。このように、世尊は、伴侶なきの義 (意味) によって、独りである。
(3)どのように、世尊は、渇愛の捨棄の義 (意味)によって、独りであるのか。彼は、このように、独りで、伴侶なく、 〔気づきを〕怠らず、熱情ある者となり、自己を精励する者として 〔世に〕住みつつ、ネーランジャラー川の岸辺の菩提樹の根元において、大いなる精励をもって 〔自己を〕 精励しながら、軍団を有する悪魔を、黒き者たるナムチを、放逸の眷属を、砕破して〔そののち〕 、渇愛の網を、 〔渇愛の〕 流れを、 〔渇愛の〕執着を、捨棄した、除去した、終息を為した、状態なきへと至らせた。
〔そこで、詩偈に言う〕 「渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しながら、 〔今〕 この場の 〔迷いの〕 状態(現世) と他の 〔迷いの〕 状態(来世) を、 〔生と死の〕輪廻を超克しない。
この危険を知って、渇愛 〔の思い〕 を苦しみの発生と 〔知って〕 、渇愛〔の思い〕 を離れ、執取 〔の思い〕 なく、 〔常に〕気づきある比丘として、遍歴遊行するがよい」と。
このように、世尊は、渇愛の捨棄の義 (意味) によって、独りである。
(4)どのように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであるのか。貪欲が捨棄されたことから、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りであり、憤怒が捨棄されたことから、絶対的に憤怒を離れた方、ということで、独りであり、迷妄が捨棄されたことから、絶対的に迷妄を離れた方、ということで、独りであり、諸々の〔心の〕 汚れが捨棄されたことから、絶対的に 〔心の〕汚れなき方、ということで、独りである。このように、世尊は、絶対的に貪欲を離れた方、ということで、独りである。
(5)どのように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りであるのか。一路の道は、四つの気づきの確立 ( 四念住・四念処 :身体と感受と心と法についての気づき)、四つの正しい精励 ( 四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)、四つの神通の足場 ( 四神足:意欲・専心・精進・考察) 、五つの機能 ( 五根:信・精進・気づき・禅定・智慧) 、五つの力 (五力 :信・精進・気づき・禅定・智慧) 、七つの覚りの支分 ( 七覚支 :気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨)、聖なる八つの支分ある道 ( 八正道 ・八聖道 :正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定) 、と説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕 「生の滅尽と終極を見る 〔覚者〕は、 〔人々に〕 利益と慈しみ 〔の思い〕 ある 〔覚者〕は、一路の道を覚知する。この道によって、 〔人々は〕 過去において〔激流を〕 超えたのであり、 〔未来においても〕 超えるであろうし、そして、すなわち、 〔今現在も〕 激流を超えるのだ」と。
このように、世尊は、一路の道に至った方、ということで、独りである。
(6)どのように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りであるのか。覚り (菩提 ) は、四つの 〔聖者の〕 道(預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) における、知恵 ( 智 ) 、智慧 (慧・般若 ) 、智慧の機能 (慧根 ) 、智慧の力 (慧力 ) 、法 (真理)の判別という正覚の支分 ( 択法覚支 ) 、〔あるがままの〕 考察、 〔あるがままの〕 観察 (毘鉢舎那・観 :観察瞑想) 、正しい見解 (正見 ) 、と説かれる。世尊は、その覚りの知恵によって、「一切の形成〔作用〕 は、無常である (諸行無常 ) 」と覚った。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である ( 一切皆苦) 」と覚った。「一切の法 (事象) は、無我である( 諸法無我 )」と覚った。「無明という縁あることから、諸々の形成 〔作用〕がある」と覚った。……略 ([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と覚った。「無明の止滅あることから、諸々の形成 〔作用〕 の止滅がある」と覚った。……略 ([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と覚った。「これは、苦しみである」と覚った。「これは、苦しみの集起である」と覚った。「これは、苦しみの止滅である」と覚った。「これは、苦しみの止滅に至る〔実践の〕 道である」と覚った。「これらは、諸々の煩悩である」と覚った。……略([324]参照) ……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る 〔実践の〕 道である」と覚った。「これらの法 (性質)は、証知されるべきである」と覚った。「これらの法 (性質)は、遍知されるべきである」と覚った。「これらの法 (性質)は、捨棄されるべきである」と覚った。「これらの法 (性質)は、修行されるべきである」と覚った。「これらの法 (性質)は、実証されるべきである」と覚った。六つの接触ある 〔認識の〕 場所( 六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、 〔それらを〕 覚った。五つの 〔心身を構成する〕執取の範疇 ( 五取蘊:色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、 〔それらを〕 覚った。四つの大いなる元素 (四大種 :地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、 〔それらを〕 覚った。「それが何であれ、集起の法 (性質)であるなら、その全てが、止滅の法 (性質) である」と覚った。
さらに、あるいは、それが何であれ、覚られるべきものであるなら、随覚されるべきものであるなら、醒覚されるべきものであるなら、正覚されるべきものであるなら、到達されるべきものであるなら、体得されるべきものであるなら、実証されるべきものであるなら、その全てを、その覚りの知恵によって、覚った、随覚した、醒覚した、正覚した、到達した、体得した、実証した。このように、世尊は、独りで、無上なる正等覚を現正覚した方、ということで、独りである。
「 〔真の〕喜びに到達しました」とは、「 〔真の〕喜びに」とは、離欲の喜びに、遠離の喜びに、寂止の喜びに、正覚の喜びに、到達した、正しく到達した、到達した、体得した、実証した。ということで、「まさしく、独り、〔真の〕 喜びに到達しました」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「すなわち、天を含む世 〔の人々〕 に 〔はっきりと〕 見えるように、眼ある方(ブッダ) は、一切の闇を除き去って、まさしく、独り、 〔真の〕 喜びに到達しました」と。
963. (957) その覚者に、依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に、 〔兜率天から〕 やってきた 〔世の〕衆師たる方に、問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕 やってまいりました⸺この 〔世における〕、多くの結縛された者たちのために。 (3)
「その覚者に、依存なき方に、如なる方に」とは、「覚者」とは、すなわち、彼は、世尊は、 〔他に依らず〕 自ら成る者として、師匠なき者として、過去に聞かれたことなき諸々の法 (教え)について、自ら、諸々の真理を現正覚した。そして、そこにおいて、一切知者たることに至り得た。さらに、諸々の力における自在なる状態に至り得た。「覚者」とは、どのような義(意味)によって、覚者となるのか。諸々の真理を覚った者、ということで、「覚者」。人々を覚らせる者、ということで、「覚者」。一切知者たることによって、「覚者」。一切見者たることによって、「覚者」。他者に導かれないことによって、「覚者」。〔世俗を〕発出することによって、「覚者」。煩悩の滅尽者と名づけられたことによって、「覚者」。汚れなき者と名づけられたことによって、「覚者」。絶対的に貪欲を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に憤怒を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に迷妄を離れた者、ということで、「覚者」。絶対的に〔心の〕汚れなき者、ということで、「覚者」。一路の道に至った者、ということで、「覚者」。独りで、無上なる正等覚を現正覚した者、ということで、「覚者」。覚慧の打破されざることから、覚慧の獲得あることから、ということで、「覚者」。「覚者」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕 の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、 〔その〕 実証となる概念 ( 施設) であり、すなわち、この、覚者である。「依存なき方に」とは、二つの依所 (依存の対象) がある。 (1)そして、渇愛の依所であり、 (2) さらに、見解の依所である。(1)どのようなものが、渇愛の依所であるのか。およそ、渇愛と名づけられたものによって、境界が作り為され、制約が作り為され、限界が作り為され、極限が作り為され、遍く収取され、わがものとされた、そのかぎりのものである。「これは、わたしのものである」「このものは、わたしのものである」「これだけのものが、わたしのものである」「このかぎりのものが、わたしのものである」「わたしの、諸々の形態であり、諸々の音声であり、諸々の臭気であり、諸々の味感であり、諸々の感触であり、諸々の敷物であり、諸々の着物であり、奴婢や奴隷たちであり、山羊や羊たちであり、鶏や豚たちであり、象や牛や馬や騾馬たちであり、田畑であり、地所であり、金貨であり、黄金であり、村や町や王都であり、そして、国土であり、そして、地方であり、そして、蔵であり、そして、貯蔵庫である」〔と〕、大いなる地の全部でさえも、渇愛を所以にわがものとする。およそ、百八の渇愛の行じ歩むところの、そのかぎりのものである。これが、渇愛の依所である。
(2)どのようなものが、見解の依所であるのか。二十の事態ある身体を有するという見解 (有身見 ) 、十の事態ある誤った見解 (邪見 ) 、十の事態ある極 〔論〕を収め取るものとしての見解 ( 辺執見 )⸺すなわち、このような形態の、見解、見解の成立、見解の捕捉、見解の難所、見解の狂騒、見解の紛糾、見解の束縛、収取、納受、固着、偏執、邪道、邪路、邪性、異教の〔認識の〕 場所 (境地・立場)、転倒するものの収取、転倒したものの収取、転倒あるものの収取、誤った収取、あるがままではないものについて「あるがままのものである」という収取⸺およそ、六十二の悪しき見解としてある、そのかぎりのものである。これが、見解の依所である。
覚者たる世尊の、渇愛の依所は 〔すでに〕 捨棄され、見解の依所は 〔すでに〕放棄され、渇愛の依所が 〔すでに〕 捨棄されたことから、見解の依所が〔すでに〕放棄されたことから、世尊は、眼に依存しない者として、耳に……鼻に……舌に……身に……意に依存しない者として、諸々の形態に……諸々の音声に……諸々の臭気に……諸々の味感に……諸々の感触に……家に……衆徒に……居住に……利得に……盛名に……賞賛に……安楽に……衣料に……〔行乞の〕 施食に……臥坐具に……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬) に……欲望の界域 (欲界 ) に……形態の界域 (色界 ) に……形態なき界域 (無色界 ) に……欲望の生存 (欲有 ) に……形態の生存 (色有 ) に……形態なき生存 (無色有 ) に……表象の生存 (想有 ) に……表象なき生存 (無想有 ) に……表象あるにもあらず表象なきにもあらざる生存 ( 非想非非想有 ) に……一つの組成としての生存(色蘊のみを有する生存) に……四つの組成としての生存 (色蘊以外の四蘊を有する生存) に……五つの組成としての生存 (五蘊すべてを有する生存) に……過去に……未来に……現在に……諸々の見られ聞かれ思われ識られるべき法(事象) に、依らない者として、依存しない者として、 〔思いが〕付着しない者として、近しく赴かない者として、固執しない者として、信念しない者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。ということで、「その覚者に、依存なき方に」。
「如なる方に」とは、世尊は、五つの行相によって、如なる方である(あるがままの如実者である) 。 (1) 好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方である。 (2) 捨て去った者、ということで、如なる方である。 (3) 超え渡った者、ということで、如なる方である。 (4) 解き放った者、ということで、如なる方である。 (5) それを釈示することから、如なる方である。
(1)どのように、世尊は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方であるのか。世尊は、利得にたいしてもまた、如なる方であり、利得なきにたいしてもまた、如なる方であり、盛名にたいしてもまた、如なる方であり、盛名なきにたいしてもまた、如なる方であり、賞賛にたいしてもまた、如なる方であり、非難にたいしてもまた、如なる方であり、安楽にたいしてもまた、如なる方であり、苦痛にたいしてもまた、如なる方である。一部の者たちが、腕を香料で塗るとして、一部の者たちが、腕を鉈で撃打するとして、それにたいし、貪り〔の思い〕 は存在せず、それにたいし、敵対 〔の思い〕 は存在しない。 〔彼は〕随貪と敵対を捨棄した方であり、興奮と失望を超克した方であり、共感と反感を等しく超越した方である。このように、世尊は、好ましいものと好ましくないものにたいし、如なる方である。
(2)どのように、世尊は、捨て去った者、ということで、如なる方であるのか。世尊には、貪欲は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄され、憤怒は……迷妄は……忿激は……怨恨は……偽装は……加虐は……嫉妬は……物惜は……幻惑は……狡猾は……強情は……激昂は……思量は……高慢は……驕慢は……放逸は……一切の〔心の〕汚れは……一切の悪しき行ないは……一切の懊悩は……一切の苦悶は……一切の熱苦は……一切の善ならざる行作は、捨て去られ、吐き捨てられ、解き放たれ、捨棄され、放棄されたものとしてある。このように、世尊は、捨て去った者、ということで、如なる方である。
(3)どのように、世尊は、超え渡った者、ということで、如なる方であるのか。世尊は、欲望の激流を超え渡った方であり、生存の激流を超え渡った方であり、見解の激流を超え渡った方であり、無明の激流を超え渡った方であり、一切の輪廻の道を、超え渡った方であり、超え上がった方であり、超え出た方であり、超越した方であり、等しく超越した方であり、超克した方である。彼は、住することを住した方(梵行の完成者) 、歩むことを歩んだ方、 〔輪廻の〕 旅程を去った方、 〔涅槃の〕方角に赴いた方、突端に至った方、梵行を守った方、最上の見解に至り得た方、道を修行した方、 〔心の〕 汚れを捨棄した方、不動 〔の境地〕(阿羅漢果) を理解した方、止滅 〔の境地〕 (涅槃)を実証した方である。彼にとって、苦しみは遍知され、集起は捨棄され、道は修行され、止滅は実証され、証知されるべきものは証知され、遍知されるべきものは遍知され、捨棄されるべきものは捨棄され、修行されるべきものは修行され、実証されるべきものは実証された。彼は、閂を外した方(無明を捨棄した者) 、堀を埋めた方 (輪廻を捨棄した者) 、柱を引き抜いた方 (渇愛を捨棄した者) 、閂なき方 (五下分結を捨棄した者)、 〔高慢の〕 旗を降ろし 〔生の〕 重荷を降ろし束縛を離れた聖なる方 (自我意識を捨棄した者) 、五つの支分 (五蓋)を捨棄した方、六つの支分 (色・声・香・味・触・法における放捨)を具備した方、一つの守護 (気づきによる守護) ある方、四つの依託(智慧による受用と甘受と回避と除去) ある方、各自の真理 (偏見) を除去した方、探し求めることを正しく完全に放棄した方、混濁なき思惟ある方、身体の形成〔作用〕 (身行 ) を静息した方、善く解脱した心の方、善く解脱した智慧の方、全一者、〔梵行の〕完成者、最上の人士、最高の人士、最高の至り得るべきものに至り得た方である。彼は、まさしく、 〔善悪の報いを〕 蓄積することもなく摘出することもなく、 〔すでに〕 摘出して 〔世に〕 止住している方、まさしく、〔煩悩を〕 捨棄することもなく執取することもなく、 〔すでに〕 捨棄して 〔世に〕 止住している方、まさしく、〔世俗を〕 離れることもなく近づくこともなく、 〔すでに〕 離れて 〔世に〕 止住している方、まさしく、〔世俗を〕 離煙することもなく喫煙することもなく、 〔すでに〕 離煙して 〔世に〕 止住している方、〔もはや〕 学ぶことなき (無学 ) 戒の範疇 (戒蘊 ) を具備したことから 〔世に〕 止住している方、 〔もはや〕学ぶことなき禅定の範疇 ( 定蘊 )を具備したことから 〔世に〕 止住している方、 〔もはや〕 学ぶことなき智慧の範疇 (慧蘊 ) を具備したことから 〔世に〕 止住している方、 〔もはや〕学ぶことなき解脱の範疇を具備したことから 〔世に〕 止住している方、〔もはや〕 学ぶことなき解脱の知見の範疇を具備したことから 〔世に〕 止住している方、真理 ( 諦) を等しく実践して 〔世に〕 止住している方、動揺〔の思い〕 を等しく超越して 〔世に〕 止住している方、 〔心の〕汚れの火を完全に取り払って 〔世に〕 止住している方、 〔輪廻に〕 遍く赴かないことから 〔世に〕止住している方、幸運を受持して 〔世に〕 止住している方、解き放ちを受用することから〔世に〕 止住している方、慈愛 (慈 ) という完全なる清浄あることから 〔世に〕 止住している方、慈悲 ( 悲) という完全なる清浄あることから 〔世に〕 止住している方、歓喜( 喜 ) という完全なる清浄あることから〔世に〕 止住している方、放捨 (捨 :選択せず差別なき心) という完全なる清浄あることから 〔世に〕 止住している方、究極にして完全なる清浄によって 〔世に〕 止住している方、それに関わることなき 〔あり方〕(渇愛なきあり方) という完全なる清浄によって 〔世に〕 止住している方、解脱したことから 〔世に〕止住している方、満ち足りていることから 〔世に〕 止住している方、範疇( 蘊 ) の極限において〔世に〕 止住している方、界域 (界 ) の極限において 〔世に〕止住している方、 〔認識の〕 場所 (処 ) の極限において 〔世に〕止住している方、境遇 ( 趣 ) の極限において〔世に〕 止住している方、再生の極限において 〔世に〕 止住している方、結生の極限において 〔世に〕止住している方、生存 ( 有 ) の極限において〔世に〕 止住している方、輪廻の極限において 〔世に〕 止住している方、転起の極限において 〔世に〕止住している方、最後の生存の極限において 〔世に〕止住している方、最後の積身において 〔世に〕止住している方、最後の肉身を保つ世尊である。
〔そこで、詩偈に言う〕 「彼にとって、これは、最後の生存である。これは、最後の積身である。生と死の輪廻は〔存在しない〕 。彼に、さらなる生存は存在しない」と。
このように、世尊は、超え渡った者、ということで、如なる方である。
(4)どのように、世尊は、解き放った者、ということで、如なる方であるのか。世尊には、貪欲から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、憤怒から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、迷妄から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱し、忿激から……怨恨から……偽装から……加虐から……嫉妬から……物惜から……幻惑から……狡猾から……強情から……激昂から……思量から……高慢から……驕慢から……放逸から……一切の〔心の〕汚れから……一切の悪しき行ないから……一切の懊悩から……一切の苦悶から……一切の熱苦から……一切の善ならざる行作から、心は、解き放たれ、解脱し、善く解脱したものとしてある。このように、世尊は、解き放った者、ということで、如なる方である。
(5)どのように、世尊は、それを釈示することから、如なる方であるのか。世尊は、戒が存しているとき、「戒ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、信が存しているとき、「信ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、精進が存しているとき、「精進ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、気づきが存しているとき、「気づきある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、禅定が存しているとき、「禅定ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、智慧が存しているとき、「智慧ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、明知が存しているとき、「三つの明知( 三明 :宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる方であり、神知が存しているとき、「六つの神知 (六神通 :神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)ある者である」と、それを釈示することから、如なる方である。このように、世尊は、それを釈示することから、如なる方である。ということで、「その覚者に、依存なき方に、如なる方に」。
「虚言なき方に、 〔兜率天から〕 やってきた 〔世の〕衆師たる方に」とは、「虚言なき方に」とは、三つの虚言の事例がある。 (1)日用品の受用と名づけられた虚言の事例、 (2)振る舞いの道と名づけられた虚言の事例、 (3)なぞかけと名づけられた虚言の事例である。
