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翻訳【18】

キミラの経

このように、わたしは聞きました。或る時のことです。世尊は、キミラーに住んでおられます。ヴェール林において。そこで、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。

このように説かれたとき、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。再度また、まさに、世尊は……略……。三度また、まさに、世尊は、尊者キミラに告げました。「キミラよ、いったい、まさに、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕」と。三度また、まさに、尊者キミラは、沈黙の者と成りました。

このように説かれたとき、尊者アーナンダは、世尊に、こう言いました。「世尊よ、このための時です。善き至達者たる方よ、このための時です。すなわち、世尊が、呼吸についての気づきという禅定を語るなら、世尊の〔言葉を〕聞いて、比丘たちは、〔それを〕保持するでしょう」と。

「アーナンダよ、まさに、それでは、聞きなさい。善くしっかりと、意を為しなさい。〔では〕語ります」と。「尊き方よ、わかりました」と、まさに、アーナンダは、世尊に答えました。世尊は、こう言いました。「アーナンダよ、では、どのように、呼吸についての気づきという禅定が修められ、どのように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成るのですか〕。アーナンダよ、ここに、比丘が、あるいは、林に赴き、あるいは、木の根元に赴き、あるいは、空家に赴き、〔瞑想のために〕坐ります⸺結跏を組んで、身体を真っすぐに立てて、全面に気づきを現起させて。彼は、まさしく、気づきある者として出息し、まさしく、気づきある者として入息します。……略……。『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学び、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学びます。アーナンダよ、このように、まさに、呼吸についての気づきという禅定が修められ、このように多く為されたなら、大いなる果と成り、大いなる福利と〔成ります〕

アーナンダよ、その時点において、比丘が、あるいは、長く出息しつつ、『〔わたしは〕長く出息する』と覚知するなら、あるいは、長く入息しつつ、『〔わたしは〕長く入息する』と覚知するなら、あるいは、短く出息しつつ、『〔わたしは〕短く出息する』と覚知するなら、あるいは、短く入息しつつ、『〔わたしは〕短く入息する』と覚知するなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕一切の身体の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕身体の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、身体にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、出息と入息です。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕喜悦の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕安楽の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の形成〔作用〕を静息させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、これを、感受にとっての随一のものと、わたしは説きます。すなわち、この、諸々の出息と入息に善くしっかりと意を為すことです。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の感受における感受の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕心の得知ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心の得知ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を大いに歓喜させつつ……略……『〔わたしは〕心を定めつつ……略……『〔わたしは〕心を解脱させつつ、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕心を解脱させつつ、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。それは、何を因とするのですか。アーナンダよ、わたしは、気づきが忘却された者のために、正知なき者のために、呼吸についての気づきの修行を説きません。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、心における心の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

アーナンダよ、その時点において、比丘が、『〔わたしは〕無常の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら……略……『〔わたしは〕離貪の随観ある者として……略……『〔わたしは〕止滅の随観ある者として……略……『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、出息するのだ』と学ぶなら、『〔わたしは〕放棄の随観ある者として、入息するのだ』と学ぶなら、アーナンダよ、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。彼は、すなわち、それが、諸々の強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕の捨棄として有るなら、それを、智慧によって見て、善くしっかりと点検する者と成ります。アーナンダよ、それゆえに、ここに、比丘は、その時点において、諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みます⸺熱情ある者となり、正知の者となり、気づきある者となり、世における強欲〔の思い〕と失意〔の思い〕を取り除いて。

アーナンダよ、それは、たとえば、また、大きな四つ辻において、大いなる砂の塊があるとします。もし、また、東の方角から、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕き、もし、また、西の方角から……略……もし、また、北の方角から……略……もし、また、南の方角から、あるいは、荷車が、あるいは、車が、やってくるなら、その砂の塊を、まさしく、打ち砕きます。アーナンダよ、まさしく、このように、まさに、比丘は、身体における身体の随観ある者として〔世に〕住みながらもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕き、諸々の感受における……略……心における……略……諸々の法(性質)における法(性質)の随観ある者として〔世に〕住みながらもまた、諸々の悪しき善ならざる法(性質)を、まさしく、打ち砕きます」と。〔以上が〕第十となる。

一つの法(性質)の章が第一となる。

その〔章〕のための摂頌となる。

〔そこで、詩偈に言う〕「そして、一つの法(性質)、覚りの支分、そして、単純なるもの、二つの果、アリッタ、カッピナ、灯明、ヴェーサーリーがあり、そして、キミラとともに、〔章となる〕」と。

注釈【1】