或る時のことです。かつまた、尊者ムシラは、かつまた、尊者パヴィッタは、かつまた、尊者ナーラダは、かつまた、尊者アーナンダは、コーサンビーに住んでいます。ゴーシタの林園において。そこで、まさに、尊者パヴィッタは、尊者ムシラに、こう言いました。「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞(伝聞)より他に、行相による思索(考証)より他に、見解の納得による受認(受諾)より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。
「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『執取という縁あることから、生存がある』」と。……。『渇愛という縁あることから、執取がある』」と。……。『感受という縁あることから、渇愛がある』」と。……。『接触という縁あることから、感受がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所という縁あることから、接触がある』」と。……。『名前と形態という縁あることから、六つの〔認識の〕場所がある』」と。……。『識知〔作用〕という縁あることから、名前と形態がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕という縁あることから、識知〔作用〕がある』」と。……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。
「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。
「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『執取の止滅あることから、生存の止滅がある』」と。……。『渇愛の止滅あることから、執取の止滅がある』」と。……。『感受の止滅あることから、渇愛の止滅がある』」と。……。『接触の止滅あることから、感受の止滅がある』」と。……。『六つの〔認識の〕場所の止滅あることから、接触の止滅がある』」と。……。『名前と形態の止滅あることから、六つの〔認識の〕場所の止滅がある』」と。……。『識知〔作用〕の止滅あることから、名前と形態の止滅がある』」と。……。『諸々の形成〔作用〕の止滅あることから、識知〔作用〕の止滅がある』」と。……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。
「友よ、ムシラよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ムシラには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。
「まさに、それでは、尊者ムシラは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。このように説かれたとき、尊者ムシラは、沈黙の者と成りました。そこで、まさに、尊者ナーラダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、どうか、わたしが、この問いを得られますように。わたしに、この問いを尋ねたまえ。わたしが、あなたに、この問いを説き明かしましょう」と。「尊者ナーラダは、この問いを得ます。わたしは、尊者ナーラダに、この問いを尋ねます。では、尊者ナーラダは、わたしに、この問いを説き明かしたまえ」と。
「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生という縁あることから、老と死がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生という縁あることから、老と死がある』」と。
「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存という縁あることから、生がある』」と。……略……。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明という縁あることから、諸々の形成〔作用〕がある』」と。
「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生の止滅あることから、老と死の止滅がある』」と。
「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅あることから、生の止滅がある』」と。……略……。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『無明の止滅あることから、諸々の形成〔作用〕の止滅がある』」と。
「友よ、ナーラダよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、尊者ナーラダには、まさしく、各自のものとして、知恵が存在しますか。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。「友よ、パヴィッタよ、まさしく、信仰より他に、嗜好より他に、聴聞より他に、行相による思索より他に、見解の納得による受認より他に、わたしは、このことを知り、わたしは、このことを見ます。『生存の止滅があり、涅槃がある』」と。
「まさに、それでは、尊者ナーラダは、煩悩の滅尽者たる阿羅漢なのですか」と。「友よ、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません。友よ、それは、たとえば、また、砂漠の道に井戸があるとします。そこにあっては、縄も、水瓶も、まさしく、存在しません。そこで、人が、炎暑に焼かれ、炎暑に打ち負かされ、疲弊し、〔水を〕渇望し、〔喉が〕涸渇し、やってくるとします。彼は、その井戸を眺め見ます。まさに、彼には、『水がある』と、まさに、知恵が存在します。しかしながら、身体によって接触して住むことはないでしょう。友よ、まさしく、このように、まさに、『生存の止滅があり、涅槃がある』と、まさに、わたしによって、事実のとおりに、正しい智慧によって善く見られました。しかしながら、煩悩の滅尽者たる阿羅漢として、〔わたしは〕存していません」と。
このように説かれたとき、尊者アーナンダは、尊者パヴィッタに、こう言いました。「友よ、パヴィッタよ、このように説く者であるなら、あなたは、尊者ナーラダのことを、何と説きますか」と。「友よ、アーナンダよ、このように説く者であるなら、わたしは、尊者ナーラダのことを、健全なることより他に、善巧なることより他に、何であれ、説くことはありません」と。〔以上が〕第八となる。
注釈【1】
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