(1)どのようなものが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、 〔在俗の〕 家長たちが、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) によって〔布施をするために〕 、比丘を招く。その 〔比丘〕 は、悪しき欲求ある者であり、 〔自らの〕欲求に支配された者であり、 〔それらの施物を〕 義 (目的) とする者であり、諸々の衣料や 〔行乞の〕施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品をより一層欲することに執取して、衣料を 〔とりあえずは〕 拒絶し、 〔行乞の〕 施食を〔とりあえずは〕 拒絶し、臥坐具を 〔とりあえずは〕 拒絶し、病のための日用品たる薬の必需品を 〔とりあえずは〕拒絶する。彼は、このように言う。「沙門にとって、高価な衣料が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、墓場から、あるいは、塵芥場から、あるいは、店先から、諸々のぼろ布を集めて、大衣と為して〔身に〕 付けるなら。沙門にとって、高価な 〔行乞の〕 施食が何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、残飯行(乞食行) によって、 〔施しの〕握り飯によって、生計を営むなら。沙門にとって、高価な臥坐具が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、木の根元にある者として、あるいは、墓場にある者として、あるいは、野外にある者として、〔世に〕存するなら。沙門にとって、高価な病のための日用品たる薬の必需品が、何だというのだ。これが、適切なることとなる⸺すなわち、沙門が、あるいは、腐尿(発酵した牛の尿)によって、あるいは、薬果の破断したものによって、薬と為すなら」と。それ (施物)に執取して、粗末な衣料を 〔身に〕 付け、粗末な 〔行乞の〕 施食を食べ、粗末な臥坐所を受用し、粗末な病のための日用品たる薬の必需品を受用する。〔まさに〕 その、この者のことを、 〔在俗の〕 家長たちは、このように知る。「この沙門は、少なき欲求の者であり、 〔常に〕 満ち足りている者であり、遠離している者であり、 〔世俗と〕 交わりなき者であり、精進に励む者であり、 〔俗塵の〕 払拭 ( 頭陀) を説く者である」と。より一層、より一層、 〔家長たちは〕諸々の衣料や 〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品によって〔布施をするために、その比丘を〕招く。彼は、このように言う。「三つのものが面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。 〔第一に〕 信が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。〔第二に〕 施すべき法 (施物)が、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。 〔第三に〕施与されるべき者たちが、面前する状態となることから、信ある良家の子息は、多くの功徳を生む。まさしく、そして、あなたたちには、この信が存在し、さらに、施すべき法(施物)が等しく見出される。かつまた、わたしは、納受する者である。それで、もし、わたしが納受しないであろうなら、このように、あなたたちは、功徳から遍く外にある者たちと成るであろう。わたしには、これに義(目的) はないが、しかしながら、また、まさしく、あなたたちへの慈しみ〔の思い〕 によって、 〔わたしは〕 納受する」と。それに執取して、さらに、多くの衣料を納受し、さらに、多くの〔行乞の〕施食を納受し、さらに、多くの臥坐具を納受し、さらに、多くの病のための日用品たる薬の必需品を納受する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、日用品の受用と名づけられた虚言の事例である。
(2)どのようなものが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、〔自らの〕 欲求に支配された者として、 〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、赴くに装い、立つに装い、坐るに装い、臥すに装い、作為して赴き、作為して立ち、作為して坐り、作為して臥所を営み、〔心が〕 定められた者であるかのように赴き、 〔心が〕 定められた者であるかのように立ち、 〔心が〕定められた者であるかのように坐り、 〔心が〕定められた者であるかのように臥所を営み、まさしく、視野のうちなる瞑想者 (見かけ上の瞑想者) と成る。すなわち、このような形態の、振る舞いの道 (行住坐臥)のための、作為的虚飾、虚飾、常習的虚飾、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、振る舞いの道と名づけられた虚言の事例である。
(3)どのようなものが、なぞかけと名づけられた虚言の事例であるのか。ここに、一部の者は、悪しき欲求ある者として、 〔自らの〕 欲求に支配された者として、 〔他者に〕尊ばれることを志向し、「このように、人は、わたしを尊ぶであろう」と、聖なる法 (教え) に依拠した言葉を語る。「彼が、このような形態の衣料を 〔身に〕 保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の鉢を〔身に〕 保つなら……銅椀を 〔身に〕 保つなら……水瓶を 〔身に〕保つなら……濾過器を 〔身に〕 保つなら……袋を 〔身に〕 保つなら……履物を 〔身に〕保つなら……身体を縛る 〔帯〕 を 〔身に〕 保つなら…… 〔縛り〕 紐を〔身に〕保つなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師父 (和尚 )がいるなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼に、このような形態の師匠 (阿闍梨 )がいるなら……師父を等しくする者たちがいるなら……師匠を等しくする者たちがいるなら……朋友たちがいるなら……同輩たちがいるなら……知己たちがいるなら……道友たちがいるなら……彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の精舎に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。「彼が、このような形態の半屋根に住するなら……高楼に住するなら……楼房に住するなら……岩窟に住するなら……山窟に住するなら……小屋に住するなら……楼閣に住するなら……見張塔に住するなら……円室に住するなら……堂舎に住するなら……奉仕堂に住するなら……天幕に住するなら……木の根元に住するなら、彼は、大いなる権能ある沙門である」と話す。
さらに、あるいは、逆上に逆上し、渋面に渋面し、虚言に虚言し、饒舌に饒舌し、口で尊ばれている者が、「この沙門は、このような形態の、これらの寂静なる住への入定の得者である」と、そのような、深遠で、秘密にされ、精緻で、隠蔽され、世〔俗〕を超える、空性に関係した言説を言説する。すなわち、このような形態の、渋面すること、渋面たること、虚言、虚言すること、虚言あることである。これが、なぞかけと名づけられた虚言の事例である。覚者たる世尊の、これらの三つの虚言の事例は、捨棄され、断絶され、寂止し、安息し、生起の可能なきものとなり、知恵の火によって焼かれたものとしてある。それゆえに、覚者は、虚言なき方である。ということで、「虚言なき方に」。
「 〔兜率天から〕やってきた 〔世の〕 衆師たる方に」とは、「 〔世の〕 衆師たる方」とは、 〔世の〕衆師たる世尊は、衆の師匠、ということで、「衆師」。衆にとっての教師、ということで、「衆師」。衆を守り抜く、ということで、「衆師」。衆を教諭する、ということで、「衆師」。衆に教示する、ということで、「衆師」。恐れおののきを離れた者として、衆に近づいて行く、ということで、「衆師」。衆が、彼の〔言葉を〕聞こうとし、耳を傾け、了知の心を現起させる、ということで、「衆師」。衆を、善ならざるものから出起させて、善なるものにおいて確立させる、ということで、「衆師」。比丘の衆にとって、衆師であり、比丘尼の衆にとって、衆師であり、在俗信者( 優婆塞 )の衆にとって、衆師であり、女性在俗信者 ( 優婆夷)の衆にとって、衆師であり、王の衆にとって、衆師であり、士族の衆にとって……婆羅門の衆にとって……庶民の衆にとって……隷民の衆にとって……天の衆にとって……梵の衆にとって、衆師である。僧師であり、衆師であり、衆の師匠である。「やってきた」とは、サンカッサの城市へと、近しく赴いた方に、到着した方に、到来した方に。ということで、「〔兜率天から〕 やってきた 〔世の〕 衆師たる方に」。
「この 〔世における〕、多くの結縛された者たちのために」とは、多くの、士族たち、婆羅門たち、庶民たち、隷民たち、在家者たち、出家者たち、天〔の神々〕たち、人間たちのために。「結縛された者たちのために」とは、結縛された者たちであり、歩みが結縛された者たちである、侍者たちのために、弟子たちのために。ということで、「この〔世における〕 、多くの結縛された者たちのために」。
「問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」とは、 〔わたしは〕 問いを義 (目的) とする到来者として存している。 〔わたしは〕問いを尋ねることを欲する到来者として存している。 〔わたしは〕問いを聞くことを欲する到来者として存している。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義 (目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、問いを義 (目的)とする者たちの、問いを尋ねることを欲する者たちの、問いを聞くことを欲する者たちの、到来することが、来訪することが、近づいて行くことが、奉侍することが、存するであろうし、存する。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。さらに、あるいは、「あなたには、問いのための到来者が存在します。あなたは、また、可能なる方です。あなたは、十分なる自己ある方として存しています⸺わたしによって尋ねられたことを、言説するべく、答えるべく。これは、運ぶ者の荷です」〔と〕 。ということで、このようにもまた、「問い尋ねることを義(目的) として、 〔わたしは〕やってまいりました」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「その覚者に、依存なき方に、如なる方に、虚言なき方に、〔兜率天から〕 やってきた 〔世の〕 衆師たる方に、問い尋ねることを義 (目的)として、 〔わたしは〕 やってまいりました⸺この 〔世における〕 、多くの結縛された者たちのために」と。
964. (958) 〔世俗の生活を〕 忌避している比丘にとって、〔無用となり〕 遠ざけられた坐所に親近している 〔比丘〕 にとって、あるいは、木の根元や墓場に 〔親近している比丘にとって〕 、あるいは、山々の諸々の洞窟において 〔臥所を営む比丘にとって〕 ⸺ (4)
「 〔世俗の生活を〕忌避している比丘にとって」とは、「比丘にとって」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘にとって、あるいは、 〔いまだ〕 学びある比丘にとって。「 〔世俗の生活を〕忌避している」とは、生によって 〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、老によって……病によって……死によって……諸々の憂いによって……諸々の嘆きによって……諸々の苦痛によって……諸々の失意によって……諸々の葛藤によって〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、地獄の苦しみによって……畜生の胎の苦しみによって……餓鬼の境域の苦しみによって……人間の苦しみによって……入胎を根元とする苦しみによって……胎における止住を根元とする苦しみによって……胎からの出起を根元とする苦しみによって……生まれた者に連結する苦しみによって……生まれた者が他者の配下となる苦しみによって……自己の行動(自害) としての苦しみによって……他者の行動 (他害)としての苦しみによって……苦痛の苦しみによって……形成の苦しみによって……変化の苦しみによって……眼の病の苦しみによって……耳の病の苦しみによって……鼻の病の苦しみによって……舌の病の苦しみによって……身の病の苦しみによって……頭の病の苦しみによって……耳(外耳)の病の苦しみによって……口の病の苦しみによって……歯の病の苦しみによって……咳によって……喘息によって……感昌によって……発熱によって……老化によって……腹の病によって……気絶によって……下痢によって……腹痛によって……疫病によって……癩病によって……腫物によって……疱瘡によって……肺病によって……癲癇によって……肌荒によって……搔痒によって……疥癬によって……掻傷によって……瘡蓋によって……出血によって……糖尿によって……痔によって……吹出物によって……潰瘍によって……胆汁から等しく現起する病苦によって……痰から等しく現起する病苦によって……風(体内のエネルギー代謝) から等しく現起する病苦によって……〔胆汁と痰と風の三因の〕集合としての病苦によって……季節の変化から生じる病苦によって……平常ならざる 〔姿勢の〕 維持から生じる病苦によって……突発性の病苦によって……行為の報い ( 業報 )から生じる病苦によって……寒さによって……暑さによって……飢えによって……渇きによって……大便によって……小便によって……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の苦しみによって……母の死の苦しみによって……父の死の苦しみによって……兄弟の死の苦しみによって……姉妹の死の苦しみによって……子の死の苦しみによって……娘の死の苦しみによって……親族の災厄の苦しみによって……財物の災厄の苦しみによって……病の災厄の苦しみによって……戒の災厄の苦しみによって……見解の災厄の苦しみによって、〔世俗の生活を〕忌避している者にとって、苦悩している者にとって、自責している者にとって、忌避している者にとって。ということで、「〔世俗の生活を〕 忌避している比丘にとって」。
「 〔無用となり〕遠ざけられた坐所に親近している 〔比丘〕にとって」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。その坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり……正当ならざる五つの欲望の属性( 五妙欲 :色・声・香・味・触)から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その遠離の坐所に、親近している 〔比丘〕 にとって、等しく親近している 〔比丘〕にとって、慣れ親しんでいる 〔比丘〕 にとって、慣用している〔比丘〕 にとって、等しく慣れ親しんでいる 〔比丘〕 にとって、受用している 〔比丘〕にとって。ということで、「 〔無用となり〕 遠ざけられた坐所に親近している〔比丘〕 にとって」。
「あるいは、木の根元や墓場に 〔親近している比丘にとって〕」とは、まさしく、木の根元は、木の根元であり、まさしく、墓場は、墓場である。ということで、「あるいは、木の根元や墓場に〔親近している比丘にとって〕 」。「あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕」とは、まさしく、山々は、山々であり、まさしく、諸々の石窟は、諸々の石窟であり、まさしく、諸々の山の洞窟は、諸々の山の洞窟である。山々の中間は、山々の山腹と説かれる。ということで、「あるいは、山々の諸々の洞窟において〔臥所を営む比丘にとって〕 」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「 〔世俗の生活を〕 忌避している比丘にとって、 〔無用となり〕 遠ざけられた坐所に親近している 〔比丘〕にとって、あるいは、木の根元や墓場に 〔親近している比丘にとって〕、あるいは、山々の諸々の洞窟において 〔臥所を営む比丘にとって〕」と。
965. (959)諸々の高下の臥所において、そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか。音なき臥坐所において、まさに、それらに〔遭遇しても〕 動揺しないのが、比丘であるとして。 (5)
「諸々の高下の臥所において」とは、「諸々の高下の」とは、諸々の高下には、諸々の下劣なる 〔臥所〕 と精妙なる 〔臥所〕 には、諸々の良き〔臥所〕 と悪しき 〔臥所〕には。臥所は、臥坐所と説かれる。精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。ということで、「諸々の高下の臥所において」。「そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか」とは、「どれだけの」とは、どれだけのものが、鳴いているのか、吼えているのか、声を為しているのか。さらに、あるいは、「どれだけの」とは、それらは、どれほどであるのか、どれだけであるのか、どれだけのものであるのか、どれだけ多くのものであるのか。「恐ろしいものたち」とは、獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蝎たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、 〔狂暴な〕 若者たちが⸺あるいは、 〔すでに〕行為を為した者 (既遂の者) たちとして、あるいは、 〔いまだ〕 行為を為していない者 (未遂の者)たちとして⸺存するべきである。ということで、「そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか」。
「まさに、それらに 〔遭遇しても〕 動揺しないのが、比丘であるとして」とは、「まさに、それらに 〔遭遇しても〕」とは、まさに、それらの恐ろしいものたちを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕 存するべきであり、 〔世に〕 住むべきである。ということで、「まさに、それらに 〔遭遇しても〕 動揺しないのが、比丘であるとして」。
「音なき臥坐所において」とは、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、臥坐所において。ということで、「音なき臥坐所において」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「諸々の高下の臥所において、そこにおいて、どれだけの恐ろしいものたちがいるのですか。音なき臥坐所において、まさに、それらに〔遭遇しても〕 動揺しないのが、比丘であるとして」と。
966. (960) 〔いまだ〕 赴かざる方角(涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。辺地の臥坐所において、それらを征服するのが、比丘であるとして。(6)
「世において、どれだけの危難があるのですか」とは、「どれだけの」とは、どれほどであるのか、どれだけであるのか、どれだけのものであるのか、どれだけ多くのものであるのか。「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1) そして、諸々の明白なる危難であり、 (2) さらに、諸々の隠蔽された危難である。 (1)どのようなものが、諸々の明白なる危難であるのか。獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗 (ハイエナ) たち、狼たち、水牛たち、象たち、蛇たち、蝎たち、百足たち、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕 若者たちが⸺あるいは、 〔すでに〕 行為を為した者 (既遂の者)たちとして、あるいは、 〔いまだ〕 行為を為していない者 (未遂の者) たちとして⸺存するべきであり、眼の病、耳の病、鼻の病、舌の病、身の病、頭の病、耳(外耳)の病、口の病、歯の病、咳、喘息、感昌、発熱、老化、腹の病、気絶、下痢、腹痛、疫病、癩病、腫物、疱瘡、肺病、癲癇、肌荒、搔痒、疥癬、掻傷、瘡蓋、出血、糖尿、痔、吹出物、潰瘍、胆汁から等しく現起する諸々の病苦、痰から等しく現起する諸々の病苦、風(体内のエネルギー代謝) から等しく現起する諸々の病苦、 〔胆汁と痰と風の三因の〕 集合としての諸々の病苦、季節の変化から生じる諸々の病苦、平常ならざる〔姿勢の〕 維持から生じる諸々の病苦、突発性の諸々の病苦、行為の報い( 業報 )から生じる諸々の病苦、寒さ、暑さ、飢え、渇き、大便、小便、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触、あるいは、かくのごときものである。これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。
(2)どのようなものが、諸々の隠蔽された危難であるのか。身体による悪しき行ない、言葉による悪しき行ない、意による悪しき行ない、欲望〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 ( 欲貪 )という 〔修行の〕 妨害 (蓋 ) 、憎悪 〔の思い〕( 瞋恚 ) という 〔修行の〕 妨害、 〔心の〕 沈滞と眠気( 昏沈睡眠 ) という 〔修行の〕 妨害、 〔心の〕 高揚と悔恨( 掉挙悪作 ) という 〔修行の〕 妨害、疑惑 〔の思い〕( 疑 ) という 〔修行の〕 妨害、貪欲 ( 貪) 、憤怒 ( 瞋 ) 、迷妄( 痴 ) 、忿激 ( 忿 ) 、怨恨 (恨 ) 、偽装 (覆 ) 、加虐 (悩 ) 、嫉妬 (嫉 ) 、物惜 (慳 ) 、幻惑 (誑 ) 、狡猾 (諂 ) 、強情 (傲 ) 、激昂 (怒 ) 、思量 (慢 ) 、高慢 (過慢 ) 、驕慢 (驕 ) 、放逸、一切の 〔心の〕汚れ ( 煩悩 )、一切の悪しき行ない、一切の懊悩、一切の苦悶、一切の熱苦、一切の善ならざる行作 (現行 ) である。これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。
「諸々の危難 (パリッサヤ) 」とは、どのような義 (意味)によって、諸々の危難となるのか。 (1) 遍く打ち負かす (パリサハティ) 、ということで、「諸々の危難」。 (2)遍き衰退 (パリハーヤ) のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。(3) そこに依拠するもの (アーサヤ) 、ということで、「諸々の危難」。
(1)どのように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、その人を、打ち負かし、遍く打ち負かし、征服し、覆い尽くし、完全に奪い去り、踏みにじる。このように、遍く打ち負かす、ということで、「諸々の危難」。
