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翻訳【26】

泡沫の団塊の経

或る時のことです。世尊は、アユッジャーに住んでおられます。ガンガー川の岸辺において。そこで、まさに、世尊は、比丘たちに告げました。

「比丘たちよ、それは、たとえば、また、このガンガー川が、大いなる泡沫の団塊をもたらすようなものです。〔まさに〕その、この〔泡沫の団塊〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、泡沫の団塊において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、形態としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、形態において、真髄が存在するというのでしょう。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、秋の時分に、土砂降りとなり、天が雨を降らせていると、水において、水泡が、まさしく、そして、生起し、さらに、止滅するようなものです。〔まさに〕その、この〔水泡〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、水泡において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、感受〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、感受〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、〔四つの〕〔の月〕の最後の月に当たり、日中の時において、陽炎が揺れ動くようなものです。〔まさに〕その、この〔陽炎〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし……略……。比丘たちよ、まさに、どうして、陽炎において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、表象〔作用〕としてあるなら……略……。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、硬材を義(目的)として硬材を探し求める人が、硬材を遍く探し求めるために歩みながら、鋭い斧を携えて、林に入り行くとします。彼は、そこにおいて、真っすぐで新しく、極めて高く生えた、大いなる芭蕉の幹を見ます。〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、根において断ち切ります。根において断ち切って、先端において断ち切ります。先端において断ち切って、樹皮を剥がします。彼は、その〔芭蕉〕の、樹皮を剥がしながら、軟材にさえも遭遇しません。どうして、硬材に〔遭遇するというのでしょう〕〔まさに〕その、この〔芭蕉〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、芭蕉において、真髄(硬材)が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それらが何であれ、諸々の形成〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それらが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、諸々の形成〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

比丘たちよ、それは、たとえば、また、あるいは、幻術師が、あるいは、幻術師の内弟子が、大きな四つ辻において、幻術を見せるようなものです。〔まさに〕その、この〔幻術〕を、眼ある人が、見、凝視し、根源のままに近しく注視するとします。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、幻術において、真髄が存在するというのでしょう。比丘たちよ、まさしく、このように、まさに、それが何であれ、識知〔作用〕としてあるなら、過去と未来と現在の……略……あるいは、それが、遠方にあるも、現前にあるも、それを、比丘は、見、凝視し、根源のままに近しく注視します。それを、彼が、見、凝視し、根源のままに近しく注視していると、まさしく、空虚なるものと思えるでしょうし、まさしく、虚妄なるものと思えるでしょうし、まさしく、真髄なきものと思えるでしょう。比丘たちよ、まさに、どうして、識知〔作用〕において、真髄が存在するというのでしょう。

比丘たちよ、このように見ながら、有聞の聖なる弟子は、形態にたいしてもまた厭離し、感受〔作用〕にたいしてもまた厭離し、表象〔作用〕にたいしてもまた厭離し、諸々の形成〔作用〕にたいしてもまた厭離し、識知〔作用〕にたいしてもまた厭離します。厭離している者は、離貪します。厭離している者は、離貪します。離貪あることから、解脱します。解脱したとき、『解脱したのだ』と、知恵が有ります。……。〔もはや〕他に、この場へと〔赴くことは〕ない』と覚知します」と。

世尊は、この〔言葉〕を言いました。善き至達者は、この〔言葉〕を言って、そこで、他にも、教師は、こう言いました。

〔そこで、詩偈に言う〕「『形態は、泡沫の団塊の如きものである。感受〔作用〕は、泡粒の如きものである。表象〔作用〕は、陽炎の如きものである。諸々の形成〔作用〕は、芭蕉の如きものである。そして、識知〔作用〕は、幻想の如きものである』〔と〕、太陽の眷属(ブッダ)によって説示された。

そのとおり、そのとおりに、凝視し、根源のままに近しく注視するなら、空虚なるものとして、虚妄なるものとして、〔それは〕有る⸺すなわち、それを、根源のままに見るなら。

さらに、この身体に関しても、広き智慧ある者(ブッダ)によって説示された。『三つの法(性質)の捨棄あることから、形態〔としての身体〕を、捨て放たれたものと見よ』〔と〕

すなわち、寿命が、そして、熱と識知〔作用〕が、この身体を捨棄するとき、そのとき、〔身体は〕捨てられ、〔地に〕臥し、〔形態は〕思欲なきものとなり、他の食するところとなる。

このようなものとして相続あるのが、この〔身体〕である。これは、幻想であり、愚者の虚論である。これは、殺戮者と告げ知らされた。ここにおいて、真髄は見出されない。

このように、〔五つの心身を構成する〕範疇を注視するがよい⸺精進に励む比丘となり、もしくは、昼であろうが、夜であろうが、正知と気づきの者として。

一切の束縛を捨棄するがよい。自己の帰依所を作るがよい。頭が燃えているかのように、〔世を〕歩むがよい⸺死滅なき境処(涅槃)を望み求めながら」と。

〔以上が〕第三となる。

注釈【1】