(2)どのように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」となるのか。それらの危難は、諸々の善なる法(性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。どのような諸々の善なる法 (性質) の、であるのか。正しい 〔実践の〕 道の、〔真理に〕 随順する 〔実践の〕道の、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道の、遮るものなき 〔実践の〕 道の、義(意味) のままなる 〔実践の〕道の、法 (教え) が法 (教え)のままなる 〔実践の〕 道の、諸戒における円満成就を作り為すことの、諸々の〔感官の〕 機能 (根 ) において門が守られていることの、食について量を知ることの、〔眠らずに〕 起きていることへの専念の、気づきと正知の、四つの気づきの確立( 四念住・四念処:身体と感受と心と法についての気づき) の修行への専念の、四つの正しい精励 (四正勤:既生の悪を断絶するべく励むこと・未生の悪を生起させないように励むこと・未生の善を生起させるように励むこと・既生の善を増大するべく励むこと)の……四つの神通の足場 ( 四神足:意欲・専心・精進・考察) の……五つの機能 (五根 :信・精進・気づき・禅定・智慧) の……五つの力 ( 五力 :信・精進・気づき・禅定・智慧) の……七つの覚りの支分( 七覚支:気づき・法の判別・精進・喜悦・静息・禅定・放捨) の……聖なる八つの支分ある道 (八正道 ・ 八聖道:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定) の修行への専念の⸺これらの善なる法 (性質)の、障りのために、遍き衰退のために、等しく転起する。このように、遍き衰退のために等しく転起する、ということで、「諸々の危難」。
(3)どのように、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」となるのか。そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。たとえば、穴には穴に依拠する命あるものたちが臥し、水には水に依拠する命あるものたちが臥し、林には林に依拠する命あるものたちが臥し、木には木に依拠する命あるものたちが臥すように、まさしく、このように、そこにおいて、これらの悪しき善ならざる法(性質)が生起し、自己状態の依所とする。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。
まさに、このことが、世尊によって説かれた。
「比丘たちよ、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます。比丘たちよ、では、どのように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、 〔世に〕 住むのですか。比丘たちよ、ここに、比丘に、眼によって、形態を見て、それらの悪しき善ならざる法(性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) が流れ込む (アンヴァーサヴァティ)、ということで、それゆえに、『内弟子 (アンテーヴァーシカ)を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法 (性質) が、彼に慣行となる (サムダーチャラティ)、ということで、それゆえに、『師匠 (アーチャリヤ)を有する』と説かれます。
比丘たちよ、さらに、また、他に、比丘に、耳によって、音声を聞いて……略……鼻によって、臭気を嗅いで……舌によって、味感を味わって……身によって、感触と接触して……意によって、法(意の対象) を識知して、それらの悪しき善ならざる法 (性質)である思念や思惟が、束縛されるべきものとして生起します。それらは、彼の内に住します。諸々の悪しき善ならざる法 (性質)が流れ込む、ということで、それゆえに、『内弟子を有する』と説かれます。それらは、彼に慣行となります。諸々の悪しき善ならざる法(性質)が、彼に慣行となる、ということで、それゆえに、『師匠を有する』と説かれます。比丘たちよ、まさに、このように、内弟子を有し師匠を有する比丘は、苦痛のうちに、平穏ならずに、〔世に〕住みます」と。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。
まさに、このことが、世尊によって説かれた。
「比丘たちよ、三つのものがあります。これらの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益)に反する者となるものです。どのようなものが、三つのものなのですか。比丘たちよ、貪欲 (貪 )は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義 (利益) に反する者となるものです。憤怒 (瞋 ) は……略……。迷妄 (痴 )は、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義 (利益)に反する者となるものです。比丘たちよ、まさに、これらの三つの、内なる垢となり、内なる朋友ならざる者となり、内なる敵となり、内なる殺戮者となり、内なる義(利益) に反する者となるものがあります。
〔そこで、詩偈に言う〕 『義 (道理)ならざるものを生むのが、貪欲 〔の思い〕 である。 〔人の〕 心を乱すのが、貪欲 〔の思い〕 である。〔心の〕 内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。
貪る者は、義 (道理)を知らない。貪る者は、法 (真理) を見ない。すなわち、人を、貪欲〔の思い〕 が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。
義 (道理)ならざるものを生むのが、憤怒 〔の思い〕 である。 〔人の〕 心を乱すのが、憤怒 〔の思い〕 である。〔心の〕 内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。
怒る者は、義 (道理)を知らない。怒る者は、法 (真理) を見ない。すなわち、人を、憤怒〔の思い〕 が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る。
義 (道理)ならざるものを生むのが、迷妄 〔の思い〕 である。 〔人の〕 心を乱すのが、迷妄 〔の思い〕 である。〔心の〕 内から生じた恐怖を、それを、人は覚らない。
迷う者は、義 (道理)を知らない。迷う者は、法 (真理) を見ない。すなわち、人を、迷妄〔の思い〕 が打ち負かすなら、そのとき、暗愚の闇と成る』」と。
このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。
まさに、このこともまた、世尊によって説かれた。「大王よ、三つのものがあります。まさに、 〔これらの〕 法 (性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。どのようなものが、三つのものなのですか。大王よ、まさに、貪欲という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、憤怒という……略……。大王よ、まさに、迷妄という法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。大王よ、まさに、これらの三つの法(性質)が、人の、利益ならざるもののために、苦痛のために、平穏ならざる住のために、内に生起しつつ生起します。
〔そこで、詩偈に言う〕 『貪欲が、そして、憤怒が、さらに、迷妄が、悪しき心の人を害する⸺果を有する竹が〔自らを滅ぼす〕 ように、自己から発生した 〔三つのもの〕 が』」と。
このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。
さらに、このこともまた、世尊によって説かれた。
〔そこで、詩偈に言う〕 「そして、貪欲は、さらに、憤怒は、因縁として 〔まさに〕 これ 〔自身〕 から 〔生じる〕 (自己自身から生起する) 。不満〔の思い〕 と歓楽 〔の思い〕と身の毛のよだつ 〔思い〕 は、 〔まさに〕 これ 〔自身〕 から生じる。諸々の思考は、〔まさに〕 これ 〔自身〕から現起して、 〔善き〕 意を 〔投げ捨てる〕 ⸺少年たちが、 〔足を縛った〕 烏を〔遊び目的で〕 投げ捨てるように」と。
このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「世において」とは、人間の世において。ということで、「世において、どれだけの危難があるのですか」。
「 〔いまだ〕赴かざる方角 (涅槃) に赴きつつある者にとって」とは、 〔いまだ〕 赴かざる方角は、不死なる涅槃と説かれる。すなわち、 〔まさに〕 その、一切の形成 〔作用〕の止寂、一切の依り所の放棄、渇愛の滅尽、離貪、止滅、涅槃である。過去に赴いたことなき、その方角は、この長時にあって、過去に赴いたことがある、その方角ではない。
〔そこで、詩偈に言う〕「あたかも、残すことなく縁まで一杯の油の鉢を持ち運ぶように、このように、自らの心を守るがよい⸺過去に赴いたことなき方角を望み求めているなら」〔と〕 ⸺
過去に赴いたことなき方角に、行きつつある者にとって、赴きつつある者にとって、進みつつある者にとって。ということで、「〔いまだ〕 赴かざる方角に赴きつつある者にとって」。
「それらを征服するのが、比丘であるとして」とは、「それらを」とは、それらの危難を、等しく征服するべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「それらを征服するのが、比丘であるとして」。
「辺地の臥坐所において」とは、辺地において、辺境において、最辺地において、あるいは、岩の辺地において、あるいは、林の辺地において、あるいは、川の辺地において、あるいは、水の辺地において、そこにおいては、耕されず、蒔かれず、人境を超え行って、人間たちの行境にあらざる臥坐所において。ということで、「辺地の臥坐所において」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「 〔いまだ〕赴かざる方角 (涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。辺地の臥坐所において、それらを征服するのが、比丘であるとして」と。
967. (961) 彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途 (言葉の用い方) として存するべきですか。彼にとって、どのようなものが、この 〔世において〕 、諸々の境涯 (行為のあり方)として存するべきですか。自己を精励する (全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって、どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか。 (7)
「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途 (言葉の用い方) として存するべきですか」とは、「どのような言葉の用途を、何を確立した〔言葉の用途〕 を、何を流儀とする 〔言葉の用途〕 を、何を相似とする 〔言葉の用途〕を、具備した者として 〔世に〕存するべきであるのか」と、言葉の完全なる清浄を尋ねる。どのようなものが、言葉の完全なる清浄であるのか。ここに、比丘が、(1)虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕 にとって言葉を違えない者として、 〔世に〕 有る。 (2)中傷の言葉を捨棄して、中傷の言葉から離間した者として 〔世に〕 有る。こちらで聞いて〔そののち〕、こちらの者たちを分裂させるために、そちらで告知する者ではなく、あるいは、そちらで聞いて 〔そののち〕、そちらの者たちを分裂させるために、こちらの者たちに告知する者ではなく、かくのごとく、あるいは、分裂した者たちを和解する者として、あるいは、融和している者たちに〔さらなる融和を〕付与する者として、和合を喜びとする者として、和合を喜ぶ者として、和合を愉悦とする者として、和合を作り為す言葉を語る者として、〔世に〕 有る。 (3)粗暴な言葉を捨棄して、粗暴な言葉から離間した者として 〔世に〕有る。すなわち、その言葉が、無欠で、耳に楽しく、愛すべきで、心臓に至り、上品で、多くの人々にとって愛らしく、多くの人々の意に適うものであるなら、そのような形態の言葉を語る者として〔世に〕 有る。 (4)雑駁な虚論を捨棄して、雑駁な虚論から離間した者として 〔世に〕 有る。〔正しい〕 時に説く者として、事実を説く者として、義 (意味) を説く者として、法 (教え)を説く者として、律を説く者として、安置する 〔価値〕 ある言葉を⸺〔正しい〕 時に、理由を有し、結末がある、義 (道理) を伴った 〔言葉〕 を⸺語る者として、〔世に〕 有る。 〔彼は〕四つの言葉による善き行ない (虚偽を説かないこと・中傷の言葉なきこと・粗暴な言葉なきこと・雑駁な虚論なきこと)を具備した者として、四つの汚点から離れ去った言葉を語り、三十二の畜生の議論 (無用論・無駄話:[1449]参照)から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、制約を離れることを為した心で〔世に〕 住む。 〔彼は〕十の議論の基盤 (根拠) を議論する。それは、すなわち、この、(1) 少なき欲求たること (少欲 ) についての議論を議論し、 (2) 満ち足りていること ( 知足) についての議論を議論し、 (3) 遠離についての議論を……(4) 〔世俗と〕交わりなきことについての議論を…… (5) 精進勉励についての議論を……(6) 戒についての議論を…… (7) 禅定についての議論を…… (8)智慧についての議論を…… (9) 解脱についての議論を…… (10) 解脱の知見についての議論を…… 〔四つの〕気づきの確立 ( 四念住・四念処 )についての議論を…… 〔四つの〕 正しい精励 (四正勤 ) についての議論を…… 〔四つの〕 神通の足場 ( 四神足) についての議論を…… 〔五つの〕 機能 ( 五根 ) についての議論を…… 〔五つの〕 力 ( 五力) についての議論を…… 〔七つの〕 覚りの支分( 七覚支 ) についての議論を……〔聖者の〕 道 (預流道・一来道・不還道・阿羅漢道) についての議論を…… 〔沙門の〕 果 (預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)についての議論を……涅槃についての議論を議論する⸺言葉によって、 〔自己が〕制された者として、 〔自己が〕 傾念された者として、 〔自己が〕 遍く傾念された者として、 〔自己が〕守られた者として、 〔自己が〕 保護された者として、 〔自己が〕守護された者として、統御された者として。これが、言葉の完全なる清浄である。このような言葉の完全なる清浄を具備した者として、〔彼は〕存するべきである。ということで、「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途として存するべきですか」。
「彼にとって、どのようなものが、この 〔世において〕 、諸々の境涯 (行為のあり方)として存するべきですか」とは、「どのような境涯を、何を確立した 〔境涯〕を、何を流儀とする 〔境涯〕 を、何を相似とする 〔境涯〕 を、具備した者として 〔世に〕存するべきであるのか」と、境涯を尋ねる。 (1) 〔正しい〕 境涯が存在し、 (2)〔正しい〕 境涯ならざるものが存在する。
(2)どのようなものが、 〔正しい〕境涯ならざるものであるのか。ここに、一部の者は、あるいは、娼婦を境涯とする者 (娼婦のもとに足しげく通う者) として 〔世に〕有り、あるいは、寡婦を境涯とする者として 〔世に〕有り、あるいは、年増娘を境涯とする者として 〔世に〕有り、あるいは、陰間を境涯とする者として 〔世に〕有り、あるいは、比丘尼を境涯とする者として 〔世に〕有り、あるいは、酒場を境涯とする者として 〔世に〕有り、王たちと、王の大臣たちと、異教の者たちと、異教の弟子たちと、 〔正しい行為に〕随順しない交わり方で交わる者として 〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに、比丘尼たちに、在俗信者たちに、在俗女性信者たちに、信なく、清信なく、給水者と成ることなく(布施をしない) 、罵倒し誹謗し、義 (利益) なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲する 〔家々〕 であるとして、そのような形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕 境涯ならざるものと説かれる。
さらに、あるいは、町中へと入り、街路を行き、 〔心が〕 統御されていない者として赴く。象 〔兵〕を眺めながら、馬 〔兵〕 を眺めながら、車 〔兵〕 を眺めながら、歩 〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。これもまた、〔正しい〕 境涯ならざるものと説かれる。
さらに、あるいは、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と 〔成る〕 。……略 ([1443]参照)……。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象) を識知して、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と〔成る〕 。すなわち、意の機能が統御されず、 〔世に〕 住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法 (性質)である強欲 〔の思い〕 や失意 〔の思い〕 が流れ込むことから、これを事因として、その 〔意〕 の統御のために実践せず、意の機能を守らず、意の機能における統御を惹起しない。これもまた、〔正しい〕 境涯ならざるものと説かれる。
また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて 〔そののち〕 、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念する者たちとして 〔世に〕 住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃 (シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の演芸の見物に専念する者として〔世に〕 有る。これもまた、 〔正しい〕 境涯ならざるものと説かれる。
五つの欲望の属性 (五妙欲 :色・声・香・味・触) もまた、 〔正しい〕 境涯ならざるものである。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、〔自己の〕 境涯ならざる他者の境域を歩んではいけません。比丘たちよ、〔自己の〕 境涯ならざる他者の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕 を得るでしょうし、悪魔は、 〔侵入の〕 対象 ( 所縁) を得るでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、 〔自己の〕境涯ならざる他者の境域なのですか。すなわち、この、五つの欲望の属性です。どのようなものが、五つのものなのですか。眼によって識知されるべき諸々の形態で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものであり、耳によって識知されるべき諸々の音声で……鼻によって識知されるべき諸々の臭気で……舌によって識知されるべき諸々の味感で……身によって識知されるべき諸々の感触で、好ましく愛らしく意に適い、愛しい形態にして欲望を伴った貪るべきものです。比丘たちよ、これが、比丘にとって、〔正しい〕 境涯ならざる他者の境域と説かれます」 〔と〕 。これもまた、 〔正しい〕境涯ならざるものと説かれる。
(1)どのようなものが、 〔正しい〕 境涯であるのか。ここに、比丘が、娼婦を境涯とする者(娼婦のもとに足しげく通う者) ではなく 〔世に〕 有り、寡婦を境涯とする者ではなく 〔世に〕有り、年増娘を境涯とする者ではなく 〔世に〕 有り、陰間を境涯とする者ではなく〔世に〕 有り、比丘尼を境涯とする者ではなく 〔世に〕 有り、酒場を境涯とする者ではなく 〔世に〕有り、王たちと、王の大臣たちと、異教の者たちと、異教の弟子たちと、 〔正しい行為に〕随順しない交わり方で交わらない者として 〔世に〕住む。また、あるいは、すなわち、それらの家々が、比丘たちに、比丘尼たちに、在俗信者たちに、在俗女性信者たちに、信あり、清信あり、給水者と成り(布施をする) 、袈裟を灯火とし、聖賢の風が行き来し、義 (利益) を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する 〔家々〕 であるとして、そのような形態の家々に、慣れ親しみ、親近し、奉侍する。これが、〔正しい〕 境涯と説かれる。
さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕 統御された者として赴く。象 〔兵〕 を眺めることなく、馬 〔兵〕 を眺めることなく、車〔兵〕 を眺めることなく、歩 〔兵〕を眺めることなく、女たちを眺めることなく、男たちを眺めることなく、少女たちを眺めることなく、少年たちを眺めることなく、店の内を眺めることなく、家の入り口を眺めることなく、上を眺めることなく、下を眺めることなく、方々を眺め見ることなく、赴く。これもまた、〔正しい〕 境涯と説かれる。
さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず……略 ([1446]参照)……。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象) を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕 ない。すなわち、意の機能が統御されず、 〔世に〕 住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法 (性質)である強欲 〔の思い〕 や失意 〔の思い〕 が流れ込むことから、これを事因として、その 〔意〕 の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起する。これもまた、〔正しい〕 境涯と説かれる。
また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて 〔そののち〕 、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念しない者たちとして 〔世に〕住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽……略……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の演芸の見物から離間した者として〔世に〕 有る。これもまた、 〔正しい〕 境涯と説かれる。
四つの気づきの確立 (四念住・四念処 :身体と感受と心と法についての気づき) もまた、〔正しい〕 境涯である。まさに、このことが、世尊によって説かれた。「比丘たちよ、〔自己の〕 境涯である自らの父祖の境域を歩みなさい。比丘たちよ、〔自己の〕 境涯である自らの父祖の境域を歩んでいる者たちに、悪魔は、侵入〔の機会〕 を得ないでしょうし、悪魔は、 〔侵入の〕 対象を得ないでしょう。比丘たちよ、では、何が、比丘にとって、 〔自己の〕境涯である自らの父祖の境域なのですか。すなわち、この、四つの気づきの確立です。どのようなものが、四つのものなのですか。比丘たちよ、ここに、比丘が、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲 〔の思い〕 と失意 〔の思い〕を取り除いて。諸々の感受における……略……。心における……。諸々の法 (性質)における法 (性質) の随観ある者として 〔世に〕 住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕 と失意 〔の思い〕を取り除いて。比丘たちよ、これが、比丘にとって、 〔正しい〕境涯たる自らの父祖の境域と説かれます」 〔と〕 。これもまた、〔正しい〕 境涯と説かれる。このような境涯を具備した者として、〔彼は〕 存するべきである。ということで、「彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕 、諸々の境涯として存するべきですか」。
「どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」とは、「どのような戒や掟を、何を確立した 〔戒や掟〕 を、何を流儀とする 〔戒や掟〕を、何を相似とする 〔戒や掟〕 を、具備した者として 〔世に〕存するべきであるのか」と、戒や掟の完全なる清浄を尋ねる。どのようなものが、戒や掟の完全なる清浄であるのか。 (1) まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるものが存在する。 (2) 掟ではあるが、戒ではないものが存在する。 (1)どのように、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもあるのか。ここに、比丘が、戒ある者として 〔世に〕 有り、戒条 ( 波羅提木叉:戒律条項) による統御によって統御された者として 〔世に〕 住み、〔正しい〕 習行と 〔正しい〕境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、 〔戒を〕受持して、諸々の学びの境処 (戒律)において学ぶ。すなわち、そこにおける、自制、統御、違犯なきことが、これが、戒であり、すなわち、受持することが、それが、掟である。統御の義(意味) によって、戒となり、受持の義 (意味) によって、掟となる。これが、まさしく、そして、戒でもあり、さらに、掟でもある、と説かれる。
(2)どのように、掟ではあるが、戒ではないのか。八つの払拭 〔行〕( 頭陀 )の支分がある。林にある者についての支分、 〔行乞の〕施食の者についての支分、糞掃衣の者についての支分、三つの衣料の者についての支分、 〔家々の貧富を選ばず〕 歩々淡々と歩む者についての支分、 〔決められた時間〕 以後の食を否とする者についての支分、常坐 〔にして不臥〕 なる者についての支分、 〔坐具が〕広げられたとおり 〔の場所〕にある者についての支分である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「かつまた、皮膚も、かつまた、腱も、かつまた、骨も、欲するままに乾いてしまえ。肉体における肉と血は、干上がってしまえ。すなわち、それが、人の強靭によって、人の活力によって、人の精進によって、人の勤勉によって、至り得られるべきであるなら、それに至り得ずして、精進の確立は有ることなし」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持である。これが、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。
〔そこで、詩偈に言う〕 「 〔わたしは〕食べないであろう、飲まないであろう、さらに、精舎から出ないであろう、また、脇をつけて横たわらないであろう (横になって寝ない) ⸺渇愛の矢が打破されないうちは」と⸺
心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この結跏を破らないであろう⸺すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「それまで、わたしは、この坐から出起しないであろう……。「それまで、わたしは、この〔瞑想のための〕歩行場から降りないであろう……精舎から出ないであろう……半屋根から出ないであろう……高楼から出ないであろう……楼房から出ないであろう……洞窟から出ないであろう……山窟から出ないであろう……小屋から出ないであろう……楼閣から出ないであろう……見張塔から出ないであろう……円室から出ないであろう……堂舎から出ないであろう……奉仕堂から出ないであろう……天幕から出ないであろう……。「それまで、わたしは、この木の根元から出ないであろう⸺すなわち、わたしの心が、〔何も〕執取せずして、諸々の煩悩から解脱しないかぎりは」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、早刻時に、聖なる法(教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。「まさしく、この、日中時に……略……夕刻時に……食前に……食後に……初更(宵の内) に……中更 (真夜中)に……後更 (明け方) に……黒 〔分〕 (月が欠ける期間) に……白〔分〕 (月が満ちる期間)に……雨期に……冬に……夏に……初年期 (青年期) に……中年期(壮年期) に……後年期 (老年期) に、聖なる法 (教え)を、将来するのだ、等しく将来するのだ、到達するのだ、体得するのだ、実証するのだ」と、心を励起し、精励する。このような形態の精進の受持もまた、掟ではあるが、戒ではない、と説かれる。これが、戒や掟の完全なる清浄である。このような戒や掟の完全なる清浄を具備した者として、〔彼は〕存するべきである。ということで、「どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」。
「自己を精励する (全身全霊を挙げて刻苦精励する) 比丘にとって」とは、「自己を精励する」とは、諸々の善なる法(性質) において、精進に励む者にとって、強靭に至った者にとって、断固たる勤勉〔努力〕 ある者にとって、欲 〔の思い〕 (意欲) を捨て置かない者(道心堅固の者) にとって、重荷を捨て置かない者 (忍耐強固の者) にとって。さらに、あるいは、自己に命じる者にとって⸺すなわち、 〔彼の〕 自己が、かつまた、自己の義 (意味)について、かつまた、正理について、かつまた、特相について、かつまた、契機について、かつまた、状況あることと状況なきこと(道理あることと道理なきこと) について、命じられたなら、 〔その彼にとって〕 。「一切の形成 〔作用〕は、無常である ( 諸行無常 )」と、自己に命じる者にとって。「一切の形成 〔作用〕 は、苦痛である( 一切皆苦 )」と、自己に命じる者にとって。「一切の法 (事象) は、無我である( 諸法無我 )」と、自己に命じる者にとって。「無明という縁あることから、諸々の形成 〔作用〕がある」と、自己に命じる者にとって。……略 ([324]参照)……。「生という縁あることから、老と死がある」と、自己に命じる者にとって。「無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕 の止滅がある」と、自己に命じる者にとって。……略 ([324]参照)……。「生の止滅あることから、老と死の止滅がある」と、自己に命じる者にとって。「これは、苦しみである」と、自己に命じる者にとって。……略([324]参照) ……。「これは、苦しみの止滅に至る 〔実践の〕道である」と、自己に命じる者にとって。「これらは、諸々の煩悩である」と、自己に命じる者にとって。……略 ([324]参照) ……。「これは、諸々の煩悩の止滅に至る 〔実践の〕 道である」と、自己に命じる者にとって。「これらの法 (性質) は、証知されるべきである」と、自己に命じる者にとって。……略 ([324]参照) ……。「これらの法 (性質)は、実証されるべきである」と、自己に命じる者にとって。六つの接触ある 〔認識の〕場所 ( 六触処:眼触処・耳触処・鼻触処・舌触処・身触処・意触処)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。五つの〔心身を構成する〕 執取の範疇 (五取蘊 :色取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。四つの大いなる元素( 四大種 :地・水・火・風)の、そして、集起を、さらに、滅至を、そして、悦楽を、かつまた、危険を、さらに、出離を、自己に命じる者にとって。「それが何であれ、集起の法(性質) であるなら、その全てが、止滅の法 (性質)である」と、自己に命じる者にとって。「比丘にとって」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘にとって、あるいは、 〔いまだ〕 学びある比丘にとって。ということで、「自己を精励する比丘にとって」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「彼にとって、どのようなものが、諸々の言葉の用途(言葉の用い方) として存するべきですか。彼にとって、どのようなものが、この〔世において〕 、諸々の境涯 (行為のあり方) として存するべきですか。自己を精励する (全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘にとって、どのようなものが、諸々の戒や掟として存するべきですか」と。
968. (962) 彼は、どのような学びを受持して、 〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、鍛冶屋が銀の 〔垢を取り除く〕 ように、自己の垢を取り払うのですか。 (8)
「彼は、どのような学びを受持して」とは、彼は、どのような学びを、取って、受持して、執取して、等しく執取して、収取して、偏執して、固着して。ということで、「彼は、どのような学びを受持して」。
「 〔心が〕専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり」とは、「 〔心が〕専一なる者」とは、一境の心ある者、散乱なき心ある者、乱雑なき意図ある者、 〔心の〕止寂 ( 奢摩他・止 :集中瞑想) 、禅定の機能( 定根 ) 、禅定の力 ( 定力 ) 、正しい禅定 (正定 )。「賢明なる者」とは、賢明なる者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質) における法 (性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略 ([31-33]参照)……彼は、気づきある者と説かれる。「彼は、どのような学びを受持して」とは、卓越の戒の学びを尋ねる。「 〔心が〕 専一なる者となり」とは、卓越の心 (瞑想)の学びを尋ねる。「賢明なる者となり」とは、卓越の智慧の学びを尋ねる。「気づきある者となり」とは、完全なる清浄を尋ねる。ということで、「彼は、どのような学びを受持して、〔心が〕 専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり」。
「鍛冶屋が銀の 〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うのですか」とは、鍛冶屋は、金工と説かれる。銀は、黄金と説かれる。たとえば、金工が、黄金の、粗大なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、中等なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、微細なる垢をもまた、吹き、等しく吹き、取り払うように、まさしく、このように、比丘は、自己の、諸々の粗大なる〔心の〕汚れをもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせ、諸々の中等なる 〔心の〕 汚れをもまた……諸々の微細なる 〔心の〕汚れをもまた、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。
さらに、あるいは、比丘は、自己の、貪欲の垢を、憤怒の垢を、迷妄の垢を、思量の垢を、見解の垢を、 〔心の〕汚れの垢を、悪しき行ないの垢を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。
さらに、あるいは、正しい見解 (正見 ) によって、誤った見解 (邪見 )を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせ、正しい思惟 (正思惟 ) によって、誤った思惟 (邪思惟 ) を……略……正しい言葉 (正語 ) によって、誤った言葉 (邪語 ) を……正しい行業 (正業 ) によって、誤った行業 (邪業 ) を……正しい生き方 (正命 ) によって、誤った生き方 (邪命 ) を……正しい努力 (正精進 ) によって、誤った努力 (邪精進 ) を……正しい気づき (正念 ) によって、誤った気づき (邪念 ) を……正しい禅定 (正定 ) によって、誤った禅定 (邪定 ) を……正しい知恵 (正智 ) によって、誤った知恵 (邪智 ) を……正しい解脱 (正解脱 ) によって、誤った解脱 (邪解脱 )を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。
さらに、あるいは、聖なる八つの支分ある道 ( 八正道 ・ 八聖道 )によって、一切の 〔心の〕汚れを、一切の悪しき行ないを、一切の懊悩を、一切の苦悶を、一切の熱苦を、一切の善ならざる行作を、吹き、等しく吹き、取り払い、捨棄し、除去し、終息を為し、状態なきへと至らせる。ということで、「鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕 ように、自己の垢を取り払うのですか」。
それによって、サーリプッタ長老が言った。
「彼は、どのような学びを受持して、 〔心が〕 専一なる者となり、賢明なる者となり、気づきある者となり、鍛冶屋が銀の 〔垢を取り除く〕 ように、自己の垢を取り払うのですか」と。
969. (963) かくのごとく、世尊は 〔答えた〕⸺サーリプッタよ、 〔世俗の生活を〕 忌避している者には、すなわち、この、平穏〔の境地〕 があります⸺ 〔無用となり〕 遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、 〔彼が〕 慣れ親しんでいるなら。正覚を欲する者のために、法 (真理) のままなる、そのとおりに、それを、あなたに言示しましょう⸺ 〔わたしが〕 覚知している、そのとおりに。 (9)
「 〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏 〔の境地〕 があります」とは、「〔世俗の生活を〕 忌避している者には」とは、生によって、 〔世俗の生活を〕忌避している者には、老によって……病によって……死によって……諸々の憂いによって……諸々の嘆きによって……諸々の苦痛によって……諸々の失意によって……諸々の葛藤によって……略([1855]参照) ……見解の災厄の苦しみによって、 〔世俗の生活を〕忌避している者には、苦悩している者には、自責している者には、忌避している者には。ということで、「 〔世俗の生活を〕 忌避している者には」。「すなわち、この、平穏 〔の境地〕 があります」とは、すなわち、平穏の住があり、それを、 〔わたしは〕 言説するであろう。どのようなものが、平穏の住であるのか。正しい 〔実践の〕 道、 〔真理に〕 随順する〔実践の〕 道、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道、遮るものなき〔実践の〕 道、義 (意味)のままなる 〔実践の〕 道、法 (教え) が法 (教え) のままなる〔実践の〕 道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の 〔感官の〕 機能において門が守られていること、食について量を知ること、 〔眠らずに〕起きていることへの専念、気づきと正知、四つの気づきの確立、四つの正しい精励、四つの神通の足場、五つの機能、五つの力、七つの覚りの支分、聖なる八つの支分ある道、そして、涅槃であり、さらに、涅槃に至る〔実践の〕 道である。これが、平穏の住である。ということで、「〔世俗の生活を〕 忌避している者には、すなわち、この、平穏 〔の境地〕 があります」。
「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺サーリプッタよ」とは、その長老に、名前で語りかける。「世尊 (バガヴァント) 」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者 (バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛) を滅壊した者、ということで、「世尊」。 〔心の〕 汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法 (教え) の宝を、分けた (バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存 (バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者 (バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ) 、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を分有する者 (バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義 (意味) の味を、法(教え) の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心 (瞑想) を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想( 四禅 ) を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心) を、四つの形態なき 〔行境〕 への入定 (四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱 (八解脱 ) を、八つの征服ある 〔認識の〕 場所 ( 八勝処) を、九つの順次の住への入定 ( 九次第定) を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき( 安般念 ) という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕 の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、 〔その〕 実証となる概念 ( 施設) であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺サーリプッタよ」。
「 〔無用となり〕遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、 〔彼が〕慣れ親しんでいるなら」とは、坐所は、そこにおいて坐るところと説かれる。坐床、椅子、敷布、座布団、皮革、草の敷物、葉の敷物、藁の敷物である。臥所は、臥坐所と説かれる。精舎、半屋根、高楼、楼房、洞窟である。その臥坐所は、正当ならざる形態を見ることから、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてあり、正当ならざる音声を聞くことから……略……正当ならざる五つの欲望の属性から、遠ざかったものとして、離れたものとして、遠離したものとしてある。その臥坐所に、慣れ親しんでいるとして、慣用しているとして、等しく慣れ親しんでいるとして、受用しているとして。ということで、「〔無用となり〕 遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、 〔彼が〕 慣れ親しんでいるなら」。
「正覚を欲する者のために、法 (真理) のままなる、そのとおりに」とは、正覚は、四つの 〔聖者の〕 道 (預流道・一来道・不還道・阿羅漢道)における、知恵 ( 智 ) 、智慧( 慧・般若 ) 、智慧の機能( 慧根 ) 、智慧の力 ( 慧力 ) 、法 (真理) の判別という正覚の支分 (択法覚支 ) 、 〔あるがままの〕考察、 〔あるがままの〕 観察 (毘鉢舎那・観 :観察瞑想) 、正しい見解 (正見 )、と説かれる。その正覚を、覚ることを欲する者のために、随覚することを欲する者のために、醒覚することを欲する者のために、正覚することを欲する者のために、到達することを欲する者のために、体得することを欲する者のために、実証することを欲する者のために。ということで、「正覚を欲する者のために」。
「法 (真理)のままなる、そのとおりに」とは、どのようなものが、覚り ( 菩提) のための諸々の法 (真理) のままなるものであるのか。正しい〔実践の〕 道、 〔真理に〕随順する 〔実践の〕 道、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道、遮るものなき〔実践の〕 道、義 (意味)のままなる 〔実践の〕 道、法 (教え) が法 (教え) のままなる〔実践の〕 道、諸戒における円満成就を作り為すこと、諸々の 〔感官の〕 機能において門が守られていること、食について量を知ること、 〔眠らずに〕 起きていることへの専念、気づきと正知、これらが、覚りのための諸々の法 (真理) のままなるものと説かれる。さらに、あるいは、四つの 〔聖者の〕 道の、前段部分における 〔あるがままの〕観察、これらが、覚りのための諸々の法 (真理)のままなるものと説かれる。ということで、「正覚を欲する者のために、法 (真理)のままなる、そのとおりに」。
「それを、あなたに言示しましょう⸺ 〔わたしが〕 覚知している、そのとおりに」とは、「それを」とは、覚りのための法 (真理) のままなるものを。「言示しましょう」とは、 〔わたしは〕 言示するであろう、 〔わたしは〕告げ知らせるであろう、 〔わたしは〕 説示するであろう、 〔わたしは〕 報知するであろう、 〔わたしは〕確立するであろう、 〔わたしは〕 開顕するであろう、 〔わたしは〕 区分するであろう、 〔わたしは〕明瞭と為すであろう、 〔わたしは〕 明示するであろう。「 〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」とは、覚知している、そのとおりに、すなわち、覚知している者として、了知している者として、識知している者として、解知している者として、理解している者として、伝聞ではなく、伝説によってではなく、相伝によってではなく、典籍の成就(保持)によってではなく、考慮を因としてではなく、推論を因としてではなく、行相による思索 (考証) によってではなく、見解の納得による受認 (受諾)によってではなく、自らをもって、自ら、証知したものとして、自己の現見の法 (真理)を、それを、 〔わたしは〕言説するであろう。ということで、「それを、あなたに言示しましょう⸺ 〔わたしが〕覚知している、そのとおりに」。
それによって、世尊は言った。
かくのごとく、世尊は 〔答えた〕 ⸺「サーリプッタよ、 〔世俗の生活を〕忌避している者には、すなわち、この、平穏 〔の境地〕 があります⸺〔無用となり〕 遠ざけられた坐所と臥所に、まさに、 〔彼が〕 慣れ親しんでいるなら。正覚を欲する者のために、法 (真理) のままなる、そのとおりに、それを、あなたに言示しましょう⸺ 〔わたしが〕 覚知している、そのとおりに」と。
970. (964) 慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように。比丘は、気づきある者となり、制限を有する〔道〕 を歩む者 (戒律等の行為の制限を自らに課す者) となり、虻と蚋たちに、蛇たちに、人間たちとの接触(悪人と遭遇すること) に、四足 〔の動物〕 たちに、 〔恐怖しないように〕 。(10)
「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように」とは、「慧者」とは、慧者、賢者、智慧ある者、覚慧ある者、知恵ある者、分明ある者、思慮ある者。慧者は、五つの恐怖に、恐怖するべきではなく、恐れるべきではなく、等しく恐れるべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕 存するべきであり、 〔世に〕 住むべきである。ということで、「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように」。
「比丘は、気づきある者となり、制限を有する 〔道〕 を歩む者 (戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、 〔いまだ〕学びある比丘は。「気づきある者となり」とは、四つの契機によって、気づきある者となる。身体における身体の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となり、諸々の感受における……略……心における……諸々の法(性質) における法 (性質)の随観という気づきの確立を修行している者は、気づきある者となる。……略 ([31-33]参照) ……彼は、気づきある者と説かれる。「制限を有する 〔道〕 を歩む者となり」とは、四つの制限がある。 (1)戒による統御という制限、 (2) 〔感官の〕 機能における統御という制限、 (3)食について量を知ることという制限、 (4) 〔眠らずに〕 起きていることへの専念という制限である。
(1)どのようなものが、戒による統御という制限であるのか。ここに、比丘が、戒ある者として 〔世に〕 有り、戒条による統御によって統御された者として 〔世に〕 住み、 〔正しい〕 習行と〔正しい〕 境涯を成就した者として、諸々の微量の罪過について恐怖を見る者として、〔戒を〕 受持して、諸々の学びの境処 (戒律) において学ぶ。内なる腐敗の状態を注視しながら、戒による統御という制限の内を歩み、〔その〕 制約を破らない。これが、戒による統御という制限である。
(2)どのようなものが、 〔感官の〕機能における統御という制限であるのか。ここに、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕 ない。……略 ([1446]参照)……眼の機能における統御を惹起する。耳によって、音声を聞いて……。鼻によって、臭気を嗅いで……。舌によって、味感を味わって……。身によって、感触と接触して……。意によって、法(意の対象) を識知して、形相を収め取る者と成らず、付随する特徴を収め取る者と〔成ら〕 ない。すなわち、意の機能が統御されず、 〔世に〕 住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法 (性質)である強欲 〔の思い〕 や失意 〔の思い〕 が流れ込むことから、これを事因として、その 〔意〕の統御のために実践し、意の機能を守護し、意の機能における統御を惹起する。燃え盛るものの教相を注視しながら、 〔感官の〕 機能における統御という制限の内を歩み、 〔その〕 制約を破らない。これが、 〔感官の〕機能における統御という制限である。
(3)どのようなものが、食について量を知ることという制限であるのか。ここに、比丘が、根源のままに審慮して 〔そののち〕、食を食する⸺まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕 古い 〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい 〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、 〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう⸺かつまた、罪過なき 〔生〕が、かつまた、平穏の住が」と。車軸に塗油することや傷を覆うことや子の肉の喩えを注視しながら、食について量を知ることという制限の内を歩み、〔その〕 制約を破らない。これが、食について量を知ることという制限である。
(4)どのようなものが、 〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限であるのか。ここに、比丘が、昼には、歩行 〔瞑想〕と坐禅 〔瞑想〕 によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質)から、心を完全に清め、夜の初更のあいだ (宵の内) は、歩行〔瞑想〕 と坐禅 〔瞑想〕によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質) から、心を完全に清め、夜の中更のあいだ (真夜中) は、気づきと正知の者として、 〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営み (右脇を下にして獅子のように臥す) 、夜の後更のあいだ (明け方) は、歩行 〔瞑想〕 と坐禅〔瞑想〕 によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質)から、心を完全に清める。賢く幸いなる一夜ある者の住 (中部経典第一三一『一夜賢者経』参照) を注視しながら、 〔眠らずに〕 起きていることへの専念という制限の内を歩み、 〔その〕 制約を破らない。これが、 〔眠らずに〕起きていることへの専念という制限である。ということで、「比丘は、気づきある者となり、制限を有する 〔道〕 を歩む者となり」。
「虻と蚋たちに、蛇たちに」とは、虻たちは、赤眼蝿たちと説かれる。蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれる。何を契機とすることから、蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれるのか。彼らは、飛び上がっては飛び上がって喰う。それを契機とすることから、蚋たちは、一切もろともの蝿の衆と説かれる。蛇(サリーサパ) たちは、蛇 (アヒ) たちと説かれる。ということで、「虻と蚋たちに、蛇たちに」。
「人間たちとの接触 (悪人と遭遇すること) に、四足 〔の動物〕 たちに、〔恐怖しないように〕 」とは、人間たちとの接触は、あるいは、盗賊たちが、あるいは、〔狂暴な〕 若者たちが⸺あるいは、 〔すでに〕 行為を為した者 (既遂の者)たちとして、あるいは、 〔いまだ〕 行為を為していない者 (未遂の者) たちとして⸺存するべきであり、 〔そのような者たちと〕説かれる。彼らは、比丘に、あるいは、問いを尋ねるであろう、あるいは、論を提起するであろう、罵倒するであろう、誹謗するであろう、悩ませるであろう、苦しめるであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。それが何であれ、人間からの害障は、人間の接触である。「四足〔の動物〕 たちに」とは、獅子たち、虎たち、豹たち、熊たち、鬣狗(ハイエナ)たち、狼たち、水牛たち、象たち。彼らは、比丘を、踏み敷くであろう、喰うであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。四足〔の動物〕 からの害障は、それが何であれ、四足 〔の動物〕 の恐怖である。ということで、「人間たちとの接触に、四足 〔の動物〕 たちに、 〔恐怖しないように〕 」。
それによって、世尊は言った。
「慧者は、五つの恐怖に恐怖しないように。比丘は、気づきある者となり、制限を有する 〔道〕 を歩む者 (戒律等の行為の制限を自らに課す者)となり、虻と蚋たちに、蛇たちに、人間たちとの接触 (悪人と遭遇すること) に、四足〔の動物〕 たちに、 〔恐怖しないように〕 」と。
971. (965) また、他の法 (教え) にしたがう者(異教徒)たちに⸺たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても⸺恐慌しないように。そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように。(11)
「また、他の法 (教え)にしたがう者 (異教徒)たちに⸺たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても⸺恐慌しないように」とは、他の法 (教え) にしたがう者たちは、法 (教え) を共にする七者(比丘・比丘尼・正学女・沙弥・沙弥尼・在俗信者・女性在俗信者)を除いて、彼らが誰であれ、覚者にたいし、法 (教え)にたいし、僧団にたいし、清信していない者たちと説かれる。彼らは、比丘に、あるいは、問いを尋ねるであろう、あるいは、論を提起するであろう、罵倒するであろう、誹謗するであろう、悩ませるであろう、苦しめるであろう、害するであろう、悩害するであろう、傷つけるであろう、悩み苦しめるであろう、傷害するであろう、害障するであろう、あるいは、害障を為すであろう。彼らの、多くの恐ろしいことを、あるいは、見て、あるいは、聞いて、動揺するべきではなく、強く動揺するべきではなく、等しく動揺するべきではなく、恐れるべきではなく、恐慌するべきではなく、恐懼するべきではなく、遍く恐れるべきではなく、恐怖するべきではなく、恐慌を惹起するべきではなく、恐怖なき者として、驚愕なき者として、恐懼なき者として、逃げない者として、恐怖と恐ろしさを捨棄した者として、身の毛のよだつことを離れ去った者として、〔世に〕 存するべきであり、 〔世に〕 住むべきである。ということで、「また、他の法 (教え) にしたがう者たちに⸺たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても⸺恐慌しないように」。
「そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」とは、そこで、他にもまた、諸々の等しく征服されるべきものが、諸々の征服されるべきものが、諸々の覆い尽くされるべきものが、諸々の完全に奪い去られるべきものが、諸々の踏みにじられるべきものが、存在する。「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。(1) そして、諸々の明白なる危難であり、 (2) さらに、諸々の隠蔽された危難である。……略 ([48-69]参照)……。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「善を追い求める者となり」とは、正しい〔実践の〕 道を、 〔真理に〕随順する 〔実践の〕 道を、正反対のもの (敵対者) なき 〔実践の〕 道を、遮るものなき〔実践の〕 道を、義 (意味)のままなる 〔実践の〕 道を……略 ([50]参照) ……聖なる八つの支分ある道を、そして、涅槃を、さらに、涅槃に至る 〔実践の〕道を、探し求めている者によって、追求している者によって、遍く探し求めている者によって、諸々の危難が、等しく征服されるべきであり、征服されるべきであり、覆い尽くされるべきであり、完全に奪い去られるべきであり、踏みにじられるべきである。ということで、「そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」。
それによって、世尊は言った。
「また、他の法 (教え) にしたがう者 (異教徒)たちに⸺たとえ、彼らの、多くの恐ろしいことを見ても⸺恐慌しないように。そこで、善を追い求める者となり、他の諸々の危難を征服するように」と。
972. (966)病いに罹り、飢えに襲われたとして、寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら 〔の危難〕 に、多種に襲われたとして、精進と勤勉 〔努力〕を、断固として為すように。 (12)
「病いに罹り、飢えに襲われたとして」とは、病いに罹った者は、病の接触ある者と説かれる。病の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕 存するなら。眼の病によって、襲われ、打ち負かされ、 〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕存するなら、耳の病によって……鼻の病によって……舌の病によって……身の病によって……略 ([1456]参照) ……諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕 存するなら。飢えは、空腹と説かれる。空腹の接触によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕 存するなら。ということで、「病いに罹り、飢えに襲われたとして」。
「寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように」とは、「寒さ」とは、二つの契機によって、寒さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、寒さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、寒さと成る。「暑さ」とは、二つの契機によって、暑さと成る。あるいは、内部の界域の動乱(体調不良)を所以に、暑さと成り、あるいは、外なる季節を所以に、暑さと成る。ということで、「寒さを、さらに、暑さを」。「耐え忍ぶように」とは、忍耐ある者として〔世に〕存するべきである。寒さに、暑さに、飢えに、渇きに、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触に、悪しく説かれ悪しく言及された諸々の言葉の用途に、肉体のものとして生起した強烈で粗野で辛辣で不快で意に適わず生を奪う諸々の苦痛の感受に、耐え忍ぶ類の者として〔世に〕存するべきである。ということで、「寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように」。
「家なき者たる彼は、それら 〔の危難〕 に、多種に襲われたとして」とは、「彼は、それら 〔の危難〕に」とは、そして、病悩の接触によって、そして、飢えによって、そして、寒さによって、そして、暑さによって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕 存するなら。ということで、「彼は、それら 〔の危難〕 に、襲われたとして」。「多種に」とは、無数なる種類の行相によって、襲われ、打ち負かされ、〔それを〕 配備し具備した者として、 〔世に〕 存するなら。ということで、「彼は、それら 〔の危難〕 に、多種に襲われたとして」。「家なき者 (アノーカ) 」とは、諸々の行作を共具した識知 〔作用〕のための機会 (オーカ)を作らない、ということでもまた、「家なき者」。さらに、あるいは、身体による悪しき行ないのための、言葉による悪しき行ないのための、意による悪しき行ないのための、機会を作らない、ということでもまた、「家なき者」。ということで、「家なき者たる彼は、それら〔の危難〕 に、多種に襲われたとして」。
「精進と勤勉 〔努力〕を、断固として為すように」とは、精進と勤勉 〔努力〕は、すなわち、心の属性にして、精進勉励、勤しむこと、勤勉、努めること、努力、邁進、勤勇、反転なき 〔精励〕 、強靭、 〔道心〕堅固、緩慢ならざる勤勉たること、欲 〔の思い〕 (意欲) を捨て置かないこと、重荷を捨て置かないこと、重荷の堅持、精進、精進の機能 ( 精進根 ) 、精進の力 (精進力 ) 、正しい努力 (正精進 ) である。「精進と勤勉 〔努力〕 を、断固として為すように」とは、精進を、勤勉 〔努力〕を、断固として為すべきであり、強固として為すべきであり、断固たる受持ある者として、受持を確立した者として、 〔世に〕 存するべきである。ということで、「精進と勤勉 〔努力〕 を、断固として為すように」。
それによって、世尊は言った。
「病いに罹り、飢えに襲われたとして、寒さを、さらに、暑さを、耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら 〔の危難〕 に、多種に襲われたとして、精進と勤勉 〔努力〕を、断固として為すように」と。
973. (967) 盗みを為さないように。虚偽を話さないように。動くものと動かないものたち (一切の生類) に、慈愛 〔の心〕で接するように。意に混濁あることを識知するなら、そのときは、「黒き者 (悪魔)の徒である」と、除き去るように。 (13)
「盗みを為さないように。虚偽を話さないように」とは、「盗みを為さないように」とは、ここに、比丘は、与えられていないものを取ることを捨棄して、与えられていないものを取ることから離間した者として、与えられたもの〔だけ〕 を取る者として、与えられたもの 〔だけ〕 を待っている者として、 〔世に〕存するべきであり、盗むことなく清らかと成った自己によって 〔世に〕住むべきである。ということで、「盗みを為さないように」。「虚偽を話さないように」とは、ここに、比丘は、虚偽を説くことを捨棄して、虚偽を説くことから離間した者として、真理を説く者として、真理に従う者として、正直の者として、頼りになる者として、世〔の人々〕 にとって言葉を違えない者として、 〔世に〕 存するべきである。ということで、「盗みを為さないように。虚偽を話さないように」。
「動くものと動かないものたち (一切の生類) に、慈愛 〔の心〕で接するように」とは、「慈愛 〔の心〕」とは、すなわち、有情たちにたいする、慈愛、慈愛すること、慈愛あること、思いやり、思いやること、思いやりあること、益を探し求めること、慈しみ、憎悪なき、憎悪なくあること、憤怒なき、善なるものの根元である。「動くものたち」とは、彼らの、〔心の〕 動き (恐れ・渇き)としての渇愛が 〔いまだ〕 捨棄されていない者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔いまだ〕捨棄されていない者たち。何を契機とすることから、動くものたちと説かれるのか。彼らは、恐れ、恐懼し、遍く恐れ、恐怖し、恐慌を惹起する。それを契機とすることから、動くものたちと説かれる。「動かないものたち」とは、彼らの、〔心の〕 動き (恐れ・渇き)としての渇愛が 〔すでに〕 捨棄された者たち、さらに、彼らの、恐怖と恐ろしさが〔すでに〕捨棄された者たち。何を契機とすることから、動かないものたちと説かれるのか。彼らは、恐れず、恐懼せず、遍く恐れず、恐怖せず、恐慌を惹起しない。それを契機とすることから、動かないものたちと説かれる。「動くものと動かないものたちに、慈愛〔の心〕で接するように」とは、かつまた、動くものたちにも、かつまた、動かないものたちにも、慈愛 〔の心〕 で、接するべきであり、充満するべきである。広大で莫大で無量にして怨念 〔の思い〕 なく憎悪 〔の思い〕 なく慈愛〔の思い〕 を共具した心で充満して、 〔世に〕 住むべきである。ということで、「動くものと動かないものたちに、慈愛 〔の心〕 で接するように」。
「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」とは、「そのときは」とは、そのとき。「意に」とは、すなわち、心、意(マノー) 、意図 (マーナサ)、心臓 (心) 、白きもの (認識の領域) 、意 (マノー) 、意の〔認識の〕 場所 (意処 ) 、意の機能 (意根 ) 、識知 〔作用〕( 識 ) 、識知 〔作用〕 の範疇 ( 識蘊) 、それに応じる意の識知 〔作用〕 の界域 ( 意識界 )である。身体による悪しき行ないによって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。言葉による悪しき行ないによって……略……。意による悪しき行ないによって……。貪欲によって……。憤怒によって……。迷妄によって……。忿激によって……。怨恨によって……。偽装によって……。加虐によって……。嫉妬によって……。物惜によって……。幻惑によって……。狡猾によって……。強情によって……。激昂によって……。思量によって……。高慢によって……。驕慢によって……。放逸によって……。一切の〔心の〕汚れによって……。一切の悪しき行ないによって……。一切の懊悩によって……。一切の苦悶によって……。一切の熱苦によって……。一切の善ならざる行作によって、心は、混濁し、掻き乱され、揺らぎ、対立し、揺れ動き、迷走し、寂止ならざるものと成る。「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」とは、心の、混濁の状態を、知るなら、了知するなら、識知するなら、解知するなら、理解するなら。ということで、「意に混濁あることを識知するなら、そのときは」。
「『黒き者の徒 (悪魔)である』と、除き去るように」とは、「黒き者」とは、すなわち、 〔まさに〕その、悪魔、黒き者、君主、終極に至る者、ナムチ、放逸の眷属である。「黒き者の徒であり、悪魔の徒であり、悪魔の罠であり、悪魔の釣針であり、悪魔の餌であり、悪魔の境域であり、悪魔の居住であり、悪魔の境涯であり、悪魔の結縛である」と、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、このようにもまた、「『黒き者の徒である』と、除き去るように」。さらに、あるいは、「黒き者の徒であり、悪魔の徒であり、善ならざるものの徒であり、苦しみの生成であり、苦しみの報いであり、地獄のために等しく転起するものであり、畜生の胎のために等しく転起するものであり、餓鬼の境域のために等しく転起するものである」と、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、このようにもまた、「『黒き者の徒である』と、除き去るように」。
それによって、世尊は言った。
「盗みを為さないように。虚偽を話さないように。動くものと動かないものたち (一切の生類) に、慈愛 〔の心〕で接するように。意に混濁あることを識知するなら、そのときは、『黒き者 (悪魔)の徒である』と、除き去るように」と。
974. (968)忿激と高慢の支配に赴かないように。それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように。そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕 有る者は、確実に征服するように。 (14)
「忿激と高慢の支配に赴かないように」とは、「忿激」とは、すなわち、心の、憤懣、激しい憤懣……略 ([811]参照)……狂暴、暴虐、心が意を得ないことである。「高慢」とは、ここに、一部の者は、他者を軽んじる⸺あるいは、出生によって、あるいは、氏姓によって……略([237]参照)……あるいは、何らかの或る根拠によって。「忿激と高慢の支配に赴かないように」とは、そして、忿激の、さらに、高慢の、支配に赴くべきではなく、そして、忿激を、さらに、高慢を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「忿激と高慢の支配に赴かないように」。
「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」とは、どのようなものが、忿激の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すこと( 非如理作意 ) は、根元である。「〔わたしは〕 存在する」という思量 (我慢 :自我意識) は、根元である。恥 〔の思い〕 なき ( 無慚) は、根元である。 〔良心の〕 咎めなき ( 無愧 ) は、根元である。 〔心の〕 高揚 ( 掉挙)は、根元である。これが、忿激の、根元である。どのようなものが、高慢の、根元であるのか。無明は、根元である。根源のままならずに意を為すことは、根元である。「〔わたしは〕 存在する」という思量は、根元である。恥 〔の思い〕 なきは、根元である。 〔良心の〕咎めなきは、根元である。 〔心の〕高揚は、根元である。これが、高慢の、根元である。「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」とは、そして、忿激の、さらに、高慢の、根元を、掘り尽くして、取り出して、等しく取り出して、摘出して、等しく摘出して、捨棄して、除去して、終息を為して、状態なきへと至らせて、安立するべきであり、確立するべきである。ということで、「それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように」。
「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「愛しいもの」とは、二つの愛しいものがある。(1) あるいは、有情たちであり、 (2) あるいは、諸々の形成 〔作用〕( 諸行 :形成されたもの・現象世界) である。(1)どのような者たちが、愛しい有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、 〔彼の〕 義 (利益)を欲し、益を欲し、平穏を欲し、束縛からの平安を欲する者たちであり、あるいは、母として、あるいは、父として、あるいは、兄弟たちとして、あるいは、姉妹たちとして、あるいは、子たちとして、あるいは、娘たちとして、あるいは、朋友たちとして、あるいは、僚友たちとして、あるいは、親族たちとして、あるいは、血縁たちとして、〔世に〕 有るなら、これらの者たちが、愛しい有情たちである。(2) どのようなものが、諸々の愛しい形成 〔作用〕であるのか。諸々の意に適う形態、諸々の意に適う音声、諸々の意に適う臭気、諸々の意に適う味感、諸々の意に適う感触である。これらが、諸々の愛しい形成〔作用〕 である。「愛しくないもの」とは、二つの愛しくないものがある。(1) あるいは、有情たちであり、 (2) あるいは、諸々の形成 〔作用〕( 諸行 :形成されたもの・現象世界) である。(1)どのような者たちが、愛しくない有情たちであるのか。ここに、彼にとって、それらの者たちが、 〔彼の〕 義 (利益)なきを欲し、益なきを欲し、平穏なきを欲し、束縛からの平安なきを欲し、生命を奪うことを欲する者たちとして 〔世に〕 有るなら、これらの者たちが、愛しくない有情たちである。 (2) どのようなものが、諸々の愛しくない形成 〔作用〕であるのか。諸々の意に適わない形態、諸々の意に適わない音声、諸々の意に適わない臭気、諸々の意に適わない味感、諸々の意に適わない感触である。これらが、諸々の愛しくない形成〔作用〕である。「確実に」とは、一定の言葉、疑念なき言葉、疑いなき言葉、二様なき言葉、二種なき言葉、必然の言葉、誤解なき言葉、確保する言葉。これが、「確実に」ということになる。「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように」とは、愛しいものと愛しくないものを、快と不快を、安楽と苦痛を、悦意と失意を、好ましいものと好ましくないものを、あるいは、等しく征服している者として征服するべきであり、あるいは、征服している者として等しく征服するべきである。ということで、「そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕 有る者は、確実に征服するように」。
それによって、世尊は言った。
「忿激と高慢の支配に赴かないように。それらの根元をもまた掘り尽くして、安立するように。そこで、また、あるいは、愛しいものを、あるいは、愛しくないものを、〔この世に〕 有る者は、確実に征服するように」と。
975. (969) 智慧を尊んで、善に喜悦ある者となり、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥所における不満〔の思い〕 を打ち負かすように。四つの嘆き悲しみの法 (事象) を打ち負かすように。 (15)
「智慧を尊んで、善に喜悦ある者となり」とは、「智慧」とは、すなわち、智慧、覚知、判別、精査、法 (真理) の判別……略 ([167]参照)……迷妄なき、法 (真理)の判別、正しい見解である。「智慧を尊んで」とは、ここに、一部の者は、智慧を尊んで 〔世を〕歩む⸺智慧を旗とする者として、智慧を幟とする者として、智慧を優位とする者として、判別が多くある者として、精査が多くある者として、見察が多くある者として、正しい見察が多くある者として、明確なる住者として、それを所行とする者として、それが多くある者として、それに尊重ある者として、それに向かい行く者として、それに傾倒する者として、それに傾斜する者として、それを信念した者として、それを優位とする者として。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。
さらに、あるいは、あるいは、赴いているなら、「 〔わたしは〕 赴く」と覚知し、あるいは、立っているなら、「立っている者として、 〔わたしは〕 存している」と覚知し、あるいは、坐っているなら、「坐っている者として、〔わたしは〕 存している」と覚知し、あるいは、臥しているなら、「臥している者として、〔わたしは〕存している」と覚知し、また、あるいは、そのとおり、そのとおりに、作為されたものとして、彼の身体が有るなら、そのとおり、そのとおりに、それを覚知する。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。
さらに、あるいは、前進するとき、後進するとき、正知を為す者として有り、前視するとき、後視するとき、正知を為す者として有り、屈曲するとき、伸直するとき、正知を為す者として有り、大衣と鉢と衣料を保持するとき、正知を為す者として有り、食べるとき、飲むとき、咀嚼するとき、味わうとき、正知を為す者として有り、大小便の行為のとき、正知を為す者として有り、赴くとき、立つとき、坐るとき、眠るとき、起きているとき、語るとき、沈黙の状態のとき、正知を為す者として有る。ということで、このようにもまた、「智慧を尊んで」。
「善に喜悦ある者となり」とは、覚者の随念を所以に、喜悦と歓喜が生起し、善に喜悦ある者となる、ということで⸺法 (教え) の随念と僧団の随念と戒の随念と施捨の随念と天神たちの随念と呼吸についての気づき( 安般念 :呼吸の瞑想) と死についての気づき( 死念 :死の瞑想)と身体の在り方についての気づき ( 身至念:時々刻々の身体の状態についての気づき)と寂止の随念を所以に、喜悦と歓喜が生起し、善に喜悦ある者となる、ということで⸺「智慧を尊んで、善に喜悦ある者となり」。
「それらの危難を除き鎮めるように」とは、「諸々の危難」とは、二つの諸々の危難がある。 (1) そして、諸々の明白なる危難であり、 (2)さらに、諸々の隠蔽された危難である。 (1) ……略 ([48]参照) ……これらが、諸々の明白なる危難と説かれる。 (2) ……略 ([49]参照)……これらが、諸々の隠蔽された危難と説かれる。……略 ([48-69]参照)……。このようにもまた、そこに依拠するもの、ということで、「諸々の危難」。「それらの危難を除き鎮めるように」とは、それらの危難を、鎮静するべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「それらの危難を除き鎮めるように」。
「辺境の臥所における不満 〔の思い〕 を打ち負かすように」とは、「不満」とは、不満 〔の思い〕 、不満なること、歓楽なき 〔思い〕、歓楽しないこと、嫌悪すること、恐慌すること。「辺境の臥所において」とは、あるいは、諸々の辺地の臥坐所における、あるいは、諸々の何らかの或る卓越の善なる法(性質)における、不満を、打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「辺境の臥所における不満〔の思い〕 を打ち負かすように」。
「四つの嘆き悲しみの法 (事象) を打ち負かすように」とは、四つの嘆き悲しみの法 (事象)を、打ち負かすべきであり、遍く打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「四つの嘆き悲しみの法(事象) を打ち負かすように」。
それによって、世尊は言った。
「智慧を尊んで、善に喜悦ある者となり、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥所における不満 〔の思い〕 を打ち負かすように。四つの嘆き悲しみの法 (事象) を打ち負かすように」と。
976. (970)「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」〔という〕 、嘆き悲しみに導く、これらの 〔四つの〕 思考 ( 尋) を、 〔いまだ〕 学びある者 ( 有学 ) は、目印なくして歩む者となり、取り除くように。(16)
「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」とは、「いったい、何を食べようか」とは、何を、 〔わたしは〕 食べようか⸺あるいは、飯を、あるいは、粥を、あるいは、粉 (パン類)を、あるいは、魚を、あるいは、肉を。ということで、「いったい、何を食べようか」。「あるいは、どこで食べようか」とは、どこで、〔わたしは〕食べようか⸺あるいは、士族の家で、あるいは、婆羅門の家で、あるいは、庶民の家で、あるいは、隷民の家で。ということで、「いったい、何を食べようか」「あるいは、どこで食べようか」。
「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」とは、この夜を、苦痛のうちに臥した⸺あるいは、延べ板のうえで、あるいは、座布団のうえで、あるいは、皮革のうえで、あるいは、草の敷物のうえで、あるいは、葉の敷物のうえで、あるいは、藁の敷物のうえで。やってくる夜を、どこにおいて、安楽のうちに臥すのだろう⸺あるいは、臥床において、あるいは、椅子(ベンチ)において、あるいは、敷布において、あるいは、枕において、あるいは、半屋根において、あるいは、高楼において、あるいは、楼房において、あるいは、岩窟において。ということで、「まさに、苦しみのうちに臥した」「今日は、どこで臥そうか」。
「嘆き悲しみに導く、これらの 〔四つの〕 思考 ( 尋) を」とは、「これらの思考を」とは、二つの 〔行乞の〕施食に関係した思考を、二つの臥坐所に関係した思考を。「嘆き悲しみに導く」とは、諸々の悲嘆に導くものを、諸々の嘆き悲しみに導くものを。ということで、「嘆き悲しみに導く、これらの〔四つの〕 思考を」。
「 〔いまだ〕学びある者 ( 有学 )は、目印なくして歩む者となり、取り除くように」とは、「学びある者」とは、何を契機とすることから、学びある者と説かれるのか。〔彼は〕 学ぶ、ということで、「学びある者」。では、何を学ぶのか。(1) 卓越の戒をもまた学び、 (2) 卓越の心をもまた学び、 (3)卓越の智慧をもまた学ぶ。 (1) どのようなものが、卓越の戒の学びであるのか。……略([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。これらの三つの学びを、 〔心を〕傾注している者として学び、 〔あるがままに〕 知っている者として、〔あるがままに〕 見ている者として、 〔あるがままに〕注視している者として、心を確立している者として、学び、信によって信念している者として学び、精進を励起している者として、気づきを現起させている者として、心を定めている者として、智慧によって覚知している者として、学び、証知されるべきものを証知している者として学び、遍知されるべきものを遍知している者として、捨棄されるべきものを捨棄している者として、修行されるべきものを修行している者として、実証されるべきものを実証している者として、学び、習行し、励行し、受持して学ぶ。それを契機とすることから、学びある者と説かれる。取り除きのために、取り除き去りのために、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学びを、〔心を〕 傾注している者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕知っている者として……略……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「〔いまだ〕 学びある者は、取り除くように」。
「目印なくして歩む者となり」とは、どのように、目印ありて歩む者として〔世に〕 有るのか。ここに、一部の者は、家の障害を具備した者として〔世に〕 有り、衆徒の障害を……居住の障害を……衣料の障害を……〔行乞の〕 施食の障害を……臥坐具の障害を……病のための日用品たる薬の必需品(常備薬) の障害を具備した者として 〔世に〕 有る。このように、目印ありて歩む者として 〔世に〕 有る。どのように、目印なくして歩む者として 〔世に〕 有るのか。ここに、一部の者は、家の障害を具備した者ではなく 〔世に〕有り、衆徒の障害を具備した者ではなく……居住の障害を具備した者ではなく……衣料の障害を具備した者ではなく…… 〔行乞の〕施食の障害を具備した者ではなく……臥坐具の障害を具備した者ではなく……病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) の障害を具備した者ではなく 〔世に〕有る。このように、目印なくして歩む者として 〔世に〕 有る。
〔そこで、詩偈に言う〕「マガダに赴いた者たちがいる。コーサラに赴いた者たちがいる。また、一部の者たちは、ヴァッジーの地にある。鹿たちのように、執着なく歩む者たち⸺比丘たちは、目印なき者たちとして〔世に〕 住む。
善きかな⸺ 〔教えとして〕 歩まれたものは。善きかな⸺ 〔教えとして〕善く歩まれたものは。善きかな⸺常に目印なくして 〔世に〕 住むことは。義(意味) を尋ねること、右回り 〔の礼〕 の行為⸺これは、無一物の者にとっての、沙門の資質である」 〔と〕 。ということで⸺
「 〔いまだ〕学びある者は、目印なくして歩む者となり、取り除くように」。それによって、世尊は言った。
「『いったい、何を食べようか』『あるいは、どこで食べようか』『まさに、苦しみのうちに臥した』『今日は、どこで臥そうか』〔という〕 、嘆き悲しみに導く、これらの 〔四つの〕 思考 ( 尋) を、 〔いまだ〕 学びある者 ( 有学 )は、目印なくして歩む者となり、取り除くように」と。
977. (971) そして、食べ物を、さらに、衣を、 〔正しい〕時に得て、彼は、量を知るように⸺ここに、満足を義 (目的) として。彼は、それら(衣食) にたいし 〔自己を〕守り、村においては 〔自己を〕 制して歩み、たとえ、 〔村人の言葉に〕 悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように。 (17)
「そして、食べ物を、さらに、衣を、 〔正しい〕時に得て」とは、「食べ物」とは、飯、粥、粉、魚、肉。「衣」とは、六つの衣料がある。亜麻、木綿、絹、毛、麻、粗麻である。「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕 時に得て」とは、衣料を得て、 〔行乞の〕施食を得て。虚言によってではなく、饒舌によってではなく、予言によってではなく、詐術によってではなく、利得による利得の追求によってではなく、木を与えることによってではなく、竹を与えることによってではなく、葉を与えることによってではなく、花を与えることによってではなく、果を与えることによってではなく、洗粉を与えることによってではなく、塗粉を与えることによってではなく、塗料を与えることによってではなく、楊枝を与えることによってではなく、洗顔水を与えることによってではなく、追従によってではなく、豆汁たること(半煮えの虚言)によってではなく、機嫌取りによってではなく、陰口によってではなく、地相術によってではなく、畜生術によってではなく、人相術よってではなく、占星術によってではなく、使者の派遣によってではなく、使節の派遣によってではなく、使い走りによってではなく、医療行為によってではなく、新築行為によってではなく、〔行乞の〕 食のやりとりによってではなく、施し物のやりとりによってではなく、法(真理)によって、正義によって、得て、獲て、到達して、見出して、獲得して。ということで、「そして、食べ物を、さらに、衣を、〔正しい〕 時に得て」。
「彼は、量を知るように⸺ここに、満足を義 (目的) として」とは、「彼は、量を知るように」とは、二つの契機によって、量を知るべきである。(1) あるいは、納受 〔の観点〕から。 (2) あるいは、遍き受益 〔の観点〕 から。 (1) どのように、納受〔の観点〕 から、量を知るのか。たとえ、僅かのものが施されているときも、〔施してくれた〕 家への思いやりによって、 〔施してくれた〕 家への守護によって、 〔施してくれた〕家への慈しみによって、 〔施物を〕納受する。たとえ、多くのものが施されているときも、身体を維持するものとして、衣料を納受し、腹を維持するものとして、〔行乞の〕 施食を納受する。このように、納受 〔の観点〕 から、量を知る。 (2) どのように、遍き受益〔の観点〕 から、量を知るのか。
根源のままに審慮して 〔そののち〕、衣料を受用する⸺寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて⸺恥〔の思い〕 で隠すべきところ (陰部) を覆うことを義 (目的)として、まさしく、そのかぎりにおいて。
根源のままに審慮して 〔そののち〕 、 〔行乞の〕施食を受用する⸺まさしく、戯れのためではなく、驕りのためではなく、装うことのためではなく、飾ることのためではなく、この身体の、止住のために、存続のために、悩害の止息のために、梵行の資助のために、まさしく、そのかぎりにおいて。「かくのごとく、そして、〔わたしは〕 古い 〔空腹の〕感受を打破するであろうし、さらに、新しい 〔空腹の〕感受を生起させないであろう。そして、 〔生命の〕続行が、わたしに有るであろう⸺かつまた、罪過なき 〔生〕 が、かつまた、平穏の住が」〔と〕 。
根源のままに審慮して 〔そののち〕、臥坐所を受用する⸺寒さの防御のために、暑さの防御のために、諸々の虻や蚊や風や熱や蛇類の接触の防御のために、まさしく、そのかぎりにおいて⸺季節の危難の除去と静坐の喜びを義(目的) として、まさしく、そのかぎりにおいて。
根源のままに審慮して 〔そののち〕 、病のための日用品たる薬の必需品を受用する⸺生起した諸々の病苦の 〔苦痛の〕 感受の防御のために、憎悪なき 〔あり方〕(息災) を最高とするために、まさしく、そのかぎりにおいて。
む。
このように、遍き受益 〔の観点〕から、量を知る。「彼は、量を知るように」とは、これらの二つの契機によって、量を、知るべきであり、了知するべきであり、識知するべきであり、解知するべきであり、理解するべきである。ということで、「彼は、量を知るように」。
「ここに、満足を義 (目的) として」とは、ここに、比丘が、いかなる衣料によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる衣料によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、衣料を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。そして、衣料を得なくても、思い悩まない。さらに、衣料を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる衣料によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕 説かれる。
さらに、また、他に、比丘が、いかなる 〔行乞の〕 施食によっても満ち足りている者として 〔世に〕有る。そして、いかなる 〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって栄誉を説く者であり、さらに、 〔行乞の〕施食を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。 〔行乞の〕施食を得なくても、思い悩まない。 〔行乞の〕施食を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕 その、いかなる 〔行乞の〕施食によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕 説かれる。
さらに、また、他に、比丘が、いかなる臥坐所によっても満ち足りている者として〔世に〕有る。そして、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、臥坐具を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。臥坐具を得なくても、思い悩まない。臥坐具を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる臥坐所によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕 説かれる。
さらに、また、他に、比丘が、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りている者として 〔世に〕有る。そして、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることの栄誉を説く者であり、さらに、病のための日用品たる薬の必需品を因として、不適切で不当な探し求めを起こさない。病のための日用品たる薬の必需品を得なくても、思い悩まない。病のための日用品たる薬の必需品を得ても、拘束されない者として、耽溺しない者として、固執しない者として、危険を見る者として、出離の智慧ある者として、遍く受益する。また、そして、〔まさに〕その、いかなる病のための日用品たる薬の必需品によっても満ち足りていることによって、まさしく、自己を賞揚せず、他者を蔑視しない。まさに、彼が、そこにおいて、能ある者であり、怠けない者であり、正知の者であり、気づきの者であるなら、この者は、「比丘として、過去からのものであり至高のものとされる聖なる伝統において確立した者である」〔と〕 説かれる。ということで、「彼は、量を知るように⸺ここに、満足を義(目的) として」。
「彼は、それら (衣食)にたいし 〔自己を〕 守り、村においては 〔自己を〕 制して歩み」とは、「彼は、それらにたいし 〔自己を〕 守り」とは、衣料にたいし、 〔行乞の〕施食にたいし、臥坐具にたいし、病のための日用品たる薬の必需品にたいし、 〔自己が〕守られた者として、 〔自己が〕 保護された者として、 〔自己が〕 守護された者として、統御された者として。ということで、このようにもまた、「彼は、それらにたいし〔自己を〕 守り」。さらに、あるいは、 〔六つの認識の〕 場所 ( 処) において、 〔自己が〕 守られた者として、〔自己が〕 保護された者として、 〔自己が〕 守護された者として、統御された者として。ということで、このようにもまた、「彼は、それらにたいし〔自己を〕 守り」。
「村においては 〔自己を〕 制して歩み」とは、村においては、 〔自己が〕制された者として、 〔自己が〕 傾念された者として、 〔自己が〕 遍く傾念された者として、 〔自己が〕守られた者として、 〔自己が〕 保護された者として、 〔自己が〕 守護された者として、統御された者として。ということで、「彼は、それらにたいし〔自己を〕 守り、村においては 〔自己を〕 制して歩み」。
「たとえ、 〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」とは、汚されたとして、責められたとして、打たれたとして、誹られたとして、難詰されたとして、批判されたとして、粗暴な〔言葉〕 で、粗剛な 〔言葉〕で、言い返すべきではなく、話し返すべきではなく、罵倒している者に罵倒し返すべきではなく、悩ましている者に悩まし返すべきではなく、言い争いしている者に言い争い返すべきではなく、紛争を為すべきではなく、言争を為すべきではなく、口論を為すべきではなく、論争を為すべきではなく、確執を為すべきではなく、紛争と言争と口論と論争と確執を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、紛争と言争と口論と論争と確執から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕 存するべきであり、制約を離れることを為した心で 〔世に〕 住むべきである。ということで、「たとえ、 〔村人の言葉に〕 悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」。
それによって、世尊は言った。
「そして、食べ物を、さらに、衣を、 〔正しい〕 時に得て、彼は、量を知るように⸺ここに、満足を義 (目的) として。彼は、それら (衣食) にたいし〔自己を〕 守り、村においては 〔自己を〕 制して歩み、たとえ、 〔村人の言葉に〕悩まされたとして、粗暴な言葉を説かないように」と。
978. (972) 〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者 (欲望の対象を求めて歩き回る者)ではなく、瞑想 ( 禅・静慮 :禅定の境地)に専念し、 〔眠らずに〕 多く起きている者として存するように。放捨( 捨 :選択せず差別なき心)に励んで、自己が定められた者となり、 〔誤った〕 考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕 を、断ち切るように。 (18)
「 〔生類を殺さぬように注意深く〕 眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者 (欲望の対象を求めて歩き回る者) ではなく」とは、どのように、眼を投げ放った者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者として、眼の妄動を具備した者として、 〔世に〕 有る。「 〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。 〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである」と、林園から林園へと、庭園から庭園へと、村から村へと、町から町へと、城市から城市へと、国土から国土へと、地方から地方へと、形態を見るために、長き遊行に〔専念する者として〕 、さらに、定めなき遊行に専念する者として、〔世に〕 有る。このように、眼を投げ放った者として 〔世に〕 有る。
さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕 統御されていない者として赴く。象 〔兵〕 を眺めながら、馬 〔兵〕 を眺めながら、車〔兵〕 を眺めながら、歩 〔兵〕を眺めながら、女たちを眺めながら、男たちを眺めながら、少女たちを眺めながら、少年たちを眺めながら、店の内を眺めながら、家の入り口を眺めながら、上を眺めながら、下を眺めながら、方々を眺め見ながら、赴く。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕 有る。
さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成り、付随する特徴を収め取る者と 〔成る〕 。すなわち、眼の機能が統御されず、 〔世に〕住んでいると、諸々の悪しき善ならざる法 (性質) である強欲〔の思い〕 や失意 〔の思い〕が流れ込むことから、これを事因として、その 〔眼〕の統御のために実践せず、眼の機能を守らず、眼の機能における統御を惹起しない。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕 有る。
また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて 〔そののち〕 、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念する者たちとして 〔世に〕 住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物、手鈴、鐃 (シンバル)、銅鑼、奇術、鉄球技、竹棒技、軽業、象の戦い、馬の戦い、水牛の戦い、雄牛の戦い、山羊の戦い、羊の戦い、鶏の戦い、鶉の戦い、棒の戦い、拳の戦い、相撲、模擬戦闘、兵列、軍勢、閲兵、あるいは、かくのごときものである。このようにもまた、眼を投げ放った者として〔世に〕 有る。
どのように、眼を投げ放った者ではなく 〔世に〕 有るのか。ここに、一部の比丘が、眼の妄動ある者ではなく、眼の妄動を具備した者ではなく、〔世に〕 有る。「 〔いまだ〕見られていないものは、見られるべきである。 〔すでに〕見られたものは、等しく超越されるべきである」と、林園から林園へと 〔歩むことが〕なく、庭園から庭園へと 〔歩むことが〕 なく、村から村へと 〔歩むことが〕 なく、町から町へと 〔歩むことが〕なく、城市から城市へと 〔歩むことが〕 なく、国土から国土へと〔歩むことが〕 なく、地方から地方へと 〔歩むことが〕 なく、形態を見るために、長き遊行に 〔専念しない者として〕 、さらに、定めなき遊行に専念しない者として、 〔世に〕 有る。このように、眼を投げ放った者ではなく 〔世に〕 有る。
さらに、あるいは、比丘が、町中へと入り、街路を行き、〔心が〕 統御された者として赴く。象 〔兵〕 を眺めることなく……略 ([1445]参照)……方々を眺め見ることなく、赴く。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく 〔世に〕 有る。
さらに、あるいは、比丘が、眼によって、形態を見て、形相を収め取る者と成らず……略 ([1446]参照) ……眼の機能における統御を惹起する。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく〔世に〕 有る。
また、あるいは、すなわち、或る尊き沙門や婆羅門たちは、諸々の信施の食料を食べて 〔そののち〕 、彼らは、このような形態の演芸の見物に専念しない者たちとして 〔世に〕 住む。それは、すなわち、この、舞踏、歌詠、音楽、見せ物、語り物……略 ([1444]参照)……閲兵、あるいは、かくのごときものである。かくのごとく、このような形態の演芸の見物から離間した者として 〔世に〕 有る。このようにもまた、眼を投げ放った者ではなく 〔世に〕 有る。ということで、「 〔生類を殺さぬように注意深く〕 眼を落とし」。
「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、どのように、足の妄動ある者として〔世に〕有るのか。ここに、一部の比丘が、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、 〔世に〕 有る。林園から林園へと……略 ([1470]参照) ……長き遊行に 〔専念する者として〕、定めなき遊行に専念する者として、 〔世に〕有る。このようにもまた、足の妄動ある者として 〔世に〕 有る。
さらに、あるいは、比丘が、僧団の林園の内にあるもまた、足の妄動ある者として、足の妄動を具備した者として、 〔世に〕 有る。義 (道理) を因とする者ではなく、〔正しい〕 契機を因とする者ではなく、 〔心が〕 高揚した者として、寂止していない心の者として、僧房から僧房へと赴き、精舎から……略([1471]参照) ……かく有り 〔かく〕 無しについての議論を、議論する。このようにもまた、足の妄動ある者として 〔世に〕 有る。
「かつまた、足の妄動ある者ではなく」とは、足の妄動を、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきであり、足の妄動から、離れた者として、離去した者として、離間した者として、離欲した者として、出離した者として、解脱した者として、束縛を離れた者として、〔世に〕 存するべきであり、制約を離れることを為した心で 〔世に〕 住むべきであり、静坐を喜びとする者として、静坐を喜ぶ者として、内なる心の止寂( 奢摩他・止 :集中瞑想)に専念する者として、瞑想を無視しない者として、 〔あるがままの〕 観察( 毘鉢舎那・観 :観察瞑想)を具備した者として、諸々の空家の利用者たる瞑想者として、瞑想を喜ぶ者として、一なることに専念する者として、自らの義(目的) に尊重ある者として、 〔世に〕 存するべきである。ということで、「かつまた、足の妄動ある者ではなく」。
「瞑想 (禅・静慮 ) に専念し、 〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」とは、「瞑想に専念し」とは、二つの契機によって、「瞑想に専念し」。 (1) あるいは、 〔いまだ〕生起していない第一の瞑想の生起のために、専らなる者となり、専念する者となり、専従する者となり、等しく専従する者となり、あるいは、〔いまだ〕生起していない第二の瞑想の……第三の瞑想の……第四の瞑想の生起のために、専らなる者となり、専念する者となり、専従する者となり、等しく専従する者となる。ということで、このようにもまた、「瞑想に専念し」。(2) さらに、あるいは、 〔すでに〕 生起した第一の瞑想を、習修し、修め、多く為し、あるいは、 〔すでに〕生起した第二の瞑想を……第三の瞑想を……第四の瞑想を習修し、修め、多く為す。ということで、このようにもまた、「瞑想に専念し」。
「 〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」とは、ここに、比丘が、昼には、歩行 〔瞑想〕と坐禅 〔瞑想〕 によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質)から、心を完全に清め、夜の初更のあいだ (宵の内) は、歩行〔瞑想〕 と坐禅 〔瞑想〕によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質) から、心を完全に清め、夜の中更のあいだ (真夜中) は、気づきと正知の者として、 〔次に〕起き上がることへの表象に意を為して、足に足を重ねて、右脇をもって獅子の臥を営み (右脇を下にして獅子のように臥す) 、夜の後更のあいだ (明け方) は、歩行 〔瞑想〕 と坐禅〔瞑想〕 によって、諸々の 〔修行の〕 妨害となるべき法 (性質)から、心を完全に清める。ということで、「 〔眠らずに〕多く起きている者として存するように」。
「放捨 (捨 ) に励んで、自己が定められた者となり」とは、「放捨」とは、すなわち、第四の瞑想( 第四禅 ) における、放捨、放捨すること、客観(客観的認識)、心の平静なること、心の安息なること、心が中なることである。「自己が定められた者」とは、すなわち、心の、止住、確立、確定、乱雑なき、散乱なき、乱雑なき意図あること、〔心の〕 止寂 (奢摩他・止 :集中瞑想) 、禅定の機能 (定根 ) 、禅定の力 (定力 ) 、正しい禅定 (正定 )である。「放捨に励んで、自己が定められた者となり」とは、第四の瞑想における放捨に励んで、一境の心ある者となり、散乱なき心ある者となり、乱雑なき意図ある者となり。ということで、「放捨に励んで、自己が定められた者となり」。
「 〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨 〔の思い〕を、断ち切るように」とは、「考え」とは、九つの思考 ( 尋)がある。欲望の思考、憎悪の思考、悩害の思考、親族の思考、地方の思考、不死の思考、他者への憐憫に関係した思考、利得と尊敬と名声に関係した思考、〔自己への〕軽蔑なきことに関係した思考である。これらが、九つの思考と説かれる。諸々の欲望の思考には、欲望の表象への志欲がある。諸々の憎悪の思考には、憎悪の表象への志欲がある。諸々の悩害の思考には、悩害の表象への志欲がある。さらに、あるいは、諸々の考えには、諸々の思考には、諸々の思惟には、無明への志欲があり、根源のままならずに意を為すことへの志欲があり、「〔わたしは〕 存在する」という思量への志欲があり、 〔良心の〕 咎めなきへの志欲があり、 〔心の〕高揚への志欲がある。
「悔恨 (悪作 )」とは、手による悔恨もまた、悔恨となり、足による悔恨もまた、悔恨となり、手と足による悔恨もまた、悔恨となる。適ならざるものについて、適なるものとする了解あること、適なるものについて、適ならざるものとする了解あること、罪ならざるものについて、罪なるものとする了解あること、罪なるものについて、罪ならざるものとする了解あること。すなわち、このような形態の、悔恨、悔恨すること、悔恨あること、心の後悔〔の思い〕 、意の散乱である。これが、悔恨と説かれる。
さらに、また、二つの契機によって、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから。どのように、そして、 〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起するのか。「わたしによって、身体による悪しき行ないが為された」「わたしによって、身体による善き行ないが為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、言葉による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、意による悪しき行ないが為された」……。「わたしによって、命あるものを殺すことが為された」「わたしによって、命あるものを殺すことからの離断が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「わたしによって、与えられていないものを取ることが為された」……。「わたしによって、諸々の欲望〔の対象〕 にたいする誤った行ない (邪淫)が為された」……。「わたしによって、虚偽を説くことが為された」……。「わたしによって、中傷の言葉が為された」……。「わたしによって、粗暴な言葉が為された」……。「わたしによって、雑駁な虚論が為された」……。「わたしによって、強欲〔の思い〕 が為された」……。「わたしによって、憎悪 〔の思い〕が為された」……。「わたしによって、誤った見解が為された」「わたしによって、正しい見解が為されなかった」と、心の後悔〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。このように、そして、〔自己によって〕 為されたことから、さらに、 〔自己によって〕 為されなかったことから、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。
さらに、あるいは、「 〔わたしは〕 諸戒における円満成就を為す者として 〔世に〕存していない」と、心の後悔 〔の思い〕 にして意の散乱たる悔恨は生起する。「〔わたしは〕 諸々の 〔感官の〕機能において門が守られていない者として 〔世に〕 存している」と……略……。「〔わたしは〕 食について量を知らない者として 〔世に〕 存している」と……。「 〔眠らずに〕起きていることに 〔いまだ〕 専念していない者として 〔世に〕 存している」と……。「気づきと正知を 〔いまだ〕具備していない者として 〔世に〕存している」と……。「わたしによって、四つの気づきの確立 (四念住・四念処 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの正しい精勤 (四正勤 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、四つの神通の足場 (四神足 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの機能 ( 五根) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、五つの力 ( 五力) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、七つの覚りの支分 (七覚支 ) が 〔いまだ〕修行されていない」と……。「わたしによって、聖なる八つの支分ある道 (八正道 ・ 八聖道 ) が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、苦痛が 〔いまだ〕 遍知されていない」と……。「わたしによって、集起が 〔いまだ〕 捨棄されていない」と……。「わたしによって、道が 〔いまだ〕 修行されていない」と……。「わたしによって、止滅が 〔いまだ〕 実証されていない」と、心の後悔 〔の思い〕にして意の散乱たる悔恨は生起する。「 〔誤った〕 考えへの志欲を、さらに、悔恨〔の思い〕 を、断ち切るように」とは、そして、 〔誤った〕 考えを、かつまた、 〔誤った〕考えへの志欲を、さらに、悔恨 〔の思い〕とを、断ち切るべきであり、断つべきであり、切断するべきであり、断絶するべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「〔誤った〕 考えへの志欲を、さらに、悔恨 〔の思い〕 を、断ち切るように」。
それによって、世尊は言った。
「 〔生類を殺さぬように注意深く〕 眼を落とし、かつまた、足の妄動ある者 (欲望の対象を求めて歩き回る者) ではなく、瞑想 (禅・静慮 :禅定の境地) に専念し、 〔眠らずに〕 多く起きている者として存するように。放捨 (捨 :選択せず差別なき心) に励んで、自己が定められた者となり、〔誤った〕 考えへの志欲を、さらに、悔恨 〔の思い〕 を、断ち切るように」と。
979. (973) 諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、 〔その言葉を〕 喜ぶように。梵行 (禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱積 〔の思い〕 (嫉妬心) を壊し去るように。限度を超えず、善の言葉を 〔適時に〕 放つように。 〔世の〕 人の論を法(事象) として、 〔あれこれと〕思い考えないように。 (19)
「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕 喜ぶように」とは、「叱責された者」とは、あるいは、師父( 和尚 ) たちが、あるいは、師匠( 阿闍梨 )たちが、あるいは、師父を等しくする者たちが、あるいは、師匠を等しくする者たちが、あるいは、朋友たちが、あるいは、同輩たちが、あるいは、知己たちが、あるいは、道友たちが、〔彼を〕叱責する。「友よ、このことは、あなたにとって相応せざるものです。このことは、あなたにとって至り得ざるものです。このことは、あなたにとって適切ならざるものです。このことは、あなたにとって戒の義(意味) ならざるものです」と。 〔叱責された者は〕気づきを現起させて、その叱責を、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜 (感謝)するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきである。たとえば、年少にして、若く、派手好きで、頭を洗い清めた、あるいは、女が、あるいは、男が、あるいは、青蓮の花飾を、あるいは、ヴァッシカ(ジャスミン) の花飾を、あるいは、アティムッタカの花飾を、得て〔そののち〕、両の手で収め取って、頭の頂きに据え置いて、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきであるように、まさしく、このように、〔叱責された者は〕気づきを現起させて、その叱責を、喜ぶべきであり、大いに喜ぶべきであり、歓喜するべきであり、随喜するべきであり、欲求するべきであり、愛用するべきであり、切望するべきであり、熱望するべきであり、渇望するべきである。
〔そこで、詩偈に言う〕 「諸々の財宝の 〔隠し場所を〕伝授する者のように、 〔わが身の〕 罪過に見ある者 (無自覚の罪過を指摘してくれる者) を、彼を、見るなら、そのような賢者と、 〔過誤を『過誤である』と正しく〕 批判して説く思慮ある者と、親しくするがよい。
そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕 ない。 〔他者を〕教え諭すように。 〔真理を〕 教え示すように。そして、不当なることから〔自己を〕防ぎ護るように。まさに、彼は、正しくある者たちにとって愛しき者と成り、正しからざる者たちにとって愛しからざる者と成る」〔と〕 。ということで⸺
「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕 喜ぶように」。「梵行 (禁欲清浄行) を共にする者たちにたいする鬱積 〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように」とは、「梵行を共にする者」とは、行為を一つとし、誦説を一つとし、学びを等しくする者。「梵行を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕を壊し去るように」とは、梵行を共にする者たちにたいする、打破の心あることを、鬱積の生じることを、破壊するべきであり、五つの心の鬱積(覚者と法と僧団と学びと梵行を共にする者たちにたいする心の鬱積)をもまた破壊するべきであり、三つの心の鬱積をもまた破壊するべきであり、貪欲の鬱積を、憤怒の鬱積を、迷妄の鬱積を、破壊するべきであり、強く破壊するべきであり、等しく破壊するべきである。ということで、「梵行を共にする者たちにたいする鬱積〔の思い〕 を壊し去るように」。
「限度を超えず、善の言葉を 〔適時に〕 放つように」とは、知恵から等しく現起した言葉を放つべきであり、義 (道理) を伴い法 (真理) を伴った〔言葉〕 を、 〔正しい〕時に、理由を有し結末ある言葉を、放つべきであり、解き放つべきである。ということで、「善の言葉を 〔適時に〕 放つように」。「限度を超えず」とは、「限度」とは、二つの限度がある。 (1) そして、時の限度であり、 (2)さらに、戒の限度である。 (1)どのようなものが、時の限度であるのか。時を超え行った言葉を語るべきではない。限度を超え行った言葉を語るべきではない。時の限度を超え行った言葉を語るべきではない。時に達し得ていない言葉を語るべきではない。限度に達し得ていない言葉を語るべきではない。時の限度に達し得ていない言葉を語るべきではない。
〔そこで、詩偈に言う〕「彼が、まさに、時に達し得ていないのに、限度を超えて語るなら、このように、彼は、打ち倒され、 〔地に〕 臥す⸺コーキラ 〔鳥〕の雛のように」と。
これが、時の限度である。 (2)どのようなものが、戒の限度であるのか。貪る者として、言葉を語るべきではない。怒る者として、言葉を語るべきではない。迷う者として、言葉を語るべきではない。虚偽の論を語るべきではない。中傷の言葉を語るべきではない。粗暴な言葉を語るべきではない。雑駁な虚論を、語るべきではなく、言説するべきではなく、発語するべきではなく、提示するべきではなく、語用するべきではない。これが、戒の限度である。ということで、「限度を超えず、善の言葉を〔適時に〕 放つように」。
「 〔世の〕 人の論を法(事象) として、 〔あれこれと〕思い考えないように」とは、「 〔世の〕人」とは、そして、士族たち、そして、婆羅門たち、そして、庶民たち、そして、隷民たち、そして、在家者たち、そして、出家者たち、そして、天〔の神々〕 たち、そして、人間たち。 〔世の〕人の、論のために、批判のために、非難のために、難詰のために、批判のために、不名誉のために、栄誉ならざることの伝播のために、あるいは、戒の衰滅のために、あるいは、習行の衰滅のために、あるいは、見解の衰滅のために、あるいは、生き方の衰滅のために、思い考えるべきではなく、思欲を生起させるべきではなく、心を生起させるべきではなく、思惟を生起させるべきではなく、意を為すことを生起させるべきではない。ということで、「〔世の〕 人の論を法 (事象)として、 〔あれこれと〕 思い考えないように」。
それによって、世尊は言った。
「諸々の言葉で叱責された者は、気づきある者となり、〔その言葉を〕 喜ぶように。梵行 (禁欲清浄行) を共にする者たちにたいする鬱積 〔の思い〕(嫉妬心) を壊し去るように。限度を超えず、善の言葉を 〔適時に〕 放つように。 〔世の〕 人の論を法(事象) として、 〔あれこれと〕思い考えないように」と。
980. (974) そこで、他に、世における、五つの塵があります。それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕 学ぶように。諸々の形態 (色 :眼の対象) と諸々の音声 (声 :耳の対象) にたいする、さらに、諸々の味感 ( 味 :舌の対象) と諸々の臭気 (香 :鼻の対象) と諸々の接触 (触 :身の対象) にたいする、貪り 〔の思い〕 を打ち負かすように。 (20)
「そこで、他に、世における、五つの塵があります」とは、「そこで」とは、句の連鎖、句の交合、句の円満成就、文字の結合、文の接着たること、また、句の順序たること。これが、「そこで」ということになる。「五つの塵」とは、形態の塵、音声の塵、臭気の塵、味感の塵、感触の塵。
〔そこで、詩偈に言う〕 「貪欲は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、貪欲の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕 の教えにおいて住む。
憤怒は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、憤怒の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕 の教えにおいて住む。
迷妄は、塵である。また、そして、塵芥が 〔塵と〕説かれることはない。『塵』とは、これは、迷妄の同義語である。この塵を捨棄して、賢者たちとなり、彼らは、塵を離れ去った〔覚者〕 の教えにおいて住む」と。
「世における」とは、悪所の世における、人間の世における、天の世における、〔五つの〕 範疇の世における、 〔十八の〕 界域の世における、 〔十二の認識の〕場所の世における。ということで、「そこで、他に、世における、五つの塵があります」。
「それらを取り除くために、気づきある者となり、 〔覚者の教えを〕学ぶように」とは、「それらを」とは、形態の貪欲の、音声の貪欲の、臭気の貪欲の、味感の貪欲の、感触の貪欲の。「気づきある者」とは、すなわち、気づき( 念 )、随念、現念、気づきとしての、思念すること、保持すること、列挙すること、忘却なきこと、気づきとしての、気づきの機能( 念根 ) 、気づきの力( 念力 ) 、正しい気づき( 正念 ) 、気づきという正覚の支分( 念覚支 )、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者、所有した者、完備した者、具有した者、完有した者、具備した者は、彼は、気づきある者と説かれる。「学ぶように」とは、三つの学びがある。(1) 卓越の戒の学び、 (2)卓越の心の学び、 (3) 卓越の智慧の学びである。……略 ([141-143]参照)……。これが、卓越の智慧の学びである。「それらを取り除くために、気づきある者となり、 〔覚者の教えを〕学ぶように」とは、気づきある人は、すなわち、形態の貪欲の、音声の貪欲の、臭気の貪欲の、味感の貪欲の、感触の貪欲の、取り除きのために、取り除き去りのために、捨棄のために、寂止のために、放棄のために、安息のために、卓越の戒をもまた学ぶべきであり、卓越の心をもまた学ぶべきであり、卓越の智慧をもまた学ぶべきである。これらの三つの学びを、〔心を〕 傾注している者として学ぶべきであり、 〔あるがままに〕 知っている者として……略 ([144]参照)……実証されるべきものを実証している者として、学ぶべきであり、習行するべきであり、励行するべきであり、受持して行持するべきである。ということで、「それらを取り除くために、気づきある者となり、〔覚者の教えを〕 学ぶように」。
「諸々の形態 (色 ) と諸々の音声 (声 ) にたいする、さらに、諸々の味感 (味 ) と諸々の臭気 (香 ) と諸々の接触 (触 ) にたいする、貪り 〔の思い〕を打ち負かすように」とは、諸々の形態にたいする、諸々の音声にたいする、諸々の臭気にたいする、諸々の味感にたいする、諸々の感触にたいする、貪り〔の思い〕を、打ち負かすべきであり、遍く打ち負かすべきであり、征服するべきであり、覆い尽くすべきであり、完全に奪い去るべきであり、踏みにじるべきである。ということで、「諸々の形態と諸々の音声にたいする、さらに、諸々の味感と諸々の臭気と諸々の接触にたいする、貪り〔の思い〕 を打ち負かすように」。
それによって、世尊は言った。
「そこで、他に、世における、五つの塵があります。それらを取り除くために、気づきある者となり、 〔覚者の教えを〕 学ぶように。諸々の形態 (色 :眼の対象) と諸々の音声 (声 :耳の対象) にたいする、さらに、諸々の味感 ( 味 :舌の対象) と諸々の臭気 (香 :鼻の対象) と諸々の接触 (触 :身の対象) にたいする、貪り 〔の思い〕 を打ち負かすように」と。
981. (975) 比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり、これらの諸法 (事象) にたいする、欲 〔の思い〕を取り除くように。彼は、 〔正しい〕 時に正しく法 (事象) を遍く考察している者、彼は、 〔心が〕専一と成った者、 〔世の〕 闇を打破するでしょう⸺かくのごとく、世尊は〔語った〕 。 (21)
「これらの諸法 (事象)にたいする、欲 〔の思い〕を取り除くように」とは、「これらの」とは、諸々の形態にたいする、諸々の音声にたいする、諸々の臭気にたいする、諸々の味感にたいする、諸々の感触にたいする。「欲〔の思い〕 」とは、すなわち、 〔五つの〕 欲望 〔の対象〕 における、欲望〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 、欲望 〔の対象〕 にたいする貪り〔の思い〕 、欲望 〔の対象〕にたいする愉悦、欲望 〔の対象〕 にたいする渇愛、欲望 〔の対象〕 にたいする愛執、欲望 〔の対象〕にたいする苦悶、欲望 〔の対象〕 にたいする耽溺、欲望 〔の対象〕 にたいする固執、欲望 〔の対象〕 の激流、欲望〔の対象〕 の束縛 (軛 ) 、欲望 〔の対象〕にたいする執取 ( 取 ) 、欲望〔の対象〕 にたいする欲 〔の思い〕 の妨害 ( 蓋) である。「これらの諸法 (事象) にたいする、欲〔の思い〕 を取り除くように」とは、これらの諸法 (事象) にたいする、欲 〔の思い〕を、取り除くべきであり、取り除き去るべきであり、捨棄するべきであり、除去するべきであり、終息を為すべきであり、状態なきへと至らせるべきである。ということで、「これらの諸法(事象) にたいする、欲 〔の思い〕 を取り除くように」。
「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」とは、「比丘は」とは、あるいは、善き凡夫たる比丘は、あるいは、〔いまだ〕 学びある比丘は。「気づきある者」とは、すなわち、気づき、随念……略([33]参照)……正しい気づき、気づきという正覚の支分、一路の道である。これが、気づきと説かれる。この気づきを、具した者、具完した者……略([33]参照) ……彼は、気づきある者と説かれる。
「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」とは、第一の瞑想に入定した者には、 〔五つの修行の〕 妨害 ( 五蓋) から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第二の瞑想に入定した者には、〔粗雑なる〕 思考と 〔微細なる〕想念 ( 尋伺 )から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第三の瞑想に入定した者には、喜悦( 喜 )から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。第四の瞑想に入定した者には、安楽と苦痛( 楽苦 )から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。虚空無辺なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、形態の表象 (色想 ) から、敵対の表象 (有対想 :自己に対峙対立する表象) から、種々なる表象 ( 異想 )から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。識知無辺なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、虚空無辺なる 〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。無所有なる 〔認識の〕 場所に入定した者には、識知無辺なる 〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕 場所に入定した者には、無所有なる 〔認識の〕場所の表象から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。預流たる者には、身体を有するという見解( 有身見 ) から、疑惑〔の思い〕 (疑 ) から、戒や掟への偏執 (戒禁取 ) から、見解の悪習 (見随眠 ) から、疑惑 〔の思い〕の悪習 ( 疑随眠 )から、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕 汚れ ( 煩悩 )から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。一来たる者には、粗大なる欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕( 欲貪 ) という束縛するものから、〔粗大なる〕 敵対 〔の思い〕( 瞋恚・有対 )という束縛するものから、粗大なる欲望 〔の対象〕 にたいする貪り〔の思い〕 の悪習から、 〔粗大なる〕 敵対 〔の思い〕の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕汚れから、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。不還たる者には、微細なる 〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り〔の思い〕 という束縛するものから、 〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕という束縛するものから、微細なる 〔状態〕 を共具した欲望 〔の対象〕 にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習から、〔微細なる状態を共具した〕 敵対 〔の思い〕 の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕汚れから、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。阿羅漢には、形態 〔の行境〕 ( 色界 )にたいする貪り 〔の思い〕 から、形態なき 〔行境〕 ( 無色界 )にたいする貪り 〔の思い〕 から、思量 (慢 ) から、高揚 (掉挙 ) から、無明から、思量の悪習から、生存にたいする貪り 〔の思い〕 の悪習から、無明の悪習から、さらに、それと一なる境位の諸々の 〔心の〕汚れから、さらに、外なる一切の形相から、心は、解き放たれたものとなり、解脱したものとなり、善く解脱したものとなる。ということで、「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり」。
「彼は、 〔正しい〕時に正しく法 (事象) を遍く考察している者」とは、「 〔正しい〕 時に」とは、心が高揚したなら、 〔心の〕 止寂( 奢摩他・止 :集中瞑想)の時である。心が定められたなら、 〔あるがままの〕 観察 ( 毘鉢舎那・観 :観察瞑想) の時である。
〔そこで、詩偈に言う〕 「 〔正しい〕時に、心を励起し、さらに、他 〔の正しい時〕 に、 〔心を〕 制御する。 〔正しい〕 時に、満悦し、〔正しい〕 時に、心を定めるがよい。
彼は、 〔心の〕制止者であり、 〔正しい〕 時の熟知者であり、 〔正しい〕 時に、 〔心を〕放捨する。どのような時に、励起であるのか。どのような時に、制御であるのか。
どのようであるなら、満悦の時であるのか。そして、 〔心の〕 止寂の時は、どのようなものであるのか。心を放捨する時を、 〔心の〕 制止者は、どのように見示するのか。
心が畏縮したなら、励起である。高揚したなら、制御である。快なきに至った心を、まさしく、ただちに、満悦させるがよい。
そのとき、満悦した心が、畏縮せず、高揚せず、 〔そのようなものとして〕 有るなら、そして、それは、 〔心の〕 止寂の時であり、内に、意を喜ばせるがよい。
まさしく、この手段によって、そのとき、定められた 〔心〕 が有るなら、定められた心を了知して、まさしく、ただちに、放捨するがよい。
このように、時を知る慧者となり、時を知る者となり、時の熟知者となり、〔その〕 時 〔その〕時に、心の形相を近しく観るがよい」と。
「彼は、 〔正しい〕時に正しく法 (事象) を遍く考察している者」とは、「一切の形成〔作用〕 は、無常である (諸行無常 ) 」と、正しく法 (事象) を遍く考察している者。「一切の形成 〔作用〕は、苦痛である ( 一切皆苦 ) 」と、正しく法(事象) を遍く考察している者。「一切の法 (事象) は、無我である ( 諸法無我) 」と、 〔正しい〕 時に正しく法 (事象) を遍く考察している者。……略 ([324]参照)……。「それが何であれ、集起の法 (性質) であるなら、その全てが、止滅の法(性質) である」と、正しく法 (事象) を遍く考察している者。
「彼は、 〔心が〕専一と成った者、 〔世の〕 闇を打破するでしょう⸺かくのごとく、世尊は〔語った〕」とは、「専一」とは、一境の心ある者、散乱なき心ある者、乱雑なき意図ある者、 〔心の〕 止寂 ( 奢摩他・止:集中瞑想) 、禅定の機能 ( 定根) 、禅定の力 ( 定力 )、正しい禅定 ( 正定 ) 。ということで、「〔心が〕 専一と成った者」。「彼は、 〔世の〕 闇を打破するでしょう」とは、貪欲の闇を、憤怒の闇を、迷妄の闇を、思量の闇を、見解の闇を、〔心の〕汚れの闇を、悪しき行ないの闇を、盲者を作り為すものを、無眼を作り為すものを、無知を作り為すものを、智慧の止滅あるものを、悩苦を項目とするものを、涅槃ならざるもののために等しく転起するものを、打つであろう、打破するであろう、捨棄するであろう、除去するであろう、終息を為すであろう、状態なきへと至らせるであろう。
「世尊 (バガヴァント)」とは、尊重の同義語。さらに、また、貪欲を滅壊した者 (バッガ)、ということで、「世尊」。憤怒を滅壊した者、ということで、「世尊」。迷妄を滅壊した者、ということで、「世尊」。思量を滅壊した者、ということで、「世尊」。見解を滅壊した者、ということで、「世尊」。棘(渇愛) を滅壊した者、ということで、「世尊」。 〔心の〕 汚れを滅壊した者、ということで、「世尊」。法 (教え) の宝を、分けた (バジ)、区分した、しっかり区分した、ということで、「世尊」。諸々の生存 (バヴァ)の終極を為す者、ということで、「世尊」。身体を修めた者 (バーヴィタ)、戒を修めた者、心を修めた者、智慧を修めた者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、音声少なく、騒音少なく、人の気配なく、人間の絶無なる臥所であり、静坐に適切である、諸々の林地や林野の辺境に、諸々の辺地の臥坐所に親しんだ(バジ) 、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、諸々の衣料や〔行乞の〕 施食や臥坐具や病のための日用品たる薬の必需品 (常備薬) を分有する者 (バーギン)、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、義 (意味) の味を、法(教え) の味を、解脱の味を、卓越の戒を、卓越の心 (瞑想) を、卓越の智慧を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの瞑想( 四禅 ) を、四つの無量(慈・悲・喜・捨の四無量心) を、四つの形態なき 〔行境〕 への入定 (四無色界禅定)を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、八つの解脱 (八解脱 ) を、八つの征服ある 〔認識の〕 場所 ( 八勝処) を、九つの順次の住への入定 ( 九次第定) を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の表象の修行を、十の遍満への入定を、呼吸についての気づき( 安般念 ) という禅定を、不浄〔の表象〕への入定を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、四つの気づきの確立を、四つの正しい精励を、四つの神通の足場を、五つの機能を、五つの力を、七つの覚りの支分を、聖なる八つの支分ある道を、分有する者、ということで、「世尊」。あるいは、世尊は、十の如来の力を、四つの離怖を、四つの融通無礙を、六つの神知を、六つの覚者の法(性質)を、分有する者、ということで、「世尊」。「世尊」という、この名前は、母によって作られたものではなく、父によって作られたものではなく、兄弟によって作られたものではなく、姉妹によって作られたものではなく、朋友や僚友たちによって作られたものではなく、親族や血縁たちによって作られたものではなく、沙門や婆羅門たちによって作られたものではなく、天神たちによって作られたものではない。これは、解脱の終極のものにして、覚者たる世尊たちの、菩提〔樹〕 の根元における一切知者たる知恵の獲得と共に、 〔その〕 実証となる概念 ( 施設) であり、すなわち、この、世尊である。ということで、「彼は、 〔心が〕 専一と成った者、 〔世の〕闇を打破するでしょう⸺かくのごとく、世尊は 〔語った〕 」。
それによって、世尊は言った。
「比丘は、気づきある者となり、心が善く解脱した者となり、これらの諸法 (事象)にたいする、欲 〔の思い〕 を取り除くように。彼は、 〔正しい〕 時に正しく法 (事象)を遍く考察している者、彼は、 〔心が〕 専一と成った者、 〔世の〕 闇を打破するでしょう」と⸺かくのごとく、世尊は 〔語った〕 。
サーリプッタの経についての釈示が、第十六となる。
八なるものの章の十六の経についての釈示は 〔以上で〕 完結となる。
マハー・ニッデーサ聖典は 〔以上で〕 終了となる。
注釈【0】